#20 ハニー、ハニー、ハニー
ハニー、とサムに呼びかけられて、あたしは緊張した。
たしかにあたしは大学で英文科にいたが、正直なところ、外人が「ハニー」と赤の他人に呼びかけるメンタリティーがわからない。
そういうふうに呼びかけるのは映画なんかで何度も見て知っていたが、実際に自分が呼びかけられると、問答無用で赤面してしまった。
あたしが真っ赤になっているのを見て、サムは実におもしろそうに笑った。
「おれのベーグルのどこが気に入ったのかな、ハニー?」
またハニーと言われた。そんな質問をされても、具体的に答えられるほどあたしの英語力は上級じゃない。
あたしがもじもじしていると、アンドリューはプレーンベーグルとシナモンベーグルを箱の中から取り出して、あたしに差し出した。
「このふたつが私のお気に入りです。これでいいかな?」
あたしは小さくうなずいて、「ありがと・・・」とようやく答えた。
それから、サムに向かい合って、彼の大きな瞳をみつめながら言った。
しどろもどろの英語で。
「あたし、今日、日本に帰ります。だけど、あたし、あなたのベーグルを、忘れません」
大学の英文科にいたとは思えないような、中学英語になってしまった。
サムはじっとあたしをみつめ返した。アンドリューも微笑した目であたしを見ている。あたしは赤くなったままで、ふたりの顔をかわるがわるに見た。
サムはいっそう優しいまなざしになると、あたしに右手を差し出して言った。
「ああ、ありがとう。おれも君のことを忘れないよ、ハニー」
三回目に呼びかけられて、あたしは微笑がこみ上げた。
「あたしは、あなたのベーグルが、大好きです」
素直に言って、グローブのように大きな分厚い手を握った。ぎゅうっと握り返してくる。あたたた・・・・すごい力。骨折しちゃうよ。
「また帰っておいで。ブライアント・パークに」
サムはあたたかな声でそう言ってくれた。
あたしの後ろにサムのベーグルを求める人の列が、すっかりできあがってしまっていた。あたしとアンドリューに手を振って、サムはまた忙しそうにベーグルを売り始めた。
あたしたちは公園の端まで歩いていくと、立ちどまって向かい合った。
「私はもう仕事へ行かなくちゃなりません。でも、会えてよかったです、ナツキ」
アンドリューはもう一度、右手を差し出した。あたしも右手を差し出した。ふたつの手は、しっかりと結び合った。
古い友人に語りかけるように、アンドリューが言った。
「いつかまた会いましょう。ブライアント・パークで・・・いや、代官山で」
あたしは嬉しさを隠しきれない気分になった。
「ええ、ぜひ。店で、お待ちしています。ああ、でも、もしかしたら・・・あたしがここへ帰ってくるほうが先かな、なんて」
半分くらい、本気で言ってしまった。
「ああ、そういえば。これ私の名刺です。もしニューヨークに来られることがあったら、メールください」
そう言って、アンドリューは名刺を取り出した。
真っ白い上質な紙に、「Dayson & Brothers Co.」という社名と、「Andrew Oldum」「Vice President」の文字があった。
「See you next time」
明るく告げて、アンドリューは五番街へ向かって去っていった。
どうしてだかわからない。
けれどあたしは結局、偽マツイとアンドリューとベーグル・サムのことを、つまりブライアント・パークでの出来事を、いっさい怜奈には話さなかった。
こんなに魅力的な人間がニューヨークにいることを、怜奈に否定されたくなかったのかもしれない。
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