#21 あそこじゃない、ここ
なんの波風も立たない、おだやかで、平和で、平凡な日常に、あたしは戻った。
フリーターで、わりかし下流で、彼氏のいない日常に。
でも毎日それなりにおいしいベーグルを食べられて、病気もなく、友だちもいて、そこそこ笑って暮らしている。
不満なんて、ない。おそらく日本の大半のひとが、あたしとおんなじように、そこそこ笑って暮らせているんだ。
政治不信や異常な犯罪は残念ながらなくならないけど、ふつうのひとたちは、なるべくお日様の当たる道を一生懸命に歩いて生きているんだ。
あたしだって、そうだ。別に、不満なんてない。
もっと上に行きたいとか、もっとお金持ちになりたいとか、世界で一番日の当たる場所に住みたい、なんて思わない。
だけど、・・・・・・だけど。
どうしてこんなにぽっかり心が空っぽなんだろう。
「それでどうだったんだ、本場のベーグルは」
ニューヨークから帰ってきて、父に電話をした。パン試食のリポートをする約束だったあたしは、かなり力を込めて報告した。
「もう、めまいがするほどおいしかったよ。
とくに公園で、駅弁スタイルで売り歩いてたおじさんのベーグルは鳥肌立つほどだった」
「そうか」と父は感慨深げにため息をついた。
「何がどう違うんだ?」
「大きさと歯ごたえかな。全然違うの。手のひらをいっぱいに広げたくらいのサイズで、かめばかむほど味が出るみたいなもっちり加減で・・・・・・塩気のないバターをはさむと、これがまた・・・・・・」
話しながら、口の中につばがたまってきた。父のほうも、どうやらそうらしい。
「くそっ。お前、いいなあ。そんなうまそうなパン、食ってきたのか・・・・・・ひとりで」
そう言われて申し訳ない気がする。お金を出したのは父なのに、おみやげすら買えなかったのだ。
「それで、作り方の秘訣はわかったのか」
そう聞かれて、今度ははっとする。
どうすればあの粘り感が出せるのか。おいしさに心奪われて、作り方にまで気持ちが及ばなかった。
「ごめん、すっかり食べることに集中しちゃって。研究してみる」
あたしが恐縮しているのを感じたのか、父は「まあ、いいさ」と慰めるよう口調になった。
「お前はまだ若いんだし、やりたいこともあるんだろう。ベーグル屋でバイトしてベーグルのことばっかり考えてたんじゃ、彼氏もできないぞ」
はあ。それを父親に言われると、けっこうこたえるんだけど。
「ま、今度帰ってきたら、うちのオーブンで挑戦してみてくれ。本場のベーグルとやらを、おれもお母さんも食ってみたいから」
代官山に、西郷山公園という場所がある。高台にあって街を見渡せる、なかなか気持ちのいい場所だ。
夜に行くと、闇にまぎれていちゃつくカップルがうじゃうじゃいて、ひとりものを跳ね返すようなラブバリアーを張りまくってる。
「デイリー・ベーグル」の飲み会では、罰ゲームにひどいのがある。ひとりぼっちでこの公園のベンチに、夜、30分座り続けるっていうやつだ。
あたしはこの罰ゲームに負けて、二回もやらされたことがある。夜の恋人たちがどんなに大胆かをそのとき知った。
もっぱらランチタイムに、あたしは西郷山公園へ出かけていく。
こぎれいなイヌ連れ代官山マダムやおしゃれな子連れヤンママがいる。
時々、女子高生が陽だまりの中で化粧してたりもする。
それなりにのどかで、いい感じに日の当たる風景だ。
だけどあたしは、ついつい思ってしまう。
どうしてここは、あの場所じゃないんだろう?
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