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#55 そうだったんだ・・・・・・

サムの言葉に、あたしは一瞬、体中が凍りついて動かなくなるのを感じた。

もう、ベーグルを作らない。

信じられないひと言だった。

「ちょっと待った。サム、そりゃいったいどういうことなんだ?」
あたしが返す言葉を見失っているのに気づいたのか、松井があたしの背後から問いただした。
「もう二度とベーグルを作らないってのか? 永遠に?」

松井の問いに、サムは寂しそうに笑って答えた。
「ああ、そうだ。永遠に作らない」

あたしの中で、がらがらがら、と何かが勢いよく崩れ落ちていく音がした。

勝手に思い描いていた夢とか未来のようなもの。
それが、あっというまにがれきになってしまったような気がした。

「納得できねーよ、全然。彼女やおれも含めて、あんたのベーグルのファンはたくさんいたはずだろ? それを何の前触れもなしに、もう作るのやめたって言われても・・・・・・」
松井は、あたしの気持ちをそのまま代弁してくれた。

サムは寂しそうな笑みを浮かべたままだったが、ふっと視線をそらした。
「私だってあきらめたくはない。でもな、世の中には不可抗力ってもんがあるんだよ。長年生きてなきゃ、わかんないことかもしれないがね」
そう言って、今度は自嘲するみたいに笑った。

「一ヶ月ほどまえ・・・・・・私のベーグルを食べて子供が具合が悪くなった、って言って、告訴されそうになったんだ」

「告訴?!」
松井とあたしは同時に叫んだ。

驚いた。ベーグルひとつで告訴だなんて・・・・・・。
噂には聞いていたけれど、アメリカ人はすぐ告訴するって。こんな感じで何かにつけ言いがかりをつけてくるんだろうか。

「見ての通り、私はしがないベーグル売りだ。言いたかないが、白人のお金持ちのマダムと争ったところで勝ち目なんかあるわけない。もっとも、弁護士を雇う費用もないからね。どのみち、食中毒の風評なんか立てられたらやっていけないだろ。ブライアント・パーク事務局からも、撤退勧告を出されたんだよ。うちのキッチンに市の保健所の立ち入り検査もあった。なんの証拠もなくても、食品製造販売のライセンス剥奪さ」

サムの告白に、あたしは衝撃を受けた。

そうだったんだ・・・・・・

あたしがのんきに自分の夢をかなえることだけを考えてここまで来るあいだに、そんな壮絶な運命がサムを待ち受けていたんだ。

サムの告白は、この国のいろいろな問題をかいま見せていた。
サムが黒人であること。
貧富の格差は、法廷に持ち込まれても歴然としていること。
公園事務局や保健所の対処にも、明らかな差別を感じる。

ニューヨークなんてだいっ嫌い。
金持ちとWASPばっかりひいきするんだから。

前回ニューヨークに来たとき、怜奈がそう言っていたことを思い出す。

このことだったんだ。

あたしはたまらなく悲しい気持ちになった。

食べればたちまちハッピーな気分にさせてくれる、最高のベーグル。
きっとサム自身もハッピーだから、あんなにおいしいベーグルを作り出せるんだ。
そんなふうに、勝手に思い込んでいた。

「まあ、そんなわけだ。いまの私はベーグルマスターでもなんでもない。ただの失業者さ。君の期待には応えられない。ごめんよ、ハニー」

サムはそう言って、丸い目を細めてあたしをみつめた。いっそうきらきら光る瞳は、うっすらとうるんでいる。

「ごめんだなんて・・・・・・」

あたしはもう何も言えなかった。何も言えずに、首を横に振った。
その拍子に、涙がひとつぶ、こぼれてしまった。

ごめんだなんて。

あたしはこらえきれずに、サムに背中を向けてアパートの階段を夢中で駆け下りた。

サム。あたしのほうこそ、ごめんなさい。
サムの気持ちも状況も確かめもせず、一方的に押しかけてしまった。

なんて向こう見ずなんだろう、あたし。
なんて自分勝手なんだろう、あたし。

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コメント

いつも更新されるのが楽しみですshine
続きが気になるheart01

投稿: HAL | 2008年3月21日 (金) 01時47分

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