#57 カルメンのこと
ニューヨークにやってきて、10年。
もう結構長い期間を、松井はこの街で過ごしていた。
あたしの実家の近所にある高校を卒業してから、ニューヨークのデザインスクールに入ったんだと。最初は英語もさっぱりわからないし、アップもダウンもイーストもウエストも、文字通り右も左もわからない田舎の18歳だった。
あるのはやる気と度胸だけ。まったくいまのあたしと同じだ。
「ティボーラ・カルメンっていう世界的に有名なグラフィックデザイナーがニューヨークにいてさ。反戦とかエイズ差別の撤廃とか貧困撲滅とか、社会的なメッセージを企業広告の中に堂々と盛り込んで、世界をあっといわせた人なんだ。彼にどうしても会いたくて、親を説き伏せて来ちまった」
広告っていうのは、商品を売ってなんぼの世界なのに、そのナントカ・カルメンっていう人は、商品とはなんにも関係ないメッセージを広告で発信したのだ。しかも、限りなくスマートに、かっこよく。
「結果的にその企業の認知度は上がって、社会的に発言する勇気のある企業だってことで爆発的に商品も売れたんだ。同時に、デザインの可能性が一気に広がった。デザインはブランドを、企業のイメージを変える。で、ちょっとだけ世界を変えることもできるかも、って」
松井は学校に通いながら、いつの日かカルメン事務所に勤めることを願っていた。
一度だけ、カルメンが学校に講演にきたことがある。わくわくしながら講堂のいちばん前の席でカルメンの到着を待っていた松井は、憧れのデザイナーがステージに現れた瞬間、あっと息を飲んだ。
カルメンは車椅子に乗って、鼻に酸素チューブをつけ、がりがりに痩せた身体で、満場の学生たちのまえに現れたのだ。
「第一声が、『みなさん、私はエイズ患者です』。会場はしーんとなっちゃってさ。で、そのあとすぐに『けれどみなさんが私にキスしたければ、喜んでお受けしましょう。ただし、この講演が終わったあとに』って言うんだ。みんなどっと笑って、大きな拍手。ああ、この人は生まれつきのクリエイターなんだ、人の心を一瞬でつかむことができるんだ、って、おれ、ものっすごく感動しちゃってさ。すっげえ大事な講演だったのに、もう胸の中がいっぱいになっちゃって。内容はぜんぜん、覚えてないんだよ」
そう言って、少し照れくさそうに笑う。あたしもつられて微笑んだ。
「講演が終わったあと、おれはなんの迷いもなく、いちばんにステージに上がった。それで、へたくそな発音で『ミスター・カルメン。私はいつか、あなたのようなクリエイターになりたい』って、もうどっきどきになって話しかけた。それから、彼のくぼんだほっぺたに、思いきってキスしたんだ」
カルメンは松井の背中をぎゅっとハグして、言った。
私のようになる必要など、まったくないよ。だって、君は君なんだから。
その三ヵ月後に、カルメン他界のニュースが世界中を駆け巡った。『エイズと闘ったカルメン 自らの闘病が最後のメッセージ』という記事が、ニューヨーク・タイムズの一面を飾った。
「結局、カルメンと一緒に仕事することはできなかったけど、あのひと言を聞けて、いまのおれがある気がしてる。おれはおれのやり方で、社会にメッセージを伝えていければいい、と思うようになったんだ。それで、グラフィックデザインからもっと範囲を広げて、企業とか商品のブランディングを手がけてるんだよ」
エコロジー問題や社会的メッセージを発信できる企業と商品。そのイメージづくりに関わる。それがいまの仕事なんだ、と。
「だから、あんたがサムのベーグルに夢中になってるのを見て、なーんかほっとけなくてさ。昔のおれそっくり、っていうか」
松井の話を聞くうちに、あたしの胸はどんどん熱くなっていた。
なんだか、目の奥までじわっと熱くなっちゃって。
涙がこぼれてしまわないように、あたしはちょっと上を向いてから言った。
「あたしなんか・・・・・・レベルが違うよ。そっちは『世界を変えることができるかも』ってすごい仕事でしょ? あたしが熱中してるのは、単なるベーグル一個・・・・・・」
「そのベーグル一個が、あんたの人生を変えたんだろ? それってすごいことなんじゃないか?」
あたしは松井を見た。
あったかい笑顔が、あたしを見ている。
だからあたしは、よけいに、胸が熱くなってしまった。
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コメント
松井結婚おめでとう!
投稿: | 2008年3月28日 (金) 14時54分