#62 伝えたい!
翌日。
松井とあたしは、並んで地下鉄のシートに座っていた。
「あーほんときのうはびっくりした。騒ぐとご近所さんが通報するなんて、冗談だと思ってたよ」
松井がくすくす笑っている。
「その話題、もう十回目くらいなんだけど」
「いやーだってさあ。あのくらいの言い合いなら、あたしだって弟としょっちゅう・・・・・・ニューヨーカーって、もっと大らかなのかと思ってたよ」
少し幻滅して言うと、
「あのアパートは金持ちのヤッピーが住んでるからな。やつら、深夜の騒音にやたら敏感なんだよ。十年前は、あのあたりはもっと大らかで、夜中中騒ぐような面白い住人がいっぱい住んでたんだけど」
松井は薄暗い蛍光灯の並ぶ車内の天井を見上げていった。
「まあ、ニューヨークも変わったんだよ」
それって、松井のあこがれてた街とはもう違うってこと?
そう聞きかけて、飲み込んだ。
ブロンクスのとある駅で降りると、あたしたちはサムのアパートに向かった。
きのう初めてサムを訪ねたとき、あまりの衝撃に、あたしは泣きながら飛び出してしまったんだけど。
ゆうべ、パトカーがきて、あわててアンドリューが退散してから(別に悪い事はなんにもしてないのに、アンドリューはかなり反射的にすたこらと帰ってしまった)、松井とあたしは結局朝まで話しこんだ。
もう一度、サムに会ってきちんと話をするべきだ。
そう言い出したのは、松井のほうだった。
アンドリューが言うように、おしゃれなパンを販売する大きな事業展開っていうのは、別に悪いことじゃない。成功すれば、もちろんそれに越したことはない。
だけど、「水戸一」に流れる、地元に密着した名もない小さな店のスピリット。
それこそが、ほんものの「マスター」を育むんじゃないか。
そのスピリットが、「ベーグル・サム」にはあるんだ。
そんなふうに、松井は熱く語っていた。
松井は話しながら、きっとやつの心の師・ティボーレ・カルメンのことを思い出していたに違いない。
ひたむきに自分の信じた道をつきすすむ情熱。
デザインにもパン作りにも、それは共通しているんだ、と松井は言った。
聞きながら、あたしのほうまで、胸のなかがほかほかに熱くなってしまった。
敬愛するカルメンが松井の母校で講演したときのこと。自分はエイズだ、だけどキスをしにきてほしい、と冒頭で師は言った。
その言葉通りに、勇気を持って松井は壇上に上がり、カルメンのほっぺたにキスしたんだ。
そしてその一瞬が、いまも松井の歩く道を明るく照らしている。
その話に、あたしはどれほど勇気づけられたことだろう。
あたしはもう、決めていた。
サムに、もう一度だけ、頼んでみよう。
「サム。もしも二度とベーグルを作らないって言うのなら・・・・・・」
古ぼけたドアの向こうで立ち尽くすサムに、あたしは思い切って言った。
「お願い、私に教えて。私に、あなたのベーグルを作らせてください」
あたしは言いながら、みるみるうちに、胸が、瞳が、いっぱいに震えるのを感じた。
がんばれ、あたし。
伝えるんだ、この気持ちを。
「あたしにあなたのベーグルを、世界中の人たちに伝えさせてください!」
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