#63 始まり
あたしはサムの返事を待って、ドアの前に突っ立っていた。
返事を聞くまでは、ここから一歩も動かない。
“YES”という返事以外は、聞きたくない。
そういうオーラが、そのとき、あたしから出ていたはずだ。
サムはあたしの顔を一点にみつめていたが、やがて、ははっと笑い声をたてた。
「なんてこった、ハニー。本気なのか?」
「ええ、もちろん」
間髪いれずに、あたしは答えた。
「自信が、あるの。あなたがいままで作ってきたベーグル。その味を忠実に再現できるのは、世界中であたししかいない」
ほんとうに、そう思っていた。
サムのベーグルのファンは、きっとたくさんいただろう。
でも、隅々まで特徴を覚えていて、パンを作る技術を持っていて、しかも再現したい、と強く思っているのは、きっとあたし以外にはいない。
しかも、そのためだけに、あたしはニューヨークまでやってきた。
自分自身の情熱を信じよう。
あたしの思いのぜんぶを、すなおにぶつけてみよう。
そう思いながら、サムに向かい合っていた。
きのう一晩、松井と話したことも、あたしの背中を押してくれていた。
なんのためにここまできたのか。それをもう一度、よく思い出して、サムにぶつけてみろよ。
松井は、そうアドバイスしてくれた。
希望と挫折の両方を味わっている松井の言葉は、けっこうしみた。
そしてきっとサムだって、いま、あたし以上に大きな挫折の中にあるんだ。
あたしは、少しでもサムの力になりたかった。
「あたしは、サムと一緒にベーグルが作りたい。それだけです」
サムはおだやかな笑みを浮かべたまま、じっとあたしをみつめていた。と、大きなまるっこい目が、くるんと動いた。
「さて、どうしようかな。私はこう見えても、かなり厳しいんだよ? ベーグルを作るのに、妥協は1インチだって許さない・・・・・・」
あたしはこくん、とうなずく。
「わかってます」
「朝は早いし、けっこう力仕事だし」
こくん、ともう一度、うなずく。
「露骨に営業妨害するような、心無い人がいるのも事実だ。営業を再開したって、売れる保証はどこにもない」
今度は、あたしはうなずかなかった。
サムはもう一度あたしを見すえて、聞いた。
「それでも、君の決意は変わらない、と約束してくれるかい?」
あたしは、大きくひとつ、うなずいた。
サムもうなずくと、すっと右手を差し出した。
大きな分厚い手。
この手で、もう何十年も、サムはあのベーグルを作り続けてきたんだ。
「よろしく、ナツキ。今日から君は、私のパートナーだ」
そう言われて、あたしは、そっとサムの手を握った。
ぎゅっと握り返してくる、あたたかで力強い手。
あたしは何か言おうとして、言葉が引っかかってしまった。
視界がじわっとにじむ。
次の瞬間、あたしはサムに抱きついていた。
「サム! ありがとう・・・・・・ありがとう」
「おっと、こりゃすごい歓迎だな」
楽しそうにサムが言う。そして、ぎゅっとあたしの背中を抱きしめて、心のこもった声で言った。
「こちらこそありがとう、ナツキ」
ああ、ついに。
ついに、サムとあたしの「ベーグルプロジェクト」が始まることになったんだ。
その一部始終を、ひと言も発することなく、松井は静かに見守ってくれていた。
| 固定リンク







コメント