ココログ小説

目次

「いつかブライアント・パークで」

この世界に、あの場所がある。

どんなに遠く離れていても、なかなか行くことができなくても、あの場所があるから、いつか行こうと決めてるから、今日もがんばろう、って思う。

そういう場所って、誰にもあるんじゃないだろうか。

たとえばそれは、ふるさとの町だったり。
あるいは、大好きな人が住むまちかどだったり。

#1 いつか、あの場所に
#2 初心者な成田
#3 かなり上、わりと下
#4 誘われちゃったけど?!
#5 マンハッタンのオキテ
#6 夢みたいに恋みたいに
#7 NYディナーのしきたり?
#8 NYデリ・デビュー!
#9 ベーグル、じゃない?
#10 運命の場所
#11 世界一のベーグル?
#12 55 MATSUI
#13 何者?
#14 YES-I-DO!
#15 オイスター・バーで
#16 だいっきらいNY!
#17 出会ってしまった・・・
#18 Nice to meet you.
#19 ふたつの場所
#20 ハニー、ハニー、ハニー
#21 あそこじゃない、ここ
#22 公園の恋バナ
#23 信じられない!
#24 来る、来ない?
#25 MATSUIふたたび!
#26 再会
#27 知ってたの?!
#28 ふたりの関係
#29 ふたりの秘密
#30 ひだまり
#31 勝負?!
#32 甘メンズ
#33 デザートビジネス
#34 作品?
#35 ハートなスイーツ
#36 今度こそ、会おう
#37 気が、あります。
#38 企て
#39 ビッグ・ニュース
#40 プロポーズ?
#41 帰省
#42 告白
#43 長いメール
#44 電話
#45 サイコー!
#46 戦略結婚
#47 旅立ち
#48 帰ってきた!
#49 会社訪問
#50 約束
#51 いない?!
#52 ごめん
#53 決意
#54 再会
#55 そうだったんだ・・・・・・
#56 松井のアパート
#57 カルメンのこと
#58 ふたりの出会い
#59 攻防戦
#60 魅惑のパン
#61 水戸一、買った
#62 伝えたい!
#63 始まり
#64 朝の地下鉄
#65 サムのベーグル
#66 メール
#67 試作品
#68 涙の理由
#69 好きだった、よね?
#70 密談
#71 ワルいやつ
#72 泣いた。
#73 完成!
#74 デビュー
#75 二重マル
#76 この気持ち
#77 トウキョウ
#78 かっこよかった!
#79 東京で?
#80 拍手
#81 きっと、いつか

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目次

「いつかブライアント・パークで」

この世界に、あの場所がある。

どんなに遠く離れていても、なかなか行くことができなくても、あの場所があるから、いつか行こうと決めてるから、今日もがんばろう、って思う。

そういう場所って、誰にもあるんじゃないだろうか。

たとえばそれは、ふるさとの町だったり。
あるいは、大好きな人が住むまちかどだったり。

#1 いつか、あの場所に
#2 初心者な成田
#3 かなり上、わりと下
#4 誘われちゃったけど?!
#5 マンハッタンのオキテ
#6 夢みたいに恋みたいに
#7 NYディナーのしきたり?
#8 NYデリ・デビュー!
#9 ベーグル、じゃない?
#10 運命の場所
#11 世界一のベーグル?
#12 55 MATSUI
#13 何者?
#14 YES-I-DO!
#15 オイスター・バーで
#16 だいっきらいNY!
#17 出会ってしまった・・・
#18 Nice to meet you.
#19 ふたつの場所
#20 ハニー、ハニー、ハニー
#21 あそこじゃない、ここ
#22 公園の恋バナ
#23 信じられない!
#24 来る、来ない?
#25 MATSUIふたたび!
#26 再会
#27 知ってたの?!
#28 ふたりの関係
#29 ふたりの秘密
#30 ひだまり
#31 勝負?!
#32 甘メンズ
#33 デザートビジネス
#34 作品?
#35 ハートなスイーツ
#36 今度こそ、会おう
#37 気が、あります。
#38 企て
#39 ビッグ・ニュース
#40 プロポーズ?
#41 帰省
#42 告白
#43 長いメール
#44 電話
#45 サイコー!
#46 戦略結婚
#47 旅立ち
#48 帰ってきた!
#49 会社訪問
#50 約束
#51 いない?!
#52 ごめん
#53 決意
#54 再会
#55 そうだったんだ・・・・・・
#56 松井のアパート
#57 カルメンのこと
#58 ふたりの出会い
#59 攻防戦
#60 魅惑のパン
#61 水戸一、買った
#62 伝えたい!
#63 始まり
#64 朝の地下鉄
#65 サムのベーグル
#66 メール
#67 試作品
#68 涙の理由
#69 好きだった、よね?
#70 密談
#71 ワルいやつ
#72 泣いた。
#73 完成!
#74 デビュー
#75 二重マル
#76 この気持ち
#77 トウキョウ
#78 かっこよかった!
#79 東京で?
#80 拍手
#81 きっと、いつか

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#81 きっと、いつか

黒くて異様に長いストレッチ・リムジンが、JFK国際空港に到着した。

「いやあ、こんなセレブな車、生まれて初めて乗ったけど、なかなかいいもんだなあ。気分はマイケル・ジャクソンだ」

上機嫌でサムが車から出てくる。もちろん、あたしだって生まれて初めてだ。さしずめ気分はパリス・ヒルトンってとこかな。

「『凱旋』して帰ってきたときは、ご希望とあればもっとすごいクルマを手配するよ」

サムに続いて出てきたアンドリューが、楽しそうに言う。まったく、馬車でも用意しかねないなこの人は・・・・・・

「私もこっちの仕事が片付いたら、日本へすぐ飛ぶから。あ、レナからもメールが来てたな。君たちの迎えの車、成田に着けとくって・・・・・・日本での会議のアレンジメントも全部彼女がやってくれて、助かるよ」
アンドリューは、やっぱり新しい冒険でも始まるみたいな口調で、わくわくと言った。

そうなのだ。日本で、怜奈があたしたちを待っている。
あたしたちの新しいプロジェクトを支えるべく。

アンドリューの会社は、今年初めに怜奈のお父さんの会社を破格の好条件で買収し、去年買収したF社と合併させた。
それによって、新しいスーパーの形態―飲食テナントが充実した新型スーパーマーケット―を実現させようとしていた。
その新会社に、なんと怜奈がプロジェクトリーダーとして採用されたのだ。もちろん、アンドリューの采配で。
そしてなんとなんと、私の父までが、引き抜かれたのだった。ベーカリー部門商品開発マネージャーとして。

さすが王子。その後光は関係者の子々孫々(ってか親だけど)まで及ぶという・・・・・・

サムとあたしは・・・・・・というと、特にその新会社と何かをする、ってわけじゃない。

もちろん、アンドリューは「資金の協力をする」「東京に店舗を出す場所を確保する」などなど、色々に言ってくれた。
だけど、あたしとサムは、「じゃあ、いずれ将来的に」と約束をして、まずは自分たちで始めてみることにした。

そう―あたしたちの「◎」が、東京でどのくらい通用するのか、まずは自分たちで試してみたいのだ。

ブライアント・パークでの売り上げ貯金で、あたしたちは小さなワゴン車を買って、そこにオーブンを備え付けて、移動式ショップを始めてみることにした。
車や場所のリサーチは、すでに怜奈とややちゃんが開始してくれている(ややちゃんは、デイリー・ベーグルを辞めてそっち手伝うから!と言ってくれている)。
そして、まずは代官山の西郷山公園の横あたりから、始めてみたいと思っている。

あたしたちの、新しい挑戦。

ニューヨークと、ここで出会ったたくさんの人たちとしばらく別れるのは、とても寂しい。
でも、きっとまた帰ってくる。そのときは、アンドリューが言う通り「凱旋」だ。

出発ロビーで、あたしはきょろきょろ頭を巡らせた。そして、人混みの中、必死に目を泳がせた。

あたしが探していたのは、背番号55。

来てくれないの?
松井秀喜。

きのう、ブライアント・パークで別れ際に「今夜は徹夜で仕事になるかも」と言っていた。あたしは最後に、いっぱいいっぱい、話がしたかった。
そしてもしも、一瞬でも勇気が湧いたなら、その瞬間を逃さず、告げよう、と心に決めていた。

好き、とひと言。

一晩中、どきどきして待った。けれど、何時になっても、朝になっても、結局松井は帰ってこなかった。

あたしは、ちょっとだけ神様を恨んだ。
こんなにまじにどきどきして待ってたのに。ひどいよ神様、って。
でも、すぐに思い返した。

いや、違う。これは、また帰ってこい、っていう神様のはからいなんだ。
もう一度、この懐かしい街に帰ってこれたら。
それが、そのときなんだ。

「あれ。あそこにいるの、ヒデキじゃない?」

レベッカが、人混みの向こうを指差した。あたしは夢から覚めたみたいに、レベッカのブロンズのネイルが指す先を見た。

いた。あいつだ。

松井がベーグルスタンドに立って、ベーグルをかじっている。あたしたちをみつけて、軽く手を挙げて合図している。
サムとアンドリューは、一緒に笑い出した。

「ったく。この期に及んでベーグル食べてるのか、お前は」

アンドリューがさもおかしそうに言う。

松井は食べかけのシナモンベーグルを一気食いして、「これ、なかなかうまいぞ」と言った。

いつも通りだ。まったく、いつも通りの松井。
ひょうひょうとして、ちょっととぼけて、楽しげな、背番号55。

「来て、くれたんだ・・・・・・」
あたしはようやく、そう言った。
嬉しかった。涙が出るほど。

松井はあたしをじっと見ていたが、茶色い紙袋をあたしに向かって、ほら、と差し出した。

「飛行機の中で食えよ」

あたしは黙って、紙袋を受け取った。
ほんのりと、あったかい。あたしはそれを、胸にぎゅっと抱いた。

「ありがとう」

そうつぶやくのが、せいいっぱいだった。

松井は、ふっと笑顔になった。
口もとに、パンくずがついている。あたしは、ぷっと噴き出した。

「なんだよ。人の顔みて何笑ってんだよ」

なぜだかあたしは、笑いが止まらなくなった。笑いすぎて、泣き出しそうだった。

ほんと、キマんないやつ。
最後まで、デリカシーのないやつ。
どこまでも、あったかくて、大きいやつ。

やっぱり、あたしは、この人が・・・・・・

・・・・・・・大好きだ。世界で、いちばん。

もうどれくらい、飛んだだろうか。

照明を消したキャビン、あたしの隣で、サムはすやすやと眠っている。大きな体を狭いシートに突っ込むようにして、だけど不思議なくらい平穏な寝顔で。

初めてニューヨークへ行ったときのことを、あたしはふいに思い出す。
確かあのとき、あたしはすっかり興奮して、ちっとも眠れなかったんだ。

そうして着いたニューヨークで、あたしはブライアント・パークにたどりついた。
そして、出会ったんだ。
サムに、アンドリューに・・・・・・松井に。

こっそり、茶色の紙袋を取り出す。がさごそ、開けてみる。
プレーンベーグルが、ひとつ、入っていた。取り出してみる。

半分にスライスされたベーグル。真ん中に、紙ナプキンが挟まっている。

あれ・・・・・・?

ナプキンには「◎」が印刷されている。その横に、走り書きがある。

ちゃんと帰ってこい
ブライアント・パークに、
じゃなくて

おれのところに。


ほんのり、バターの香りがあたしを包む。
こぼれそうになった涙を、あたしはあわてて飲み込んだ。

東京に着いたら、すぐに電話をしよう。

あのね松井。言いそびれたひと言が、あるんだ。

だからそれを告げるために、あたし帰るから。
そのひと言を、あなたにきっと告げるから。

それが、そんなに遠くない未来でありますように。

きっと、いつか・・・・・・ブライアント・パークで。


◎END◎

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#80 拍手

春がきた。

冷たく凍えるマンハッタンの寒風を耐え抜いたブライアント・パークの木々が、いっせいに芽吹く。
ニューヨークのおしゃれな女の子たちが、いっせいにコートを脱ぎ捨ててさっそうと歩く。
公園の陽だまりで、学生たちが本を広げる。
春がきた!と街中が、声に出して喜んでいるような、春のいちばん初めの日。

「サムとナツキのベーグル 本日よりしばらく休業」

そう書いたバナーをディスプレイボックスに下げて、サムとあたしは、いつもどおりブライアント・パークの片隅に立った。

あたしたちの前に、ものすごい行列ができている。
列は42丁目のストリートから1ブロック先まで続いている。レベッカがカウンターで数えて、開店直前に知らせに来てくれた。

その数、500人。

あたしとサムは顔を見合わせて笑った。ぴったり、500個の「トウキョウ」を作って持ってきてあった。

「来てくださって、ありがとうございます」

あたしは、朝5時から並んで待っていた、という、一番乗りの学生の男の子に「トウキョウ」を手渡して、ぺこりと頭を下げた。彼もぺこりと頭を下げて、「アリガト、トウキョウ」と日本語で返してくれた。

「これで終わりじゃないのよね?」
何番目かに「トウキョウ」を手渡した女の人が、名残惜しそうに尋ねた。サムがにっこり笑って答える。
「まさか。ちょっとのあいだ、臨時休業ですよ。そう遠くないうちに、必ず再開します」
「きっとよ」と、彼女が念を押す。

「戻ってきてくれよ。おれたち、待ってるから」
その後ろに並んでいた何人かが、口々にそう言った。
サムとあたしは、大きくうなずいた。

あたしたちはひとりひとりに「トウキョウ」を渡して、「Thank you 」「アリガトウ」とお礼を言った。

あたしは、もう、胸がとてつもなくいっぱいになった。

あたしの、新しい旅立ち。

あたしは、明日、日本に帰るのだ。
そう、ひとりじゃなく―サムと一緒に。

きっかけは、サムのつぶやきだった。

「ナツキ。私の夢を、聞いてくれるかい?」

冬の初めのある日、ブライアント・パークからの帰り道、サムは突然、あたしに打ち明けた。
なんと、日本に行きたい、と。

私の両親に会いたい。日本のパンの作り方を教わりたい。
そしてできることなら、「トウキョウ」を東京で売ってみたい。
それがいまの自分の夢だ、とサムは話してくれた。

あたしは当然、困惑した。
だって、あたしのお父さんがサムにパン作りを教えるなんて、なんだかとんでもないじゃないか。それに、日本の公園ではベーグルなんか売れないだろうし・・・・・・

「わかってるさ。けど、いまは夢でも、いつかきっとかなえたいんだよ」

サムの目はきらきらと輝いて、未来を信じてやまない少年そのものだった。
その目をみつけたとき、あたしのなかで、ことん、と何かが動いた。

おんなじだ。あたしと、おんなじ。

いつかニューヨークで、ブライアント・パークで・・・・・・って憧れてた、あの頃のあたしと。

誰がなんて言ったって、絶対に実現する! って、あたしはがむしゃらに飛んできてしまったんだ、ここまで―サムのところまで。

いま、あたしの目標だった人が、あの頃のあたしとおんなじまなざしで、日本を目指している。

サムの思い。それは、きっと・・・・・・

あたしの思いでもあるんだ。

あたしは、松井とアンドリューに相談した。
ふたりは黙って聞いていたが、あたしが一通り話し終わると、ふたりで顔を見合わせて微笑んだ。
「待ってました!」と、すぐに松井が言った。
「ようやく、キター!って感じ?」と、アンドリューも言った。
実は、ふたりとも、「サムとナツキのベーグル」は、日本に「里帰り」するべきだ、と最初から考えていたと言う。

アンドリューは「グローバルな展開の最初の一歩は東京だと思っていた」し、松井は「水戸一がなけりゃ始まらなかったわけだからな、『トウキョウ』も、あんたも」なんて言う。

そして、口を揃えて宣言した。

「なるべく早く、実現しよう。おれたちの夢」

あたしはあっけにとられてしまった。

いつのまにか、「サムの夢」じゃなくて、「おれたちの夢」にすり替わっている。

そして、まるで新しい冒険が始まるみたいに、ふたりとも、わくわくしている。

あたしはすっかりあきれてしまった。
そして、とても嬉しく、頼もしく思ってしまった。

「トウキョウ」の里帰り。

それは、あたしたち全員の、新しい目標になった。

最後のひとりに、最後の「トウキョウ」をひとつ、渡し終わったとき。

パチパチパチ、と拍手が起こった。
あたしは顔を上げて、回りを見回した。

公園にいた人たちが、あたしたちを囲んで、あたたかく手を鳴らしてくれていた。
ビジネスマン、清掃のおじさん、ベビーシッター、学生たち、そして―

いつのまにか、アンドリューがいた。レベッカと一緒に、笑顔で拍手してくれている。

その隣に、松井も立っている。すごくいい笑顔で、やっぱりあたたかく、拍手してくれている

あたしは・・・・・・あたしは、涙がいっぱいにこみ上げた。
今回ばかりは、がまんできなかった。ぽろぽろと涙がこぼれて、あたしは思わず両手で顔をおおってしまった。

ありがとう、サム。あたしの師匠。
ありがとう、アンドリュー。あたしの友だち。

ありがとう、松井。
あたしの・・・・・・大好きな、ひと。

ありがとう、ほんとに、ありがとう。
あたしのニューヨーク。

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#79 東京で?

それからの数ヶ月。

ゆっくりと、着実に、あたしたちの世界最小のベーグルショップ「サムとナツキのベーグル」は、ブライアント・パークに、そしてニューヨーカーたちの間に浸透していった。

それは、とてもすてきな広がり方だった。
最初のうちはアンドリューが「CNNにCMを打つ」とか、「Goo●leに協力してもらって全米のブロガーを買収する」とか、冗談とも本気ともつかないことを言って騒いでいた。
でも、そんなやり方は、あたしたちらしくない。

ほんとうに「おいしい」と感じ入ってくれた人が、またもう一度、買いにきてくれるのがいい。
心から「好きだ」と思ってくれた人が、それを誰かに伝えてくれればいい。
そんなふうに、この街に暮らす人の印象に優しく残って、心にそっととどまるのがいい。

そんなふうに、広がってくれれば。

「そんな悠長なこと言ってたら、世界に広がっていかないだろ」
と、アンドリューは、国取り合戦の気分が抜けきれないようだ。

王子の心配をよそに、あたしたちのベーグルの噂は、どんどんマンハッタンに広がっていった。

「驚いた。今朝、私が出勤するときに、もうベーグル待ちの行列ができてたわよ」
レベッカが電話で報告してくる。
オーブンにどんどんベーグルを滑り込ませながら、サムとあたしは思わず手と手をぱちん、と合わせる。

「さあどんどん焼くぞ。今日は『トウキョウ』100個に挑戦だ!」
「了解です師匠!」

あたしはその夏、本気で日焼けした。正確には、オーブン焼けと公園焼けの混合焼けで、真っ黒になってしまった。
日焼け止めなんか、汗ですぐ落ちる。おしゃれなんか、当然してられない。結構、女子としては代官山時代以上になさけない。

こんなあたしは、いったい、松井の目にはどんなふうに映っているんだろう。

松井とあたしの関係は、ベーグルショップをオープンしてからも、何一つ変わらない。

あいかわらず、朝6時起きであたしに付き添って、ブロンクスのサムのアパートまで通っている。

地下鉄のシートに腰掛けて、「ニューヨークタイムズ」で大リーグ情報を読んで、勝った負けたと騒いでいる。

あたしの作った「トウキョウ」を、毎朝いちばんに、二個予約する。ジーンズのポケットから、皺くちゃの5ドル札を出して、あたしに渡す。
「いいよいいよ」
と言って、受け取らないものなら、まじに怒り出す。
「そういうのは、だめだ。これはこれ、それはそれ」
そんなふうに言って、あたしの手にお札を握らせる。
おかげで毎朝、ほんの一瞬触れ合う手と手に、あたしはどぎまぎするはめになる。

こんな感じが、いいな。

あいつと、あたし。
ドラマチックな進展がなくたって、「好きだ」って抱きしめられなくたって。

こんなふうに、ちょっとだけ気持ちのいい距離感があって。
言葉にはできなくても、心だけ寄り添わせる。
そんなのが、いい。

だけど、もしも。

松井に好きな女の子ができたら、あたしはそれをすんなり受け止められるかな。

それはちょっと・・・・・・いや、かなり・・・・・・ううん、ぜったい、いやだッ!!

ブライアント・パークの木々が黄金色に輝き始める季節。
あたしたちのベーグルショップは、マンハッタンの人たちにあたたかく受け入れられ、定着した。

常連さんも増えた。
同僚の分まで買出しにくるビジネスマン、新しいベーグルのアイデアあれこれ持ちかけるマーサ・スチュアートみたいな主婦、毎週カントリーソングを近くで奏でる学生。
そして、けっこう増えた「トウキョウマニア」な人たち。

「ヤキソバベーグルがすっごい好評なんだ。東京で売り出しても、いけるかも」

週に一回、父に電話をするとき、あたしはいつも「トウキョウ」の話を持ち出した。

「ニューヨークで売ってる『トウキョウ』ねえ。おもしろいもんだな」

父は楽しそうに応える。製パン工場での仕事にも慣れて、それなりに充実して働いているみたいだ。

「お父さんの工場でも、作ってみたら?」
そう持ちかけると、
「いや、おれは商品開発に口を出せる立場じゃないし。それに、そんなにヒットしてるんなら、いつかこっちに持って帰れよ。お前自身で」
そんなふうに言う。

東京で、トウキョウかあ。

あたしはなんだか、夢みてる気分になる。

いつか、ブライアント・パークで、世界一のベーグルを売る。
そう思い続けて、サムの努力と仲間の協力もあって、とうとう実現した。

いつか、東京で、自分が作ったベーグルを売る日がくるのかな。

そんなふうに思って、ちょっと愉快になった。

それが現実になるなんて、そんなにたやすく想像はしなかったんだけど。

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#78 かっこよかった!

衛生局?

あたしはサムを見た。
サムはこわばった笑顔を作って、「ええ、私がサム・ジョーンズですが」と、緊張気味に答えた。

「ここでの飲食物の販売には許可がいる。確か、君は以前、不衛生なものを売って消費者が被害を受けたと報告を受けているが?」

「それは・・・・・・」と、サムは言いよどんだ。

「許可証はこの通りです」

松井がサムのバッグから書類を取り出して、いきなり男の前に突き出した。

「営業も今日から開始すると届け、認可を得ています。それから、さっきあなたが言った『不衛生なものを売って消費者が被害を受けた』という話。なんの根拠もない。取り消してください」

男たちは鋭い目で松井をにらんだ。
「君は、誰だね? 共同経営者か?」

「パートナーです」

松井ははっきり言って、あたしの肩をぐいっと抱き寄せた。
思わず、どきっとする。

「サムも、彼女も、おれの大切なパートナーです。何か言いたいことがあるならば、連帯責任者であるおれに言ってください」

うわ・・・・・・ちょ、ちょっと待って。

な、なんか松井ものすごく、かっこよくないか?!

「それを言うなら、私もパートナーです」

きらりん☆と目を光らせて、アンドリューがずいっと前に出てきた。

ってさっき「いまから会議だから、じゃあね~」って帰ったはずなのに、まだいたの?!

「あなたがたは誰の差し金で来たんですか?ニューヨーク市衛生局長のエド・ホックマン? 保険局長のリー・ジョンソン? それとも市長のマイケル・ブルームバーグかな? 先週食事したとき、そんなこと言ってなかったけどなあマイケル・・・・・・」

男ふたりが神妙な顔になるのを見て、アンドリューは、IDを差し出しながら続けた。

「失礼、申し遅れました。私はアンドリュー・オールダム。大手ファンド企業A社の副社長です。最近買収したのはネット検索大手のY社、アパレルのG社、ソフトウェアのN社など・・・・・・市長のマイケルとは『マイルーム』メイトです。あ、そのうちニューヨーク市も買収しようと思っています」

自信たっぷりの王子の発言に、男たちの顔色が変わった。

アンドリューは携帯を取り出すと、
「なんなら、いまからあなたたちのボスに電話しましょうか? 私たちの営業に何か不満でもあるのか、って。えーと、エドの番号は・・・・・・」

「い、いやいやいや! ちょ、ちょっと待ってくださいっ!!」

男たちが携帯を持つアンドリューの手をあわてて押さえた。

アンドリューは涼しい顔で、ぱちんとフラップを閉じた。
「じゃ、文句はないってことですね?」

男ふたりは、黙りこくっている。

あたしは、あっと思い出して、自分のトートバッグの中から、「トウキョウ」をふたつ、取り出した。
それをひとつずつ、彼らに渡して言った。

「サムと私が、心をこめて作りました。ニューヨークでしか食べられない、『トウキョウ』です」

ふたりは顔を見合わせていた。
が、ひとりが先に、ぱくりと食いついた。

もぐもぐもぐ。

「・・・・・・うまい」

そのひと言を聞いて、もうひとりも、ぱくり。もぐもぐもぐ。

「ほんとだ。うまいぞ、これ」
「なんだこの味。食べたことがないな。フライド・ヌードルが入ってるのか?」
「おもしろいな。・・・・・・おお、これはすごい」

うまい、うまい。

ふたりは何度もそう言いながら、ぱくぱく、もぐもぐ、あたしたちの「トウキョウ」を食べた。

ほんとは、完売したらサムと松井に食べてもらおう。そう思って、ふたつだけ取っておいたんだけど。

おいしい。

ニューヨーカーにそう言ってもらうために、あたしは「トウキョウ」を作ったんだ。
だから・・・・・・

衛生局のふたりは、食べ終わってすっかり笑顔になった。
そして、あたしたち全員と握手して、翌日の「トウキョウ」を4個、特別に予約までして帰っていった。

「助かったよ。ありがとう、ヒデキ、アンドリュー、ナツキ」

サムは満面の笑みで、あたしたちの肩を叩いた。

「おい。かっこよかったぜ、王子様」
松井がアンドリューにそう言うと、
「当然だろ。でも、ま。お前もかっこよかったよ、ヒデキ」
嬉しそうに、そう返した。

「でもいちばんかっこよかったのは・・・・・・」松井が言うと、三人とも、同時にあたしを指差した。

「サイコーだったよ、ハニー」
「いかしてたぜ、新・ベーグルマスター」
「なかなかやるね、お嬢さん」

みんなに肩を叩かれたりハグされたりして、あたしはすっかり照れてしまった。

誰かを、みんなをハッピーにできるベーグル。

とうとう、完成したんだ。
あたしは、もう、胸がいっぱいだった。

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#77 トウキョウ

さあ、準備完了。

◎のマークのついたボックスを首から提げたサムとあたしは、並んで立った。
目の前に、松井とレベッカがいる。でもって、松井はビデオカメラをこっちに向けている(頼むからやめてほしい・・・・・・)。

「Are you ready, Natsuki?」
サムが横から声をかける。あたしはサムを見上げて、大きくうなずいた。

「Sure! I’m ready!」

せえの。

「サムとナツキのベーグル、本日開店!」

あたしたちふたりは、声を合わせて高らかに宣言した。

公園内の小道を歩いていたビジネスマンが、芝生の上に寝転がっていた学生が、こっちを振り向いた。
「あっ、こっち見てくれた」
あたしがウキウキすると、
「まだまだ。もう一丁、いくぞ」
サムはそう言って、あのじんとしびれるような、ブルースを歌う調子で叫んだ。

「新作ベーグル『トウキョウ』発売! 世界にただひとつ、ここブライアント・パークにしかないベーグルだよ!」

ヤキソバベーグル「トウキョウ」の名付け親は、松井(ほんとは最初『ミト』にするって、やつは言い張ってたんだけど・・・・・・)。
そして「One & Only @Bryant Park(ただひとつ、ブライアントパークだけで)」というキャッチコピーも一緒に考えてくれた。

世界に、たったひとつ。ここニューヨーク、ブライアントパークだけで・・・・・・
なぜか、「トウキョウ」という名の、ヤキソバをはさんだベーグル。
意味がわからん・・・・・・

「おもしろいね。それ、ひとつください」

と、最初にやってきたのは、なんとアンドリューだった。
あたしたちは顔を見合わせて、こっそり笑いをかみ殺した。

「おおっ、なんだこれは?! フライド・ヌードルがはさんである・・・・・・めずらしいな。どれどれ・・・・・・うわっ。うまっ! うまいよ、これ?!」
とまあ流暢な英語で(当たり前だけど)、しゃあしゃあと・・・・・・

王子の迫真の演技につられて、ひとり、ふたり、足を止める人たち。

「『トウキョウ』? クールな名前だね。それひとつ。あとプレーンも」
「私も『トウキョウ』。同僚に買ってってあげるから、みっつね」
「僕も『トウキョウ』1個と、ブルーベリー1個。クリームチーズも」

 発売開始20分後。

 あたしたちの前に、あっというまに驚くほどの行列ができた。
 サムとあたしは、んもう本気全開で、売って売って売りまくった。
サムが計算して、あたしが袋に詰める。ディスプレイボックスがまたたくまに空になる。それを松井が補充、気がつくと、アンドリューとレベッカまでが、一緒になってベーグルを取り出して並べている。

「ランチタイムはスピードが勝負だからね」と、アンドリューは仕立てのいいシャツの袖を捲り上げて、白い歯をきらめかせて笑っている。
うっ、やっぱまぶしいです王子様。

 発売開始1時間後。

「やったぞ、ナツキ。完売だ」

サムの声がした。

見ると、補充用ボックスはすっかり空っぽになっている。
あたしは、きゃあっ、と飛び上がってサムに抱きついた。

「すごいぞ、ナツキ。『トウキョウ』は、10分で売り切れてたじゃないか」
サムは、信じられない、というように首を振っている。もちろん、あたしにだって信じられなかった。

抱き合って喜び合うあたしたちを、松井が「すげえな、まじで。やるじゃん」と面白そうにあたしたちをビデオに写している。
もう、ほんとやめてってば~・・・・・・

と、きちんとスーツを着たビジネスマンらしきふたりの男が、足早に近づいてきた。

「失礼。ベーグル・サム・・・・・・サム・ジョーンズだね?」

名前を呼ばれて、サムに緊張が走るのがわかった。
男のひとりは、ジャケットの内ポケットからIDを出して見せながら、言った。

「ニューヨーク市衛生局の者だが」

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#76 この気持ち

夏の日差しにきらめく緑の木々。
ランチまえの、少しだけ静かな時間。芝生には、子供連れのベビーシッターや学生たちが、いつもどおり思い思いにくつろいでいる。

ブライアント・パークはニューヨーク市が管轄している公園で、許可なくして物売りはできない。サムは、苦労して許可を取ったのに、たった一度のクレームで営業停止を余儀なくされた。今回、アンドリューや松井が奔走してくれて、ようやく営業再開の許可を得たのだ。

ニューヨークはすべての人々に寛大だけれど、同時に厳しい。それが現実なのだ。

「だけど、負けずに再チャレンジする人を、応援する。それが本当の、ニューヨークなんだ」

ゆうべ、緊張のあまりなかなか寝つけずにキッチンでうろうろしていたあたしに、松井がそんな話をしてくれた。

「サムは黒人だし別に金持ちでもない。正直、ハンディキャップはある。でもそれを乗り越えて何かやろうとする人に、アメリカ人はエールを送るんだよ。アメリカ人ってのは、大ざっぱで調子のいいとこもあるけど、前向きで一生懸命なやつをとにかく応援するんだ」

だからおれはこの国が好きなんだ、と松井は言っていた。

その言葉に、あたしがどれだけ励まされたか。

確かにサムにはハンディキャップがある。でも、あたしのほうがもっとある。

日本人のコムスメ。金なし、コネなし、男なし。って考えただけで情けなくなる。

だけど、前向きで、一生懸命っていうのは、誰にも負けない。だって、それしかないんだし。

松井は、あたしに言わなかった。大丈夫だよ、とも、がんばれよ、とも。

そのかわり、ひと言だけ、言ってくれた。

「やってみろよ」

あたしは大きくうなずいて、答えた。

「うん。やってみる!」


そんなゆうべの会話を心の中で反芻する。

あたしの少し前を、ゴロゴロとカートを引っぱって歩く、松井の背中。

あたしはこの人と、ここで出会った。

それからずっと、どうしてだかわからないけど、気がつくといつも、助けられてる。
そしてこの街に来てからは、いつもそばにいてくれる。
すごく、自然に。

あたしは松井の大きな背中、出会ったときと同じく「55」と背番号の入った紺色のTシャツを、じっとみつめていた。
不思議な気持ちが、あたしをいっぱいに満たしている。

この背中に・・・・・・
これからも、ずっとついていきたい。

「ハーイ、ナツキ。ヒデキ、ここよ~」

一番大きな木の下で、アンドリューの秘書、レベッカが手を挙げて合図する。ベストポジションを確保しておいてくれたのだ。

あたしは、大きく手を振り返した。

「レベッカ~! とうとう、ここまで来たよお!」

「おおっ、なんてこった。見てみろよ、ナツキ」
サムが遠くを指差して笑い出した。その先には、アンドリューの会社が入っているビルが
あった。

『祝◎サムとナツキのベーグル オープン◎』

横断幕が、下がっている。しかも異様に達筆な筆書きの日本語で。

「あーあもう。やめとけって言ったのに」
松井はあきれて笑っている。あたしもレベッカも、つられて大笑いになった。

楽しそうなあたしたちを見て、通り過ぎる人たちが、何事かと眺めている。

さあ、いよいよ店開き。

松井と並んで、ひとつひとつ、ベーグルをディスプレイボックスに入れ替えながら、あたしはふいに気がついた。

さっきからずっとあたしの中をいっぱいにしている、この気持ち。
ううん、違う。この気持ちは、けっこうまえから、とっくの昔から、あたしの中にあったんだ。

この気持ちがあったから、あたしはここまで・・・・・・来れたんだ。

いま、わかった。

あたしは、松井が・・・・・・
・・・・・・好きなんだ。
この人のことが大好きで、ここまで来たんだ。

そう気がついた。

そしたら、なんだか急に、涙がこみ上げてきた。
松井の呼吸や、笑い声や、すぐ近くの体温が、不思議なくらい、せつなく迫ってくる。

へんなの、あたし。
こんなことで、涙が出るなんて。
こんなことが、こんなに嬉しいなんて。
松井が好きだ、ってわかっただけで。

涙を飲み込んで、一生懸命にベーグルを並べながら、あたしは自分にこっそり誓う。

決めた。あたしの、次のステップ。

いつか、きっと告げよう。
この気持ちを、この人に。

この場所で。

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#75 二重マル

◎。

ってこれ、なんだと思う?

二重丸。はい、その通り。
いやいや、そうじゃなくて。
これ、松井がデザインしてくれた「Sam & Nackey’s Bagels(サムとナツキのベーグル)のロゴマーク。二週間近くあれこれ考えて、出てきたのが、これ。

『サムとナツキのベーグル』ブライアント・パーク完全制覇戦略会議(アンドリューが名づけた)で、堂々、発表された。

「おお!これは、ターゲット??」サムがすぐに反応した。
「まあ、そういう意味もある」と松井。自信満々だ。

「鬼太郎のオヤジだ」と、アンドリュー。どんだけ日本通なんですか王子様・・・・・・

「それに、『あーん』って口あけてる顔。だろ?」
アンドリューは、けっこうマンガ脳のようだ。でも、言われてみるとそうも見える。

「そして、ブライアント・パークからニューヨークじゅうに、アメリカ全土に、日本に、世界に広がっていく波紋・・・・・・」

続けて言いながら、遠い目になっている。
うわ・・・・・・いきなり世界視野。さすがです、副社長。

「君はどう見えるんだい、ナツキ?」
サムに聞かれて、うーん、とあたしはうなってみせた。だけど、ほんとは見てすぐに、答えはわかっていた。

「・・・・・・ベーグルのかたち」

あたしが言うと、「その通り!」と、松井は嬉しそうな顔になった。が、すぐに腕組みして、
「ってか、そう思わねえかフツウ? ベーグル屋のマークなんだからさ。的だの鬼太郎だの・・・・・・」
ぶつぶつ言っている。あたしたちは、顔を見合わせて笑った。

「でも、ま。全部当たりってとこかな。たくさんの人たちがこのベーグルをターゲットにしてパークにやってくる。あーんと大口開けて食べて、二重丸。でもって、ここから世界に広がっていく・・・・・・」

「鬼太郎はどこに出てくるんだ?」とアンドリューは食い下がっている。けっこう本気みたいだ・・・・・・


そんなわけで、◎のステッカーをいっぱい作って、準備期間中、ベーグルの袋にみんなで貼った。
「これも戦略会議の作業の一環だ!」と、アンドリューもぺたぺた貼ってくれた。けっこう、楽しそうに。

なんだか、信じられなかった。

こうしてニューヨークで、ひとつの目的に向かって、みんなで一緒に作業している。

ブライアント・パークでベーグルを売り出すことが、最初は究極のゴールだったけど。
いまは、大好きな人たちと一緒に、力を合わせて何かをする、そのプロセスこそが、何より嬉しかった。


そんな準備期間を経て、本日。

大きな◎が書いてある箱にベーグルを詰め込んで、あたしたちは3台のキャリーカートに箱を積み上げ、しっかりゴムバンドで固定した。
「初出荷には会社のリムジンを出す」とアンドリューは言ってくれたけど(そしてリムジンにも横断幕を下げるとまで・・・・・・)、サムのもともとの出勤スタイルで、キャリーカートと地下鉄でいくことにした。
そのほうが、ずっと、あたしたちらしい。

「じゃあ、初出荷だ。用意はいいかい、ナツキ?」
サムが言う。大きな目は、いつにも増してきらきら輝いている。
あたしは、大きくうなずいた。

松井はカートを引っぱりながら、あたしたちをビデオカメラで追っかけている。なんでも「メーキングビデオ」を作るんだそうだ。ほんとにもう、やめてってば・・・・・・

「おっ、ナツキ選手。緊張してます」

なんて、ヘンな実況中継まで入れてるし。

「笑って笑って。あ、いい笑顔です」

小学校の入学式に出かけていく気分。なんだか、くすぐったい。

いよいよ、始まるんだ。あたしの、あたしたちのドリームジョブが。

今日、ブライアント・パークで。

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#74 デビュー

一ヶ月後、午前十時。サムのアパート。

「おい、ちゃんと個数確認したか?」
松井の声が背中に飛んでくる。

大きなキャリーボックスには、透明のプラスチックの袋にきれいに包まれて、ベーグルがぎっしり詰め込まれている。

「数えたってば。プレーン30個、チーズ30個、ブルーベリー20個、それに・・・・・・」

「ヤキソバベーグル20個も」
楽しそうに、サムが横から付け足した。

「やっぱり」と松井は不満そうな声を出す。
「ヤキソバベーグル20個じゃ少なすぎだって。『ナツキのベーグル』はそれを看板にしたほうがいいって、何度も言っただろ」

「えーだってさあ。ニューヨーカーがヤキソバベーグルなんて(日本人でも食べたことのないようなシロモノ)受け入れてくれるとはあんまり思えないし・・・・・・」

サムがまた、口をはさむ。
「私も言っただろナツキ? ニューヨーカーは新しいもの好きなんだ。引っ込み思案にならずに、がんがんやっちゃえばいいんだよ」

ってとりあえず20個にしとこう、って言ったのはサムのくせに・・・・・・

「まあ、とにかく」
サムはあたしの白い目を避けるように、両手を勢いよく、ぱん、と合わせた。
「準備万端! いつでも行けるよ、ヒデキ」
「よしきた。じゃ、連絡するぞ」
松井は携帯電話をかけた。

「アンドリューか? こっちは準備OKだ。パークの、いちばんいい場所をスタッフに陣取ってもらってくれよな・・・・・・え、横断幕?」

な、なんですと?!

「ちょっ・・・・・かして!」
あたしはあわてて松井の手から携帯電話を奪った。

「もしもしアンドリュー? 何なの横断幕って?」
「ああナツキ。私の部屋の窓に『祝・ナツキのベーグル オープン』って書いた横断幕を張り出そうかなって思って・・・・・・あ、もちろん英語でだよ?」

あたしはアンドリューの日本語が理解できずに青くなった。
松井はお腹を抱えて笑っている。サムまで一緒に笑い出した。

「えーっやめてよもう! お願いだってば王子様っっ!!」
あたしは赤くなったり青くなったりして、ひとりであたふたしてしまった。

なんて日なんだろう。
なんてとんでもなくて、なんてどきどきして、なんて楽しい日なんだろう。

今日は、あたしのベーグルのデビューの日。
いつか、ブライアント・パークで・・・・・・と思っていた。
でも、もう違うんだ。

いつか、じゃなくて、今日。
今日、ブライアント・パークで。
あたしは、夢のベーグルを売り出すんだ。

サム直伝のベーグルが完成してから、今日まで。どんなベーグルを作っていくべきか、どうやってみんなに知ってもらうのか。あれこれサムと話し合ってきた。
準備に準備を重ねて、今日のこの日を迎えたんだ。

完成してすぐ、松井に食べてもらった。
超どきどきして、なんか告白する気分そのもの、って感じだった。

松井はひと言、「すげえ」と言った。
そのあとすぐに、「ヤキソバはさんでいい?」と言った。

まったく、なんなんだそのリアクションは?!

それから松井は、あたしのベーグルにはオリジナリティがある、だからヤキソバベーグルみたいな変わったオプションもありだと思う、と言ってくれた。

そしてそして、もうひと言、言ってくれたのだ。

おれにも、手伝わせてくれないかな。
「ナツキのベーグル」をみんなに知ってもらうために。

なんだか、告白されたみたいに・・・・・嬉しかった。

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#73 完成!

今度こそ、自分の人生を、自分自身で生きる。

そう宣言して、思いっきり泣いて泣いて泣き明かして、怜奈は日本へ帰っていった。
もとどおり、咲きほころぶ花のような笑顔――いや、それ以上に晴れ晴れと、夏空みたいにさわやかな笑顔になって。

「今度会うときには、夏輝に負けないような夢をみつけて報告するからね」
JFK国際航空で、別れるまぎわに怜奈はそんなふうに言っていた。

「当面は、そうだな・・・・・・アンドリューよりも松井さんよりもすてきな男子をみつけるとこから始めようかなっ」

って全然懲りてませんねお嬢さま・・・・・・

明るく手を振って、怜奈は出発ゲートのむこうへ姿を消した。

アンドリューも松井も、見送りにはこなかった。
ふたりとも、きっと会わせる顔がなかったのだろう。いや、もしかすると、胸がきゅんとなっちゃってたのかもしれない。

ふたりとも、ほんとは怜奈のことを、ちょっぴり好きだったんじゃないかと思う。
だってあたしが男子だったら、やっぱり好きになっちゃってたよ。

だから大丈夫だよ、怜奈。
きっとすぐに、あのふたりよりすてきな男子をみつけられるはずだよ。

そして、怜奈自身の夢も。


さてさて、あたしの夢。
あと一歩、ってところまできてる夢。
土俵際まで攻め込んで、あと一押しで押し出せる夢(ってなんでたとえが相撲なんだ?)。

とにかく。あたしだって、怜奈に負けてられない。

こうなったら、持ってる力のすべてを込めて生地を練るぞ。
でもって感覚の全部を研ぎ澄ましてオーブンに火を入れる。
そしてそして、心のぜんぶを込めて焼き上げる。

あたしのベーグルを食べる人たちの顔を思い描く。

怜奈。あんなに泣いて、「おいしい!」って言ってくれた。でもあれはまだ試作品。もっともっとおいしいのを作ってあげるからね。

お父さん、お母さん。うーんとうなって、ひと言も言葉が出ないくらい、感動的な一品を作ってみせる。でもって、それを捧げちゃうからね。

ややちゃん。「まじぃーっ??!!」って飛び上がっちゃうほどすごいの、作るよ。ふふっ、驚け驚け。

アンドリュー。「これは我が王国の公式の主食にしよう」と言わせてみせよう。なんちて、あはは。

そして・・・・・・松井。

完成したベーグル食べて、なんて言うのかな。
あいつだけは、ちょっと読めない。

「こんなもんか、ふーん」といつもどおりにぶっきらぼうかも。
「なかなかやるじゃん」とか言って、ぽんと肩を叩いてくれるかな。

「うまい」そうひと言、言ってくれるかな。

だとしたら、それがいちばん嬉しいな。
なにより、いちばん。

「・・・・・・ウマイ」

・・・・・・え?

あたしは、オーブンの前で、粉だらけなった顔を上げた。

目の前には、サムが立っている。焼き上がったあたしのベーグルを、いっぱいにほおばっている。

大きくて澄んだ目が、あたしをみつめている。
ほんのり驚きと、いっぱいの喜びが入り混じった目で。

「ウマイヨ、ナツキ。サイコウダ」

サムは、もう一度日本語で言った。
それから「Perfect!」と、短く付け加えた。

それは、あたしがずっとずっと待ち続けていた、ひと言だった。

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#72 泣いた。

息を切らしてたどりついたエレベーターホールで、開いたドアの向こうから現れたのは、怜奈だった。

「あれっ、夏輝? 戻ってきたんだ?」
今度は怜奈が、きょとんとあたしの顔を見ている。あたしは怜奈の腕を引っぱって、ホールの隅へ連れていった。

「怜奈。あ、あのさ・・・・・・アンドリューのことだけど。その、やっぱり・・・・・・」

あきらめたほうがいい。

さっき松井から聞いたそのひと言を、あたしはなかなか口にできなかった。
怜奈は、あたしが次に何か言うのを、じっと待っていた。けれど、あたしはずっともじもじしてしまった。

そのうちに、怜奈は、ふふっといたずらっぽく笑って告げた。

「付き合ってほしい、って言われちゃった」

あたしは、顔を上げて怜奈を見た。その拍子に、は? と口が開いて、そのまま固まってしまった。

怜奈。まんまと、だまされてる・・・・・・

「何もかも、正直に話してくれたよ。父の会社を買収しようとしてること、その情報を得るために、思わせぶりな態度をしてきたこと・・・・・・」

怜奈は、ぽかんとしたままのあたしの顔に向かって、淡々と語った。
「それで、あたしに戦略結婚なんてしてほしくない、って。自分が必ず父の会社を救うから、それを待っててほしい、って。そのプロジェクトに付き合ってほしい。そう言われた」

え・・・・・・

「付き合ってほしい、って、カノジョになってくれ、って意味じゃないの?」

怜奈は首を振った。それから、少し寂しそうな笑顔になった。
「残念ながら」

「そんな、ひどいよ。それじゃ、怜奈の気持ちはどうなるの。結婚するな、って言っておきながら、べつにカノジョになってほしいわけでもない、って・・・・・・・自分勝手すぎない?!」
やっぱり、そのへんは王家の血筋なんだろうか。
あたしはまたしてもバイオレントな行為に及びそうになるのを、ぐっと手を握りしめてなんとかとどめた。

が、意外な言葉が返ってきた。
「ううん。最高の結末、になったと思う」

そして、寂しそうな笑顔を、いつものように花がほころぶような明るい笑顔にすりかえた。

「アンドリューの会社に買収されるなら、父も本望だと思う。いつかは海外の会社と提携して、事業を広げたがってたし。それに、もし買収が成立するなら、あたしはもう、結婚を強いられることもなくなるわけだし」

怜奈の目が、きらきらと光っている。
あたしは握りしめていた拳をほどいて、聞いた。
「じゃあ、婚約破棄・・・・・・するの?」

怜奈は、こくんとうなずいた。

あたしは、なんだか胸がいっぱいになってしまった。

怜奈の思いは、結局、かなわなかった。
アンドリューに受け入れられることもなく、親の決めた相手にも、怜奈は自分から別れを告げる覚悟をしたのだ。

そんな寂しい結末で、ほんとうに怜奈はいいんだろうか。

「あたし、アンドリューに感謝してる」

ロビーへと並んで歩いていきながら、怜奈がぽつりとつぶやいた。

「もしも彼が、買収の件を秘密にして、あたしを受け入れたとしたら・・・・・・もっと悲しい結末になってたよ。全部正直に話してくれて、その上、あたしを自由にしてくれた」

怜奈は、ふと立ち止まった。
大きな瞳から、幾筋も涙を流して、怜奈は立ち尽くしていた。

「夏輝。あたし、今度こそ、生きていけるよね。自分の、自分自身の人生を」

そう言って、あたしに抱きついた。

怜奈は、思いっきり泣いた。
ぴかぴかに磨かれた大理石の床の上、かっこよくスーツを着こなしたビジネスマンが、颯爽と行き交うロビーで。

みっともないほど、すがすがしいほど、怜奈は泣いた。
こっちまで、めちゃくちゃ泣けてくるほどに。

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#71 ワルいやつ

あきらめたほうがいい。

って、どういう意味?
松井、もしかして、怜奈のこと・・・・・・

・・・・・・好き、だったの?

ずうううん・・・・・・・

って、なんなんだ、この音。
あたしの、胸の中。急に重たくなる音だ。
まるで、戦艦級の巨船が、ずっと凪いでいた心の海に進入してきたみたいだ。

松井が、怜奈のことを・・・・・・
松井が・・・・・・

「あきらめたほうがいいな。怜奈ちゃん、アンドリューのこと」

あたしが急激に重たくなっていることにまったく気づきもせずに、さばさばと松井が言った。

え・・・・・・

「ええっ?! 松井が怜奈をじゃなくて?! 怜奈がアンドリューをっ??!!」

文脈不明なことを、あたしは口走った。
松井はきょとんとしている。あたしはたちまちまっかっかになってしまった。

「いやあの、ってか、なんで? なんで怜奈とアンドリューはだめなのっ?!」
あわてて聞いてみた。松井はちょっとフクザツな表情になったが、
「怜奈ちゃんには、言わないでほしいんだけど」
と前置きしてから、白状した。
「アンドリューは、もうずいぶんまえから、怜奈ちゃんのお父さんの会社の買収を狙ってるんだ」

バイシュウ?

今度は、あたしのほうがきょとんとなった。が、すぐに、あっと気がついた。
「それって・・・・・・つ、つまり怜奈を利用して、内部情報を得ようとしてる・・・・・・とか?」

松井は、うなずかなかった。けれど、表情からはすっかり笑みが消えていた。
いつもの松井らしくない、厳しい顔。

「そんな・・・・・・じゃあ、怜奈はだまされたってこと? あんなに好きで、ニューヨークまで飛んできたのに・・・・・・」
「いや。だましたわけじゃないよ。それとなく情報を得る素地は作ったけど、だましたり利用したりしたわけじゃない。あいつはそこまでワルになりきれないやつなんだ」

あたしは、突然思い出した。
アンドリューは、たしか怜奈に、結婚に興味ある? とか聞いたりしてた。
怜奈のバックグランドを、あれこれあたしに聞きもした。
「結婚するのはまだ早い」とも、怜奈に言ったんだ。

気があるようなふりをして、決して一度も「好きだ」とか「付き合おう」とか言わなかった。
それは全部、内部情報を聞き出すための準備だったんだ。

それだけでも、十分ワルじゃないか。

あたしは、右手に握っていた空の紙コップを、ぐしゃっとつぶした(なんでもいいからバイオレントな行為に及んでみたかった)。

「あんのヤロォ・・・・・・ゆるせないっっ!!」

松井が「うわ・・・・・・」とリアルに引くのがわかる。あたしが火炎をしょって立ち上がったのが、やつには見えたに違いない。

「ちょっ・・・・・・おい、どこ行くんだよ?!」

松井の声を振り切って、あたしは走り出した。

許せない。あの、偽王子。
自分に恋心を寄せる女子の気持ちを利用するなんて、王家の人間がすることじゃないっ。
こうなったら、なんとしても怜奈にあきらめさせなくちゃ。

さっきまで怜奈の恋を応援しまくっていたあたしは、いきなり真逆のベクトルに暴走し始めた。

あたしは息を切らして、アンドリューの会社のビルのロビーに飛び込んだ。

すぐにでも、怜奈を連れ出さなくちゃ。
そしてすぐにでも、アンドリューをとっちめてやるッ。

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#70 密談

「うわっ! な、なんで?」

あたしはとんでもなくうわずった声を出してしまった。
だって、なんだかゼツミョーなタイミングじゃないか?!

「なんでって・・・・・・そりゃこっちのセリフだろ。なんであんたがここにいんの?」
「そ、それは・・・・・・」

何人かの人が乗り込んできた。松井はあたしの腕を引っぱって、エレベーターの外へ連れ出した。

あたしは頭の中が真っ白になるくらい、急にドギマギしてしまった。

毎日見ている顔なのに、毎朝送ってもらっているくせに、こういう想定外のシチュエーションでばったり会うと、ドギマギしてしまうのは何故なんだろう。

「あ。さては、サムの修行をサボって、アンドリューと密談か?」
あたしは自分でもおもしろいくらいあわてて打ち消した。
「ちちちっ、ちがうっ! んなわきゃないでしょっ! こんなでっかい会社の副社長様と密談できるほど、あたし大物じゃないし!」
松井は、あはは、と心底おもしろそうに笑った。
「そりゃそうだ。でも、なんで? ここにいるってことは、アンドリューに会いにいったってことだろ?」
そう言われて、あたしは返答に詰まった。

怜奈が急にこっちへ来ていること、もうすぐ結婚すること、でもアンドリューを思い切れずに悩んでいることを、松井に聞いてもらいたい気がした。そして、できることなら、松井にもふたりの仲を後押ししてもらいたいような。

でも、怜奈に断りもなしに、松井に話してしまってもいいもんだろうか。

「やっぱり。密談だな」
もう一度言われて、あたしの胸はちくんと痛んだ。

松井に隠れてアンドリューと何かこそこそやっている。松井にそう思われるのが、たまらなく悲しかった。

違う、ともう一回打ち消そうとした瞬間、
「秘密のおしゃべりか。アンドリューと、怜奈ちゃんの」
松井が言った。

あたしは驚いて松井を見た。
「なんで知ってるの?」
にっと笑って、松井が返す。
「三分前に、電話があった。おれ、これからあいつとミーティングの予定だったからここに来たんだけどさ。『レナが来てるから、キャンセルにしてくれないか』ってね。そこにエレベーターが到着して、あんたが出てきた」

あたしは言葉に窮して、松井をみつめた。
なんて言ったらいいか、わからなかった。
あっちも、こっちをみつめている。

たぶん、ほんの数秒のことだったと思う。でも、あたしはずいぶん長いこと、この瞳、ちょっと涼しげで、わりとやさしくて、けっこう澄んだ瞳をみつめ続けているような気持ちになった。

口もとにふっと笑みを浮かべて、松井が言った。

「なんかでいっぱい、って顔してる。このさい、全部出しちゃえば?」


あたしたちは、午後の光があふれるブライアント・パークの芝生の上に、並んで座った。

初めて会ったときのように、松井がコーヒーを買ってきた。
のどかな春の空気の中で、あたしは怜奈の一件を松井に話した。
松井はずっと黙って聞いていたが、あたしの話が全部終わると、「そうか」と、ため息をついた。

「そうとう思い詰めてるよな」
あたしはひとつ、うなずいた。

「ほんとに好きなんだなあ、怜奈ちゃん。あいつのこと。あーあ、残念。おれじゃないのかあ」

そう言って、笑っている。あたしは、どきっとしてしまった。

もちろん、いつもの松井ジョークだろうけど。軽いノリで言ってるんだろうけど。
今日のあたしは、なぜだか、松井の言葉のひとつひとつにずきんずきんとしてしまう。

「・・・・・・あきらめたほうがいいな」

誰に言っているともわからない口調で、松井がつぶやいた。

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#69 好きだった、よね?

ブライアント・パークから徒歩2分の場所に、アンドリューの会社が入っている高層ビルがある。
あたしは怜奈をロビーまで連れていってから、アンドリューの携帯に電話をかけた。
ガラスに囲まれた吹き抜けのアトリウムを、怜奈は不安そうな目で見回している。

「待ってたよ、ナツキ」
いつもどおりの流暢な日本語で、電話口のアンドリューはいきなりそう言った。
「できたんだね、試作品。今夜、ディナーのあと10時からなら空いてるよ。ヒデキより先に、私に食べさせてくれるんだよね? じゃあ、待ち合わせ場所は・・・・・・」
「ちょ、ちょっと待った!」
あたしはあわてて暴走するアンドリューを止めた。まったく、人の話を聞こうって気が全然ないんだなあ、王家の人ってのは。

「いますぐ会いたいんだけど。ちょっとだけ、時間ある?」
「わかった。いま、オーブンから出てきたやつをデリバリーしてくれたんだね。そうこなくちゃ。アシスタントを迎えによこすから、私の部屋まできてくれるかい? 手を洗って待ってるよ。ああ、楽しみだ。じゃあね」

ってどんだけ食いしん坊なんですか王子様?!


副社長室のドアの向こうには、白いクロスをかけたテーブルの前で、白いナプキンをネクタイの襟元に突っ込んでいるアンドリューがいた。

「やあ、ナツキ。ベーグルは・・・・・・」
そう言いかけて、前面笑顔をドアのほうへ向けたアンドリューは、そのまま固まってしまった。

「れ・・・・・・レナ?」

あわててナプキンをはずすと、こわばった笑顔を作って、アンドリューはあたしたちのところへ歩み寄った。

怜奈はちょっと笑みを浮かべたが、こっちもやっぱりこわばってる。まともにアンドリューの顔が見られないみたいで、すぐに顔をそらしてしまった。

「どうしたんだい? ずいぶん急に来たんだね。メールで教えてくれれば迎えの車を出したのに」
怜奈はもじもじしている。そして、あたしに助けを求めるような目を向けてきた。あたしは祈りを込めた目で見つめ返した。

がんばれ、怜奈。
ここから先は、ありったけの思いを込めて伝えるんだよ。

「あの、あたし、仕込みの途中なんで。もう帰らなくちゃ」
あたしの言葉に、ふたりともすがるようなまなざしになった。
「じゃあね。怜奈、あとで電話、ちょうだい」
絡みつく視線を振り切って、あたしは部屋を出た。

怜奈の思いが、伝わりますように。
まるで自分がいまから告白するみたいに、胸が高鳴ってしまった。
大きく息をつくと、あたしはエレベーターに向かって長い廊下を歩き始めた。そして、エレベーターホールに到着するまでに、あれ? 
と気がついた。

あたし、アンドリューのこと・・・・・・
・・・・・・好き、だったよね?

ガラスのエレベーターが、するすると降下していく。ずっと下に見えていたブライアント・パークの緑が、みるみるうちに近づいてくる。
あたしの胸は、なんともいえない、不思議な気分でいっぱいになる。

好き、だったと思う。
アンドリューのこと。

だって、怜奈も彼のこと好きだって知ったときは、こりゃあ勝ち目ないや、ってけっこうショックだったし。
真夜中に誘い出されて、あんなにドギマギして、勝負パンツを探し回ったりもしたし。

もちろん、いまでも好きだ。でも、あの頃の好き、っていうのと、ちょっと違う感じ。

ワンウェイな王子様ぶりがおもしろいっていうか。一緒にいて楽しめる、そうだな、別格の友だち、なのかな。

いま、あたしが好きなのは。
あたしの心の中を、けっこうな面積で占めているのは。

地上階に到着した。ドアが音もなく開く。
そこに現れた顔を見て、あたしの心臓は転がり落ちそうになった。

松井、が目の前にいたのだ。

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#68 涙の理由

涙の理由を、ふたつ、怜奈は教えてくれた。

ひとつは、あたしのベーグルが、泣けるぐらいおいしかったっていうこと。

いままでもあたしが作ったパンやケーキははんぱじゃなくおいしいと思っていたけど、今回ばかりは「やられた」と言う。
それって、最大級の褒め言葉だよ。嬉しい・・・・・・

もうひとつは、夢を確実に実現しつつあるあたしに比べて、自分の非力さが悲しくなったってこと。

自分はやっぱり、親の敷いたレールに乗って人生をのろのろと進むしかない。

そんなふうに悲観して、どうにもこうにもむなしくて、ニューヨークまで来てしまった。
そんなふうに、怜奈は打ち明けた。

「来週、結納なの」
涙をハンカチでふきながら、怜奈が言う。
「もうとっくにあきらめてたんだけど・・・・・最後に直接、アンドリューに会って、気持ちだけは伝えたほうがいいかな、って思っちゃって・・・・・・来ちゃったの。夏輝にも会いたかったし」

あたしは怜奈の肩に手をおいて、聞いてみた。
「こっちに来てること、アンドリューは知ってるの?」
怜奈は首を横に振った。
「メールでずっとやりとりはしてたんだけど・・・・・・アンドリューはあたしに興味があるふうなこと、いろいろメールに書いてくるんだけど、あたしのこと好きなのかどうなのか、ちっともわかんなくて」

「結婚すること、話したの?」
今度は、首をたてに振った。
「つい最近のメールで。そしたら、『まだ決めるのは早い、僕の話も聞いてくれ』って」

それでどうにも我慢できなくなって、怜奈は飛んできてしまったのだ。

そんなに、思い詰めてたんだ。
あたしは、とっさにどう返していいかわからなくなった。

いつも太陽のように輝いて、男の子たちの中心に座っていた怜奈。可愛くてわがままなお姫様。何不自由ない暮らしをして、こうして思い立ったらすぐニューヨークへ飛んでこられるくらい、経済的にも恵まれている。結婚相手だって、きっと世間的にはこれ以上ないくらい恵まれたバックグランドを持つ人なのだろう。

それなのに、いまの怜奈はちっとも満ち足りていない。
ほんとうに好きな人に「好き」の一言も言えずに、苦しんでいるのだ。

「ねえ、怜奈。これからすぐ、アンドリューに会いに行きなよ」
あたしは怜奈の背中をそっと撫でて、そう言った。
「もうこれ以上、先延ばしにしちゃだめだよ。一分でも一秒でも早く、伝えたほうがいい。せっかくここまで来たんだから」

怜奈はうるんだ大きな瞳をあたしに向けた。

「でも・・・・・・そんなのって、迷惑じゃないかな」
「何言ってんの、怜奈らしくないよ。あたしがアンドリューだったら、とりあえず感動する。『好きだ』って言うためにわざわざ来てくれたなんて。その思い、受け止めたくなるよ」

受け止めてよね、アンドリュー。じゃなかったら・・・・・
いずれマイベーグルが完成しても食べさせないからなっ#

怜奈はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
あたしはほっと息をついた。

「よしっ。じゃ、あたしが連れてってあげる。すぐそこだから」
「え? で、でも・・・・・・電話ぐらいしたほうが、よくない?」
「いいんだってば。アポなしのほうが喜ぶタイプなの、彼は」

今度はこっちから、サプライズ攻撃する番だ。

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#67 試作品

翌日。

あたしはサムに早退のお願いをして、午前中の仕込みをしただけでサムのアパートを出た。

地下鉄に乗って、タイムズスクエアを横切って、一直線にブライアント・パークまで走っていった。

ランチタイムのパークは、いつものようにビジネスマンやら学生やらでにぎわっている。五月の明るい陽だまりの中、思い思いにランチを広げている。

「怜奈っ!」

アイスクリームショップの前に、怜奈がたたずんでいる。あたしをみつけると、たちまち笑顔がこぼれた。

「夏輝! うわーっ、ほんとに元気そう!」

あたしが駆け寄って飛びつくのを受け止めて、怜奈も嬉しそうに声を上げた。

「びっくりしたよ。『明日そっちに行く』とかじゃなくて『いまこっちに来てる』なんて言うんだもん。まったく、どういうこと?」
「ごめんごめん。びっくりさせようと思って」

怜奈はちょっとだけ決まり悪そうな笑顔になった。
その瞬間、あたしは直感した。

怜奈。何か、あったんだな。
結婚、のことかな・・・・・・

あたしたちは、エンパイアステートビルが眺められる芝生の真ん中に並んで座った。

「それで、どう? 修行の成果は」
怜奈に言われて、あたしはにこっと笑い返した。そして、トートバッグの中から茶色い紙袋を取り出した。

「はい。これ、食べてみて」

怜奈の両手に、ぽん、と紙袋を乗せた。
「あったかい・・・・・・」
怜奈はつぶやいて、袋を開けた。がさがさと、手を差し入れる、

「わあ」

ほかほかの、プレーンベーグル。

「これ、夏輝が?」
あたしは、こくん、とうなずいた。
怜奈は手にとって、まるで骨董品でも検分するみたいに、いろんな角度からそれを眺めた。あんまりていねいに鑑賞するもんだから、あたしはなんだか照れくさくなってしまった。

「やだなあ。そんなたいしたもんじゃないよ」
「だって、夏輝の作った夢のベーグルでしょ?すみずみまで、よく見たくて」

思う存分眺めたあと、「いただきます」と両手を合わせて、ぺこんと頭を下げた。それから、ぱくん、と勢いよくかじりつく。

あたしは内心、どきどきだった。

実は、まだ松井にもアンドリューにも試作品を食べてもらっていない。唯一、サムだけが食べていた。
「なかなかいいね」と言ってくれていたが、まだまだなんだ、とわかった。
「サイコーだよ」の一言が出るまで、完成じゃないんだ。

サムの満点が出るまでは、松井たちに食べてもらうわけにはいかない。とはいえ、サム以外の誰かの意見も欲しかった。できれば、いちばん食べてもらいたい人に。

怜奈はずっと無言でベーグルを食べ続けた。最初はいつもの怜奈らしく、小さな口を一生懸命動かして、もぐもぐもぐもぐ。でも、一個目を食べて、すぐ二個目に移ると、ぱくぱくぱくぱく、と軽快に。最後のひとかけらを、ごくん、と飲み込むと、

「ああーっ、うまっ!!! サイッコーッ!!!!」

と、両手を空に突き上げて大声を出した。

あたしはまじでひっくり返りそうになってしまった。だって、お嬢さま然としたいつもの怜奈じゃないんだもん。

「夏輝、やったね! 最高傑作だよ! あたしの人生で、最高のベーグルだった!」

そう言うと、怜奈はあたしにぎゅっと抱きついた。
期待以上のリアクションに目を白黒させつつも、怜奈が本当に感動しているのを感じて、あたしは嬉しくなった。

「ありがと、怜奈。実は、サム以外にあたしのベーグル食べてもらうのは、怜奈が初めてなんだ。だから・・・・・・」

怜奈はあたしにじっと抱きついたまま、動かない。

「怜奈・・・・・・?」

友は、静かに涙を流していた。

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#66 メール

Dear 怜奈

元気ですか? あたしはもう、元気すぎてヤバいくらい。
毎朝、目覚めるたびに「あー、いまニューヨークにいるんだ! 夢みてるんじゃないよね?」と自問自答してます。だって、間借りしている松井のアパートの窓からはブルックリン・ブリッジが見えるし、サムのところへ通う道々、デリでベーグルが買える。こんな夢みたいな状況のなかで、世界一大好きなサムのベーグルを勉強できてるなんて・・・・・・ほんと、夢以外のなんでもないって感じ。

サムのベーグルを学び始めて一ヶ月が経ちました。
けっこうキビしく仕込まれてます。
なんせ、あのモッチモチの感じを出すには、ハンパじゃなく力がいるし、絶妙なオーブンの火の入れ方とか、焼き上がりのタイミングとか、「デイリー・ベーグル」の“いかに安くたくさん作るか”ってポリシーとは違うんだよね。できあがりをしみじみ眺めて「うーんちょっと違う・・・」なんてつぶやいたりするのは、なんだか陶芸の世界に近いような(って別に陶芸やったことないけど)。

とにかく「そうだったんだ!」っていうことばかり。毎日が新鮮で、刺激に満ちています。
そうそう、酵母だって手作りしなくちゃいけないんだよ。「自分と相性の合う酵母をみつけるんだよ」なんてサムは言ってます。まるで生物学の教室みたい。
それに、発酵させるとき、生地にニューヨーク・ジャズを聴かせるのもポイント。サムはデキシーランド・ジャズとかニューオリンズ・ジャズとかいろいろ聞かせてみて、「やっぱりニューヨークで録音されたCDをPLAYしてるときがサイコーの出来上がり」だって気づいたそうな。
「ナツキは日本のソウル・ミュージック聴かせてやったらいいんじゃない?」なんて言われてしまった(それって和田ア●子かな・・・・・・)。
そんなわけで、とびきりのベーグルを作るためには、まずジャズの勉強もしなくっちゃ!って感じなんです。

松井もアンドリューも、ありがたいことに、そんなあたしを応援してくれています。
前回怜奈に送ったメールにも書いたけど、あのふたりは結構苦労人で、ベーグルスタンドでのバイトが縁でいまのふたりの関係が始まったじゃない? だから、ベーグルに対する愛情は人一倍なんだよね(どっちかっていうとかなりの偏愛といったほうがいいな・・・・・・)。

松井は毎朝、ブロンクスのサムのアパートまであたしを送ってくれてから、マンハッタンのデザイン会社に出勤。早寝早起きになったからか、はたまた毎日食べるサムのベーグルのせいか、なんだかミョーに健康になって、くやしいことににお肌の調子もいいみたいで、ツヤピカで生き生きしちゃってるの。「サムに感謝しなくちゃなあ~」って毎朝地下鉄の中で言ってます。ってきっかけ作ったあたしに感謝しろよ!
なーんてね。毎朝、懲りずにつきあってくれる松井に、あたしのほうこそ感謝感謝、です。

アンドリューは「水戸一マンハッタン計画」なんてのを勝手に作って盛り上がってる(笑)。まあ、もちろんジョークなんだけど、F社の買収以来、日本のベーカリーや小売の形態にすごく興味があるみたい。
そういえば、いつも怜奈のことを気にかけてるよ。「レナは「いつこっちに来るんだ?」ってね。なんだか直接会って話したいことがあるみたいだけど・・・ 近々連絡するって言ってました。

と、まあ、自分の近況をつらつら並べてしまいましたが、そっちはどう?
もしや、結婚の話、進んじゃってるのかなあ・・・なんて、気にかかっています。もちろん、怜奈が自分で決心したことなら、あたしになんだかんだ言うすじあいは全然ないんだけど。いま、どんな状況なのか、よかったら知らせてください。

早く、怜奈に食べさせてあげられるベーグルを作れるように、がんばるからね!
では、では。           夏輝


夜11時、松井のアパートのあたしの部屋で、怜奈にメールを打つ。
『送信』キーを押して一分後に、携帯が鳴った。

「夏輝?・・・・・・あたし。ごめんね、遅くに」

消え入るような声。怜奈からだった。

「怜奈?! うわっ、ひさしぶり! たったいま、メールしたとこなんだけど」
あたしが興奮気味に言うと、
「うん。いま読んだ。だから電話した」
と、少しだけ力のこもった声になった。

そして、想定外なことをあたしに告げた。

「夏輝、あたしね・・・・・・実はいま、マンハッタンに来てるの」

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#65 サムのベーグル

さて、いよいよサムのベーグルづくりが始まる。

ずっと観たかった映画が始まる。
ずっと聴きたかったアーティストの新譜が流れる瞬間。
ずっと読みたかった本の1ページ目を開く。
そんな気持ちで、ワクワクと、あたしはサムの横に立った。
あたしのワクワクが伝わるみたいに、松井もそわそわしてる。

「さて、まずは・・・・・・」
と、サムは材料に手をかけようとして、
「ちょっと待った。ナツキ、そりゃいったいなんだ?」

あたしは出鼻をくじかれて、サムを見上げた。
「え? こ、これ? えーと、ノートとペン、デジカメ、ボイスレコーダー・・・・・・」
サムは困りきった顔になった。
「おいおい、学校の講義じゃないんだぞ。記録してどうするんだ。職人を目指すなら、頭でっかちにならずに心と体で覚えるんだ。いいね?」

そう言われて、しょんぼりしたのは松井だった。あたしのほうはニヤッとしてしまった。だって記録グッズは全部松井に持たされたんだもん。

あたしは記録グッズをトートバッグに放り込むと、「はい!師匠」と、大きな笑顔を作って見せた。サムは「それでよし」というふうに、うなずいた。

強力粉と、塩と砂糖、ドライイーストを、ボウルの中で軽くかき混ぜる。粉とお湯を少しずつ混ぜ合わせ・・・・・・

こねる。

うわっ、すご。台の上で、サムはがっがっがっ、ぐっぐっぐっと生地を勢いよくこねた。すごい迫力。ほとんど格闘技だ・・・・・・

「こうやって、生地に愛をこめるんだよ、ハニー」
いや、私には憎しみをぶつけているように見えるんですが・・・・・・

「さあ、ナツキもやって。ヒデキ、君もだ」
「え? おれも?」
「三人分の愛情をこめたほうが生地も膨らむだろ。むっちむちのグラマラスなベーグルに仕上げなきゃ」

グ、グラマラス・・・・・・あたしとま逆ってことか・・・・・・

急きょ松井もサムのエプロンをつけた。
おっ、なかなか似合ってるじゃん?

しばらくは三人で、ベーグル相手に大奮闘した。
松井は手の甲で汗をぬぐって、顔を粉だらけにしてる。
ふふっ。なんだか、かわいい。

それからサムは、棒状に分割した生地を、器用な手つきで輪っかにしていった。みるみるうちに、「ベーグル・サム」のベーグルの原型ができていく。
わあ、と思わず声を上げる。

輪っかになったベーグルの生地は、全部同じように見えて、ひとつひとつに個性がある感じがする。
あたしもサムの見よう見まねで、丸めてみた。

「あれ? 松井、やんないの?」
松井はあわてて首を振った。
「いや、こっから先はサムの聖域だから」
確かに。
あたしも自分で作るより、とにかくサムの作業を見ていたかった。ほとんど芸術的な手さばきを。

発酵させる準備が整った。

「さて、ベンチタイムだ」
サムは手を洗うと、おもむろにリビングへ出ていった。とたんに軽快なトランペットとピアノの音が、大音量で聞こえてくる。
サムが、ジャズのCDをかけたのだ。
あたしは飛び上がりそうになった。

「うわっ・・・・・・サム、これ大丈夫? 音大きすぎない?」
「何言ってるんだハニー? ブロンクスの住人はこれっぽっちの音じゃびくともしないさ」

あたしと松井は、顔を見合わせて笑った。
「なるほど。ここじゃ、パトカーは呼ばれないんだ」
あたしがくすくす笑いながら言うと、
「もっとコワいことがない限りはね」
松井がブラックなことを言う。

「うちのベーグルは、こうして発酵するときにジャズを聞かせてやるのさ。ニューヨークで録音した、とびきりクールなやつをね」
そう言ってサムはウインクした。

へえ、そうだったんだ。

ニューヨークで一番クールなベーグルになるように、ジャズを聞かせる。

まさに、サムならではの隠し味だった。

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#64 朝の地下鉄

こうして始まった、あたしのニューヨーク生活。

サムのアパートに通って、まずはベーグルづくりを学ぶ。そのためには、多少不便なことや肉体的にキツいことはがまんしなくちゃ。

六時起床。六時十五分には家を出る。
駅前のデリでコーヒーとベーグルを買ってかじりながら、地下鉄に乗る。
ほんもののニューヨーカーになったみたいで、ちょっとわくわくする。

「って、あんたやたらさわやかそうなんだけど。いいよなあ。こっちは早起きなれてないってのに、ったく」

と、地下鉄に揺られながら、隣で大あくびを連発する松井。
なんと松井は、毎朝あたしを、サムのアパートまで送ってくれているのだ。

このありがたくもとんでもない申し出を松井がしてくれたとき、さすがにあたしは遠慮した。
「いやいやいやいや、いいよいいよいいよ。だって六時起きだよ? そんなのに毎朝つき合わせるなんてできないよ。だって別に、あたしたち・・・・・・」

つきあってるわけでもないのに。
そう言いかけて、あわてて飲み込んだ。

「別にあたし、ただの居候だし、そこまで面倒見てもらうわけにはいかないから」

「わかってねえなあ、やっぱ」
ため息混じりに松井が言うので、あたしはどきっとしてしまった。

わかってねえなあ。おれの気持ち・・・・・・

そんなふうに聞こえてしまって、どぎまぎする。
あたしがミョーに赤くなるのをまったく意に介さずに、松井が続けた。

「サムのアパートのある地域が、どんだけ危険か。まえ話しただろ? 6時台ったら、この辺はまだ暗いぜ。夜中と一緒で、明け方ってのは犯罪が多発する時間帯だし。昼間ならともかく、ひとりで行かせるわけにはいかないよ」

そ、そうなのか・・・・・・
やっぱり日本とは、かなり事情が違うんだ。

あたしは複雑な気分になった。
これは「修行」なんだから、サムの言うとおり、多少厳しいことがあるのは覚悟している。でも、そのために松井まで巻きこんでしまうなんて。

「ごめん。松井の大事な時間を、あたしなんかのために・・・・・・」
あたしはただ、あやまるほかなかった。
松井はくすっと笑って、
「まあね。実はおれも、興味あるんだ」
と白状した。

「どんなふうにサムのベーグルができるのか。そのプロセスを見せてもらうのは、おれ自身の勉強にもなるし。あれだけのすごい結果を出してる仕事なんだ、特別な仕掛けがあるに決まってる。そこんとこ、見せてもらいたいんだ」

それに、ただでさえデザイナーは時間がめちゃくちゃだから、これを機会に早寝早起きを心がける、と断然張り切っている。
あたしはなんだか、ほっとした。
でもって、なんだか、嬉しくなった。
押しつけがましくなく、かつあたしに気をつかわせないように。
松井はなかなか、やさしいやつなんだ。

「あ、わかった。サムのベーグル、一番乗りで食べるつもりでしょ?」
照れ隠しに、ちょっと茶化してみる。
「うん。それが一番、大事かも」
と、松井は正直に返した。

やっぱそれが本音か・・・・・・

そんなわけで、松井とあたし、地下鉄の車内に並んで座っている。

松井は「ニューヨークタイムス」を隅から隅まで読んで、「松井の打率が上がってきた!」とか、「イチローはきのうダメだったかあ」などと、スポーツ面で一喜一憂している。

あたしはベーグルをかじって、「このデリのブルーベリーベーグルは、けっこういいかも」とか、「コーヒーはわりと濃くいれてるんだよねえ」とか、つぶやく。

あたしたちの会話は、お互い別々の話題でも、なんだかうまく溶け合っている気がする。

ああ、いまあたし、ほんとにニューヨークに暮らしてるんだ。

そんなふうに感じられる朝の地下鉄が、あたしは大好きになった。

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#63 始まり

あたしはサムの返事を待って、ドアの前に突っ立っていた。

返事を聞くまでは、ここから一歩も動かない。
“YES”という返事以外は、聞きたくない。

そういうオーラが、そのとき、あたしから出ていたはずだ。

サムはあたしの顔を一点にみつめていたが、やがて、ははっと笑い声をたてた。
「なんてこった、ハニー。本気なのか?」

「ええ、もちろん」
間髪いれずに、あたしは答えた。

「自信が、あるの。あなたがいままで作ってきたベーグル。その味を忠実に再現できるのは、世界中であたししかいない」

ほんとうに、そう思っていた。

サムのベーグルのファンは、きっとたくさんいただろう。
でも、隅々まで特徴を覚えていて、パンを作る技術を持っていて、しかも再現したい、と強く思っているのは、きっとあたし以外にはいない。
しかも、そのためだけに、あたしはニューヨークまでやってきた。

自分自身の情熱を信じよう。
あたしの思いのぜんぶを、すなおにぶつけてみよう。
そう思いながら、サムに向かい合っていた。

きのう一晩、松井と話したことも、あたしの背中を押してくれていた。

なんのためにここまできたのか。それをもう一度、よく思い出して、サムにぶつけてみろよ。

松井は、そうアドバイスしてくれた。
希望と挫折の両方を味わっている松井の言葉は、けっこうしみた。

そしてきっとサムだって、いま、あたし以上に大きな挫折の中にあるんだ。
あたしは、少しでもサムの力になりたかった。

「あたしは、サムと一緒にベーグルが作りたい。それだけです」

サムはおだやかな笑みを浮かべたまま、じっとあたしをみつめていた。と、大きなまるっこい目が、くるんと動いた。

「さて、どうしようかな。私はこう見えても、かなり厳しいんだよ? ベーグルを作るのに、妥協は1インチだって許さない・・・・・・」

あたしはこくん、とうなずく。
「わかってます」

「朝は早いし、けっこう力仕事だし」

こくん、ともう一度、うなずく。

「露骨に営業妨害するような、心無い人がいるのも事実だ。営業を再開したって、売れる保証はどこにもない」

今度は、あたしはうなずかなかった。

サムはもう一度あたしを見すえて、聞いた。

「それでも、君の決意は変わらない、と約束してくれるかい?」

あたしは、大きくひとつ、うなずいた。

サムもうなずくと、すっと右手を差し出した。

大きな分厚い手。
この手で、もう何十年も、サムはあのベーグルを作り続けてきたんだ。

「よろしく、ナツキ。今日から君は、私のパートナーだ」

そう言われて、あたしは、そっとサムの手を握った。
ぎゅっと握り返してくる、あたたかで力強い手。

あたしは何か言おうとして、言葉が引っかかってしまった。
視界がじわっとにじむ。
次の瞬間、あたしはサムに抱きついていた。

「サム! ありがとう・・・・・・ありがとう」

「おっと、こりゃすごい歓迎だな」
楽しそうにサムが言う。そして、ぎゅっとあたしの背中を抱きしめて、心のこもった声で言った。

「こちらこそありがとう、ナツキ」

ああ、ついに。
ついに、サムとあたしの「ベーグルプロジェクト」が始まることになったんだ。

その一部始終を、ひと言も発することなく、松井は静かに見守ってくれていた。

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#62 伝えたい!

翌日。

松井とあたしは、並んで地下鉄のシートに座っていた。

「あーほんときのうはびっくりした。騒ぐとご近所さんが通報するなんて、冗談だと思ってたよ」

松井がくすくす笑っている。

「その話題、もう十回目くらいなんだけど」
「いやーだってさあ。あのくらいの言い合いなら、あたしだって弟としょっちゅう・・・・・・ニューヨーカーって、もっと大らかなのかと思ってたよ」
少し幻滅して言うと、
「あのアパートは金持ちのヤッピーが住んでるからな。やつら、深夜の騒音にやたら敏感なんだよ。十年前は、あのあたりはもっと大らかで、夜中中騒ぐような面白い住人がいっぱい住んでたんだけど」

松井は薄暗い蛍光灯の並ぶ車内の天井を見上げていった。
「まあ、ニューヨークも変わったんだよ」

それって、松井のあこがれてた街とはもう違うってこと?
そう聞きかけて、飲み込んだ。

ブロンクスのとある駅で降りると、あたしたちはサムのアパートに向かった。

きのう初めてサムを訪ねたとき、あまりの衝撃に、あたしは泣きながら飛び出してしまったんだけど。

ゆうべ、パトカーがきて、あわててアンドリューが退散してから(別に悪い事はなんにもしてないのに、アンドリューはかなり反射的にすたこらと帰ってしまった)、松井とあたしは結局朝まで話しこんだ。

もう一度、サムに会ってきちんと話をするべきだ。
そう言い出したのは、松井のほうだった。

アンドリューが言うように、おしゃれなパンを販売する大きな事業展開っていうのは、別に悪いことじゃない。成功すれば、もちろんそれに越したことはない。

だけど、「水戸一」に流れる、地元に密着した名もない小さな店のスピリット。
それこそが、ほんものの「マスター」を育むんじゃないか。
そのスピリットが、「ベーグル・サム」にはあるんだ。

そんなふうに、松井は熱く語っていた。

松井は話しながら、きっとやつの心の師・ティボーレ・カルメンのことを思い出していたに違いない。

ひたむきに自分の信じた道をつきすすむ情熱。
デザインにもパン作りにも、それは共通しているんだ、と松井は言った。
聞きながら、あたしのほうまで、胸のなかがほかほかに熱くなってしまった。

敬愛するカルメンが松井の母校で講演したときのこと。自分はエイズだ、だけどキスをしにきてほしい、と冒頭で師は言った。
その言葉通りに、勇気を持って松井は壇上に上がり、カルメンのほっぺたにキスしたんだ。
そしてその一瞬が、いまも松井の歩く道を明るく照らしている。

その話に、あたしはどれほど勇気づけられたことだろう。

あたしはもう、決めていた。
サムに、もう一度だけ、頼んでみよう。

「サム。もしも二度とベーグルを作らないって言うのなら・・・・・・」

古ぼけたドアの向こうで立ち尽くすサムに、あたしは思い切って言った。

「お願い、私に教えて。私に、あなたのベーグルを作らせてください」

あたしは言いながら、みるみるうちに、胸が、瞳が、いっぱいに震えるのを感じた。

がんばれ、あたし。
伝えるんだ、この気持ちを。

「あたしにあなたのベーグルを、世界中の人たちに伝えさせてください!」

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#61 水戸一、買った!

水戸一、私が買った!

思いがけないアンドリューの言葉。まったく意味がわからなかった。
カンペキな日本語を話す外国人だと思ってたのに、やっぱり時々意味不明なこと言うんだな・・・・

「そういう問題じゃないんだよ、アンドリュー」

あたしが頭の回転速度をむりやり上げてアンドリューの言葉の意味を検索している横から、いきなり松井が言った。

「日本のパン屋の文化ってのは、独特のものなんだ。金のある外資が買ったところでどうにもなるもんじゃない。だいいち、つぶれたちっこいパン屋を買い取るなんて1ドルにもならないようなことやってどうすんだよ。いくらなんでもお前の会社、そこまでホトケじゃないだろ」

なっ・・・・・・ちょ、ちょっと。つぶれたちっこい1ドルの価値もないパン屋って・・・・・・(まあ、事実ではあるんだが)そこまで言うか?!

「ちょっと松井!そんなこと言ったって、アンドリューがわかるわけないでしょ!」
「なんだよ。『ホトケ』ってとこ?」
「そこじゃなくて!日本のパン屋の文化なんて言っても、どうしようもないじゃん!」

松井は一瞬、厳しい顔つきになった。あたしはぎくっとした。

「どうしようもなくないよ。大事なことじゃないか。『水戸一』が『ディーン・アンド・デルーカ』みたいなショップになったからって、それで解決するわけ? こいつの会社が買収するっていうのは、そういうことなんだぜ」

「そういうことだ。最初は小さな街角のショップから始めて、大きく成長する店だってある。私の会社が関わるのであれば、そういう展開にする、ということだ」

アンドリューが急に外資系企業の副社長っぽいことを言った。

「それに、水戸でやり直す必要もないじゃないか。マンハッタンで始めたっていいんだし」

あたしは思わず噴き出しそうになった。

「冗談でしょ。だって、うちのお父さんもお母さんも、英語なんてしゃべったこともないんだよ?」

アンドリューが、にやりと笑った。

気のせいじゃない。アンドリューの笑顔の質は、初めて会ったころからどんどん変わってきてる。
超さわやかな朝風系だった笑顔は、「ハゲタカ(ファンド)」っぽい、インテリなんだけどちょっとぞっとするような笑みに変わってしまった。

そのインテリぞっと系笑みを浮かべて、アンドリューは言った。
「別に君のご両親がやる必要ないだろ? ビジネスを成功させられるマネージャーと職人がいればいい。そう、たとえばヒデキと君が組んで店を立ち上げて、私が出資したっていいんだ」

「おい、アンドリュー。もういいよ、やめとけ」

松井が口を挟んだ。アンドリューはかまわずに続ける。

「そうだ。ブライアント・パークに出店しているカフェテリアを買収して、それと一緒になって『東京ベーカリーカフェ』みたいなのをやったっていいんじゃないか? 全体のブランディングはヒデキがやって。マンハッタンのセレブリティがどんどんくるように、予約の取れない店として仕掛けるんだ。私の知り合いからも出資を募ってもいい。資本金は・・・・・・」

「いいかげんにしろよ!」

松井が、ついにキレた。

「そんなことしたって、それは『水戸一』じゃねえって言ってんだろ?!」

うわっ。や、やばい。松井、まじギレ?!

あたしはふたりのあいだに立って、おろおろとふたりが一触即発になってるのを眺めることしかできない。

と、遠くからけたたましい音が近づいてくる。

ファンファンファン・・・・・・・

って、パトカー?!

サイレンは、ぴったりと松井のアパートの前で停まった。

え。もしかして、ここの住人さん・・・・・・・まじで通報しちゃったの?!

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#60 魅惑のパン

ブルックリン、深夜の高級アパートの一室を満たすやきそばの香り。

アンドリューの車に乗せっぱなしだった材料を持ってきてもらって、やきそばパンを作り始めたのは深夜1時。ニューヨーク男子たちは、辛抱強く完成を待っていた。

「おお・・・・・・これは。まさに私が求めていた匂いだ。ああ、我慢できない!」

ようやく焼き上がったやきそばパンをトレイにのせてテーブルへ運ぶ先へ、アンドリューの手が伸びた。がばっとつかむと、すばやく口に突っ込む。そのまま、むっしゃむっしゃと食べている。

ちょ・・・・・・ちょっとお下品ですわよ、王子。

「おっ、なんだよまたヌケガケか? おれもおれも」
松井も横から手を出した。で、がっつがっつ。

食べ終わるまで、ほんの15秒くらい。ふたり一緒に、拳を天井に突き上げた。

「うんめえ~~~~~っっっ!!!!!!」

体育会系男子校生かこのふたりは?!

「What a great one! ナツキ、どうやったらこんなにおいしいパンを作れるんだい?」
会話の一部にようやく英語を混ぜながら(この王子、ホントのところ英語がしゃべれないんじゃないかとあたしは疑い始めていた)、アンドリューが興奮さめやらぬ様子で言った。

「いやその、別に・・・・・・コッペパンを縦に切ってヤキソバ入れただけですけど」
ごくあたりまえな返事をしたが、男子校生たちは聞いちゃいない。

「ああ、なつかしすぎて泣けてくるよ。これを毎日毎日、部活のあとに食ったもんだ」と松井、感極まってる。泣きだす一歩手前くらいだ。

「このソバのユルすぎないアルデンテな感じ。でもって、キャベツと豚肉の絶妙な配分。ソースの甘辛加減。ひかえめな大和なでしこのような紅ショウガ・・・・・・ナツキ、君は天才だ」と、どこぞのソムリエのような深遠な表現のアンドリュー。

「ヤキソバは母が作って、パン生地は父が作ってくれたのを持ってきて焼いただけだから、あたしはなんにも・・・・・・」
正直に告白しておいた。だって言っとかないと「あと100個作れ」くらい平気で言い出しそうなんだもん。

「この味をニューヨークで再現したくて、チャイニーズデリで売ってるやきそばまがいの“フライド・ヌードル”を、ホットドック用のパンにのっけて食べたりしたっけなあ。ぜんぜん、別モンだったけど」
松井はまだノスタルジーに浸っている。

全部で8個作ったパンを、ふたりは10分以内に平らげてしまった。

「君のご両親はベーカリーをやっているの?」
食後のコーヒーを飲みながら、アンドリューが尋ねた。
あたしは肩をすくめた。
「20年以上やってたんだけど。去年、店を閉めちゃった」

アンドリューは意外そうな顔つきになった。
「なぜ? こんなにグレートなパンを売っているなら、ベストセラーショップだったんだろ?」

「田舎の名もない小さなパン屋だよ。代官山のおしゃれなベーカリーじゃないもん。一個150円のパンをこつこつ作ってるパン屋なんて、日本にはたくさんあるし、特別な店じゃない」

そうなのだ。
父も母も、パンを作ることだけに一生懸命で、経営がどうとか資本がどうとか、そんなことにはまったく執着しなかった。
大型チェーン店の資本や機動力には、どうしたってかなわない。そうやってつぶれていく小さくて良心的なパン屋さんは、きっと日本に数え切れないほどあるんだろう。

話しながら、あたしはまた、ベーグル・サムのことを思い出した。

そうか、と急に納得した。
あたしが最初からサムに親しみを感じたのは・・・・・・

似てるんだ。お父さんに。

アンドリューは黙って聞いていたが、やがて青い瞳をもう一度きらりと光らせて言った。

「わかった。私に名案がある」

あたしはアンドリューを見た。松井はコーヒーカップを持つ手をぴたりと止めた。
アンドリューは口もとに勝ち誇ったような笑みを浮かべて、高らかに言い放った。

「『水戸一』、私が買った!」

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#59 攻防戦

ぎい・・・・・・
と開いたスチールのドアの向こうに立っていたのは、白い王子・・・・・・・じゃなくて、表情も態度もささくれ立っている「黒アンドリュー」だった。

うわ・・・・・・な、なんか、ハクリョク・・・・・・

「いったいどういうことなんだ、ヒデキ?! なんでこんな時間にナツキがここにいるんだ?!」
まるでお父さんみたいなことを言う。
「どういうことって、それは・・・・・・」
松井が答えかけたのに、アンドリューは(自分で聞いておきながら)聞く耳持たない、って感じで、ぐいっとあたしの手首をつかんだ。
「ナツキ、帰るぞ。さあ、早く」

ってそれじゃ本格的にお父さんじゃないですか?!

「ちょ、ちょっとアンドリュー?! 帰るって、どこへ?」
「決まってるだろ、ホテルだよ。マンダリン・オリエンタル。君が来るって聞いてから、アパートを探すのに時間がかかるだろうと思って、とりあえず一週間部屋を取ってあったんだ」
・・・・・・んなっ?!
マンダリン・オリエンタルって・・・・・・最高級ホテルで一泊800ドルは下らないという噂(怜奈情報)の?!

そ、そんな・・・・・・身に余るご親切・・・・・・じゃあ、お言葉に甘えて・・・・・・

と、王子についていきかけて、あたしはあわててその手を振り切った。
「あの、ちょっと聞きたいんだけど、アンドリュー。なんで、そんなふうなの?」

あたしの質問の意味がまるでわからない感じで、アンドリューは不思議そうな顔になった。
「『そんなふう』って? それ、日本語?」

うっ。そりゃまあ、正しい日本語じゃないかもしれませんが。

「だって、なんだか強引過ぎる・・・・・・ような。空港の出迎えもランチの予約も、ホテルとかも。ひと言もあたしに教えてくれなかった、じゃなかったの・・・・・かな?」
半分ありがたい気持ちもあったもんだから、あたしの抗議はなんだか中途半端だった(しかも日本語がヘタ過ぎた)。

アンドリューは余裕の笑みを浮かべて言った。
「そりゃあ、サプライズってやつさ。日本人の女の子が夢を求めてニューヨークへやってきたんだ。何か力になりたい、とっておきの方法で。そう思ったんだよ」

それから、甘えるトイプードルみたいな表情を作った。
「君のためを思ってやったことなのに・・・・・・いけないかな?」

うわ・・・・・・なんかこういうとこ、怜奈の自爆攻撃に似てる。
日本女子代表としては、やはりここはクラッとくるのがフツウのリアクションだろう・・・・・・

「残念だけど。こいつはここに居候するってことで話がついてんだ」
成り行きを見守っていた松井が、アンドリューの前に一歩踏み出してそう言った。

「悪いけど、お前には渡せないよ」

え?

な、なんかいま・・・・・・ちょっとどきっとしたぞ、あたし。

アンドリューの前に立ちふさがる松井が、ちょい不良(ワル)でクールな王子に見えてしまうのは幻覚だろうか。

気がつけば、なんでだかわかんないけど、あたしを巡ってニューヨーク二大男子が火花を散らしてる。

こ、これは・・・・・・
人生最大のモテ期到来?!

「だっていまから『水戸一』のやきそばパン、作ってもらわなきゃならねーんだから」

ってあたしじゃなくてパンかよ?!

アンドリューは青い目を急にきらりと光らせた。
「なんだって? やきそばパン??!! ずるいぞヒデキ!ヌケガケか?!」

あたしは「抜け駆け」という日本語をフツウに使う外国人を初めてみた。
ってかこのふたりの攻防は、あたしじゃなくてやきそばパンを巡ってないか?!

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#58 ふたりの出会い

その夜、松井の家のダイニングで、あたしたちの話は尽きなかった。
もっとも、松井のニューヨークでのいろんな出来事や思い出話を、聞かされっぱだったんだけど。

アンドリューと一緒のときは、どっちかっていうとむっつりしてた松井なのに、けっこうよくしゃべる。大好きなニューヨークや仕事の話だからだろうか、すごく楽しそうだ。
聞いてるこっちまで、わくわく楽しくなってしまった。

アンドリューとの出会いも教えてくれた。
アンドリューはもともと苦学生で、自力でコロンビア大でMBAを取得した秀才だ。在学中に株のデイトレードを始めて成功し、あっというまに大もうけしてしまったんだと。

美形、秀才、商才と三拍子揃っているから、もともと王家の生まれなんじゃないかと思っていたけど、実は一夜にして王子になった「シンデレラ」だったわけだ。

「あいつ、けっこう苦労人なんだよ」と松井は言う。「おれと一緒でさ」

なんとふたりの出会いは、イースト・ビレッジのベーグルスタンド。
ふたりとも、アルバイトでベーグル売りをしてたんだと。

「えーっまじで?! そんなこと、いままでぜんぜん教えてくれなかったじゃん??!!」
あまりにも意外な事実に、あたしは絶叫した。
松井は「しーっ」と人差し指を口に当てた。
「あんまりでかい声出すなよ。通報されるから。このアパートに住んでる連中は、けっこうお上品なんだぜ」

通報って・・・・・ニューヨーカーってなんかおおげさだな。

「おれはともかく、やつがベーグルスタンドでバイトしてたことはトップシークレットなんだ。あいつ、いまや金持ち雑誌の『フォーブス』にも登場するような立場だろ。セルフ・ブランディングにはぬかりがないんだよ」

つまり、あくまでも王家に生まれた生粋の王子として振舞ってるわけですね・・・・・・

「おれもあいつも食いしん坊でさあ(いや、それはよく知ってるよ・・・・・・)。やつはオハイオのド田舎の出身なんだけど、マンハッタンに出てきてベーグルのうまさに心底しびれたらしくってね。まあ、おれも牛久出身で、マンハッタンにきて同じ体験をしたわけなんだけど。おれたちがベーグルスタンドでバイトした理由はただひとつ。腹いっぱい、タダでベーグルが食えることなんだ」

「腹いっぱいステーキ」とかじゃなくて「腹いっぱいベーグル」ってところに、ふたりに共通したミョーに堅実なキャラを感じる。いや、マニアックというべきか・・・・・・

「バイトで出会った頃はあれこれ夢を語りあったもんだよ。おれはメッセージ性の強いグラフィックデザイナーになる。あいつは巨額の資金を動かすファンドマネージャーになる。ふたりで大もうけして、腹いっぱいベーグルを食べる・・・・・・」

ってそのときすでに腹いっぱい食べてたんじゃないの?!

「マンハッタンだけじゃなくて、シカゴとか、東京とか、東ヨーロッパの街角とか、ベーグルうまそうな町はいっぱいあるじゃん? 世界中のうまいベーグルを食べ比べような、なんて言ってたんだ。まあ、あいつのほうが先に出世して、東京にも駐在して『デイリー・ベーグル』みつけたりして、夢をかなえたってわけだけどね」

そうだったのか。

あたしは、ちょっとアンドリューのことを見直した。

松井にちゃんと話さずに、あたしをさっさと空港からオフィスに連れてきちゃったりして、なんなの?! って一瞬思ったけど。
それに、怜奈に思わせぶりなそぶりをしていることも、ずっと引っかかっていたんだけど。

ささやかな夢を大きな成功につなげることのできる、ほんとうにデキるオトコなんだ。

でもって、実は・・・・・・松井も。

「ところでさ。なんか忘れてない?」
急に言われて、あたしはちょっと首をかしげた。
「え? なんのこと?」
「あのさあ。おれんちに居候するんだろ? その見返りにおれが頼んだこと、忘れてない?」

あ。
そうだった。「水戸一」のヤキソバパン。

「あーっ、ごめん! そうだった!!」
あたしは立ち上がって、「あ」ともう一度小さくつぶやいた。

クーラーボックスも、アンドリューの車の中だった・・・・・・

キンコン♪ と、玄関のチャイムの音がする。
松井が立ち上がって、「Hello?」とインターフォンで応えると、
「ヒデキ? ナツキはそこにいるのか?」
ちょっとささくれだった、アンドリューの声が響いた。

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#57 カルメンのこと

ニューヨークにやってきて、10年。
もう結構長い期間を、松井はこの街で過ごしていた。

あたしの実家の近所にある高校を卒業してから、ニューヨークのデザインスクールに入ったんだと。最初は英語もさっぱりわからないし、アップもダウンもイーストもウエストも、文字通り右も左もわからない田舎の18歳だった。
あるのはやる気と度胸だけ。まったくいまのあたしと同じだ。

「ティボーラ・カルメンっていう世界的に有名なグラフィックデザイナーがニューヨークにいてさ。反戦とかエイズ差別の撤廃とか貧困撲滅とか、社会的なメッセージを企業広告の中に堂々と盛り込んで、世界をあっといわせた人なんだ。彼にどうしても会いたくて、親を説き伏せて来ちまった」

広告っていうのは、商品を売ってなんぼの世界なのに、そのナントカ・カルメンっていう人は、商品とはなんにも関係ないメッセージを広告で発信したのだ。しかも、限りなくスマートに、かっこよく。

「結果的にその企業の認知度は上がって、社会的に発言する勇気のある企業だってことで爆発的に商品も売れたんだ。同時に、デザインの可能性が一気に広がった。デザインはブランドを、企業のイメージを変える。で、ちょっとだけ世界を変えることもできるかも、って」

松井は学校に通いながら、いつの日かカルメン事務所に勤めることを願っていた。
一度だけ、カルメンが学校に講演にきたことがある。わくわくしながら講堂のいちばん前の席でカルメンの到着を待っていた松井は、憧れのデザイナーがステージに現れた瞬間、あっと息を飲んだ。

カルメンは車椅子に乗って、鼻に酸素チューブをつけ、がりがりに痩せた身体で、満場の学生たちのまえに現れたのだ。

「第一声が、『みなさん、私はエイズ患者です』。会場はしーんとなっちゃってさ。で、そのあとすぐに『けれどみなさんが私にキスしたければ、喜んでお受けしましょう。ただし、この講演が終わったあとに』って言うんだ。みんなどっと笑って、大きな拍手。ああ、この人は生まれつきのクリエイターなんだ、人の心を一瞬でつかむことができるんだ、って、おれ、ものっすごく感動しちゃってさ。すっげえ大事な講演だったのに、もう胸の中がいっぱいになっちゃって。内容はぜんぜん、覚えてないんだよ」

そう言って、少し照れくさそうに笑う。あたしもつられて微笑んだ。

「講演が終わったあと、おれはなんの迷いもなく、いちばんにステージに上がった。それで、へたくそな発音で『ミスター・カルメン。私はいつか、あなたのようなクリエイターになりたい』って、もうどっきどきになって話しかけた。それから、彼のくぼんだほっぺたに、思いきってキスしたんだ」

カルメンは松井の背中をぎゅっとハグして、言った。

私のようになる必要など、まったくないよ。だって、君は君なんだから。

その三ヵ月後に、カルメン他界のニュースが世界中を駆け巡った。『エイズと闘ったカルメン 自らの闘病が最後のメッセージ』という記事が、ニューヨーク・タイムズの一面を飾った。

「結局、カルメンと一緒に仕事することはできなかったけど、あのひと言を聞けて、いまのおれがある気がしてる。おれはおれのやり方で、社会にメッセージを伝えていければいい、と思うようになったんだ。それで、グラフィックデザインからもっと範囲を広げて、企業とか商品のブランディングを手がけてるんだよ」

エコロジー問題や社会的メッセージを発信できる企業と商品。そのイメージづくりに関わる。それがいまの仕事なんだ、と。

「だから、あんたがサムのベーグルに夢中になってるのを見て、なーんかほっとけなくてさ。昔のおれそっくり、っていうか」

松井の話を聞くうちに、あたしの胸はどんどん熱くなっていた。
なんだか、目の奥までじわっと熱くなっちゃって。
涙がこぼれてしまわないように、あたしはちょっと上を向いてから言った。

「あたしなんか・・・・・・レベルが違うよ。そっちは『世界を変えることができるかも』ってすごい仕事でしょ? あたしが熱中してるのは、単なるベーグル一個・・・・・・」

「そのベーグル一個が、あんたの人生を変えたんだろ? それってすごいことなんじゃないか?」

あたしは松井を見た。
あったかい笑顔が、あたしを見ている。
だからあたしは、よけいに、胸が熱くなってしまった。

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#56 松井のアパート

その夜。
あたしはようやくブルックリンの松井のアパートの一室に落ち着いた。

松井のアパートは想像以上に広くてイケてるインテリアだった。松井はマンハッタンの大手デザイン会社に籍を置きつつ、自分のオフィスもこの場所に兼ねている。
アンドリューは目に見えて別格の成功者なんだろうけど、松井だって結構な成功者なんだ。

最近ではブルックリンも高級住宅街に変わりつつある、と怜奈情報。住居を見てみて、松井がどんなにニューヨークで成功しているかをあらためて知った。

そう、松井はどっちかっていうと、サム側というよりはアンドリュー側の人間なんだ。

「このゲストルームがあんたの部屋。専用のバスルームと繋がってるから使っていいよ。キッチンはおれも使ってるけど、そこも好きにしていいから」
松井は自分の部屋以外の室内を一通り見せてくれた。
それから、あたしの顔をのぞきこんで言った。
「なんだよ、へんちくりんな顔して。そんなにおれのこと信用できねーの? 部屋には鍵もついてっからロックして寝りゃいいだろ」

ずっとうつむきかげんだったあたしは、突然ミョーなことを言われて顔から火が出そうになった。
「なっ・・・・・・そんなことぜんっぜん思ってないよっ!」
「あっそ。ならいいけど。ただしオトコ連れ込むのはかんべんしてくれよ。まあ、そういうコトになったら、一応事前に連絡くれよな。その日は遠慮するから」

な・・・・・・?!

意外なことを言われてしまって、あたしは固まった。
それって、場合によってはほかの男を連れ込んだっていいってこと?
つまり・・・・・・あたしのことはなんとも思ってない・・・・・・ってこと、なの?
さっき赤くなった顔が、いっそう上気してくる。
なんでだろう、すごいショックだ・・・・・・

松井は真っ赤になったあたしの顔を見て、あはは、と爽快な笑い声を上げた。
「なんだよ。今度はゆでダコみたいになってるぞ」

ムカーーーーーッ。

本気でアタマにきたあたしは、いきなり松井の背中を思いっきりどついてやった。松井は前につんのめって、なおも笑っている。

「そうそう、その調子」
「なにがその調子だっ!! いーかげんにしてよっ!!!」

あたしは広々したリビングで松井を追いかけ回した。松井は逃げ回りながら「その調子、その調子」と楽しそうだ。

「せっかくニューヨークまで来たんだろ。落ち込むことないって」

あたしはぴたりと立ち止まった。

そうだった。
サムの家からこのアパートに入るまで、あたしはひと言も口をきかず、笑いもせず、松井に目を向けることすらできなかった。
どうしたらいいんだろう。
どうしたら、サムの力になれるんだろう。
どうしたら・・・・・・

ずっとそう考え続けて、この街へやってきた意味も見失いかけていた。

「サムのことは正直、想定外だった。でもなあ。40年以上もベーグル一筋、作り続けてきたんだぜ? そう簡単にあきらめるとは、おれには思えない」
ソファの背もたれの向こうに突っ立って、松井はそう言った。

「自分のいちばん好きなことを取り上げられるのはそりゃあショックだろう。けど、ちょっとしたきっかけがあれば、きっと思うはずじゃないか? 『このままじゃ終われない』って。だって、あんただってそうだろ?」

あたしは松井の目を見た。
さっきまであたしをからかって楽しんでいた目には、真剣な光があった。
「おれもそうだった。初めてこの街に来たとき、こっぴどくやられてさ」

それから松井は語り始めた。
どうして自分がニューヨークにきたのか。その夢と挫折のプロセスを。

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#55 そうだったんだ・・・・・・

サムの言葉に、あたしは一瞬、体中が凍りついて動かなくなるのを感じた。

もう、ベーグルを作らない。

信じられないひと言だった。

「ちょっと待った。サム、そりゃいったいどういうことなんだ?」
あたしが返す言葉を見失っているのに気づいたのか、松井があたしの背後から問いただした。
「もう二度とベーグルを作らないってのか? 永遠に?」

松井の問いに、サムは寂しそうに笑って答えた。
「ああ、そうだ。永遠に作らない」

あたしの中で、がらがらがら、と何かが勢いよく崩れ落ちていく音がした。

勝手に思い描いていた夢とか未来のようなもの。
それが、あっというまにがれきになってしまったような気がした。

「納得できねーよ、全然。彼女やおれも含めて、あんたのベーグルのファンはたくさんいたはずだろ? それを何の前触れもなしに、もう作るのやめたって言われても・・・・・・」
松井は、あたしの気持ちをそのまま代弁してくれた。

サムは寂しそうな笑みを浮かべたままだったが、ふっと視線をそらした。
「私だってあきらめたくはない。でもな、世の中には不可抗力ってもんがあるんだよ。長年生きてなきゃ、わかんないことかもしれないがね」
そう言って、今度は自嘲するみたいに笑った。

「一ヶ月ほどまえ・・・・・・私のベーグルを食べて子供が具合が悪くなった、って言って、告訴されそうになったんだ」

「告訴?!」
松井とあたしは同時に叫んだ。

驚いた。ベーグルひとつで告訴だなんて・・・・・・。
噂には聞いていたけれど、アメリカ人はすぐ告訴するって。こんな感じで何かにつけ言いがかりをつけてくるんだろうか。

「見ての通り、私はしがないベーグル売りだ。言いたかないが、白人のお金持ちのマダムと争ったところで勝ち目なんかあるわけない。もっとも、弁護士を雇う費用もないからね。どのみち、食中毒の風評なんか立てられたらやっていけないだろ。ブライアント・パーク事務局からも、撤退勧告を出されたんだよ。うちのキッチンに市の保健所の立ち入り検査もあった。なんの証拠もなくても、食品製造販売のライセンス剥奪さ」

サムの告白に、あたしは衝撃を受けた。

そうだったんだ・・・・・・

あたしがのんきに自分の夢をかなえることだけを考えてここまで来るあいだに、そんな壮絶な運命がサムを待ち受けていたんだ。

サムの告白は、この国のいろいろな問題をかいま見せていた。
サムが黒人であること。
貧富の格差は、法廷に持ち込まれても歴然としていること。
公園事務局や保健所の対処にも、明らかな差別を感じる。

ニューヨークなんてだいっ嫌い。
金持ちとWASPばっかりひいきするんだから。

前回ニューヨークに来たとき、怜奈がそう言っていたことを思い出す。

このことだったんだ。

あたしはたまらなく悲しい気持ちになった。

食べればたちまちハッピーな気分にさせてくれる、最高のベーグル。
きっとサム自身もハッピーだから、あんなにおいしいベーグルを作り出せるんだ。
そんなふうに、勝手に思い込んでいた。

「まあ、そんなわけだ。いまの私はベーグルマスターでもなんでもない。ただの失業者さ。君の期待には応えられない。ごめんよ、ハニー」

サムはそう言って、丸い目を細めてあたしをみつめた。いっそうきらきら光る瞳は、うっすらとうるんでいる。

「ごめんだなんて・・・・・・」

あたしはもう何も言えなかった。何も言えずに、首を横に振った。
その拍子に、涙がひとつぶ、こぼれてしまった。

ごめんだなんて。

あたしはこらえきれずに、サムに背中を向けてアパートの階段を夢中で駆け下りた。

サム。あたしのほうこそ、ごめんなさい。
サムの気持ちも状況も確かめもせず、一方的に押しかけてしまった。

なんて向こう見ずなんだろう、あたし。
なんて自分勝手なんだろう、あたし。

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#54 再会

二時間後。
松井とあたしは、マンハッタンの北、ブロンクスの古ぼけたアパートの入り口に立っていた。

ニューヨークの治安は十数年前にくらべると格段によくなったらしい(怜奈情報)。油断しなければハーレムやクイーンズは夜、一人歩きもできるくらいだそうだ。
それでも危険なエリアはある。ブロンクスの一部はそういう地域とのことで、「用事があっても一人では絶対に行っちゃため」と怜奈に言われていた。

そのあまり治安のよくないエリアに、ベーグル・サムは住んでいた。
サムがいなくなってから、松井が粘り強くブライアント・パーク周辺でサムの知人を探し、居場所をつきとめたという。
そんな探偵みたいなことも、やつは得意なんだろうか。アンドリューは産業スパイみたいなことをやってたし、まったくただものではない男子たちだ。

松井はボロボロのスチールのドアをガンガン、とノックして、大声で(もちろん流暢な英語で)声をかけた。

「サム、いるか? ヒデキだよ。ヤンキースの55番、ヒデキ・マツイ。日本からルーキーを連れてきたぞ~っ」

ってどんな冗談を言ってるんだこいつは?!

しばらくして、ゆっくりとドアが開いた。
ずっとどきどきしっぱなしだったあたしの心臓のスロットルは、一気に全開になった。

「サム!」

全開のエンジンに押し出されるように、あたしはドアの向こうから出てきた巨体に抱きついてしまった。

「おおっ?! このルーキーは・・・・・・ヘイ、ナツキ? ナツキじゃないか?」

うわっ、名前覚えててくれたんだ。あたしは嬉しさのあまり、泣き出しそうになった。

「サム! よかった、会えて・・・・・・あたし、サムに会いに日本からこっちへ引っ越してきたんだよ。あなたみたいなベーグルマスターになりたいから」

自分でもびっくりするほど、すらすらと英語が出た。サムは丸い目を最大限にまん丸にして、あたしをじいっとみつめている。

「なんだって、ハニー? ベーグルを作るってのか? 君が?」

あたしは何度もうなずいた。松井が後ろからつけ加えた。
「彼女、あんたに会いたい一心でここまで来たんだ。あんたの弟子になるって、勝手に決めて。弟子にしてもらえるかどうか、おれから先に聞いてやろうか? って言ったんだけど、どうしても自分で直接頼みたいから、って譲らなかったんだよ」

他人の口から言われるとなんとも恥ずかしかったが、その通りだった。

大切な、大切なこと。
あたしの人生を決める、ひと言。
ヨメにもらってください、って言うのと同じくらいか、それ以上に。

「サム。私を、あなたの弟子にしてください」
あたしは、まっすぐにサムの目を見て言った。

「世界一のベーグルを作りたい。いつかブライアント・パークで、あなたと一緒に、自分で作ったベーグルを売りたいんです」

そしていつか、日本でも。

サムは、一等星のようにキラキラ光る目であたしをみつめ返した。そして、とても静かな声でひと言、言った。

「ありがとう、ナツキ。君は、なんてすてきな女の子なんだろう。その情熱があれば、きっとすばらしいベーグル・マスターになれるはずだ」

褒められて、あたしは躍り上がりそうになった。
「じゃあ、あなたの弟子にしてくださるんですね、マスター?」
うきうきと、あたしは聞いた。

一瞬の沈黙。

ふと、サムの表情に暗い雲が行過ぎるのが見えた。

「いや・・・・・・それはできない」

沈んだ声がした。次の言葉に、あたしは返す言葉を失った。

「私はもう・・・・・・ベーグルは作らない。いや、作れないんだよ」

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#53 決意

もうあたしはワケがわかんなくて、ここにいたるまでの経緯やいろんな言い訳が、頭の中をぐるぐるぐるぐる回って、そのままめまいがして倒れそうになった。

目に見えてクラクラしていたんだろう、松井が笑って、
「大丈夫かよおい。ぶっ倒れそうだけど」
と言う。私はへなへな~っとその場に座り込んだ。

「空港にアンドリューの車が迎えに来てて、思わず乗っちゃったの。アンドリューは『ヒデキには連絡しといたから』って言ってたから、まさか待ってるなんて思わなかった」
ようやく経緯を話すと、松井が眉を寄せて返した。
「アンドリューが? 全然、聞いてないけど」
ちょっと考え込む表情になったが、「ま、いいか。ちゃんと会えたんだしな」と、笑顔になった。
その顔を見て、あたしもほっと笑みがこぼれた。

「右も左もわかんなくて迷ってるかと思って、おれも帰るに帰れなかったんだぜ」
そう言われて、ちょっと嬉しかった。心配して、ずっと待っていてくれたのだ。すなおにありがとう、と言うのがてれくさくて、あたしはちょっとだけ言い返した。
「さすがに右か左かくらいはわかるよ。ひとりでブライアント・パークにも行ってみたし・・・・・・」

そう言いかけて、あっと思い出した。
いなくなってしまっていたんだ。ベーグル・サム。

あたしはあわてて松井のシャツをつかんで言った。
「ねえ大変だよっ! ベーグル・サムが・・・・・・」
「ああ、知ってるよ」
松井はいたって落ち着いた態度でそう答えた。
「いないんだ。二週間まえから」

とたんにあたしはむっとなった。
なんだこいつ?! そんなにまえから知ってたんなら、なんで教えてくれなかったわけ?!
こっちは、サムに会いにわざわざ日本からやってきたっていうのに。

「ちょっと! そんなことひと言も教えてくれなかったじゃん?! どうすんの? あたし、もうここまで来ちゃったよ?!」

「だからだよ」
松井はやっぱり落ち着き払って言った。
「だから、教えなかった。サムがいないなら、もう行かない。そう思って、ニューヨークに来なくなっちまったらヤバい、と思って」

あたしは、なぜだかどきっとして、松井を見た。

「親父さんや怜奈ちゃんや、みんな協力してくれたんだろ? そして何より、あんた自身が自分で決めたことだろ? 絶対にニューヨークに来るって。それを、いまさら撤回するようなことになったらヤバい。そう思ったんだ」

そうだった。
みんなの後押しがあって、何よりあたし自身が絶対に絶対に行くんだって決めて、ようやくここまで来たんだ。
サムがいなくなったからって、ベーグル職人になる夢をすぐに捨てるわけにはいかない。

もちろん、大きなダメージではあるけど・・・・・・

「ま、おれもあんたをこっちに引っぱった手前、責任あるし。調べといたよ」
「え・・・・・・何を?」
涼しげな顔をして、平然と松井は返した。
「サムの居場所」

ええっ?!

あたしは松井に飛びつきそうな勢いで叫んだ。
「ま・・・・・・マジ?! なんでそれ先に言ってくれないの?!」
松井はおもしろそうに笑って答えた。
「だって、それ先に言ったら、あんたの決意を確認できないじゃん?」

何があっても、ニューヨークに来たことは間違いじゃなかった。
自分自身の意志で、来たんだから。

松井はあたしに、それを確認させたかったのだ。

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#52 ごめん

ニューヨークに着いて数時間後。あたしは早くも失意のどん底に突き落とされた。

サムがいない。

あたしは、あんなに憧れたブライアント・パークで、ひとり、途方に暮れた。
楡の木の下に立って、ベーグル好きっぽい感じがする何人かを呼び止めて、聞いてみた。

ベーグル・サムはどこに行っちゃったんですか?

誰ひとり、答えてくれなかった。

ああ、どうしよう。
アンドリューのランチはブッチしちゃったし。
松井には会えないし。
荷物はアンドリューの車のトランクに入れっぱだし。
とにかく、サムに会えればそこからなんとかなるだろう、と思ってたのに。

あたしはがっくりと、緑色のウッドチェアに腰を下ろして、地面をみつめた。

ふと、コートのポケットを探る。メモが入っている。
松井の家の住所が、書いてある。
あたしはぼんやりとそれを眺めていたが、
「そうか、タクシーで行っちゃえばいいんだ」
そうつぶやいて、立ち上がった。

くよくよしていても、すぐにサムが出てくるわけじゃない。風邪引いて休んでるだけかもしれない。ここは前向きに考えなくちゃ。

気を取り直して、表通りに出る。タクシーを止めて、住所を見せる。ターバンを頭に巻いたアラブ系運転手は、「オーケイ、オーケイ」と、あたしよりヘタな英語の発音で、乗せてくれた。

マンハッタンの運転手は移民が多くて、英語も地理もわかってない人がいるから気をつけて。

そういえば、出発前の豆知識で怜奈がそんなことを教えてくれたっけ。
あたしはちょっと身震いしたが、ええい、もう乗っちゃったんだ、行けるとこまで行っちゃえ! と、開き直る。

かなり乱暴な運転で、イエローキャブは西から東にストリートを突っ切っていく。セントラル・ステーション近くの信号で停まったとき、何気なく窓の外を見た。

スターバックスがある。
あ、ここ。松井と待ち合わせたところだ・・・・・・

と、思った瞬間。窓際のカウンターで、通りに向かって頬杖を突く見覚えのある野球キャップ。

あ。

「松井っ?!」
思わず叫んだ。信号が青になって、車が急発進する。

「あーーーっっ!! 停めて停めてっ!! ストーーーップ!!」

大声にびっくりしたのか、車は路肩に急停止した。後続の車が突っ込みそうになって、パッパッパーッとクラクションの大合唱になる。あたしはあわてて10ドル紙幣を手渡すと、
「おつりいらないから!」と日本語で叫んで飛び出した。

なんで? なんでなんで、松井がいるの??
約束の場所に???

スターバックスに飛び込む直前に、腕時計を見た。約束の時間から、二時間経っていた。

「・・・・・・ま、松井・・・・・・?」

あたしは息を切らしながら、背番号55に向かって恐る恐る声をかけた。
ヤンキースのキャップが振り向く。ちょっと怒った顔をしている。

アンドリューは、松井に連絡しておいた、って言ってたのに。何かの手違いだったのかな。
わかんない。なんだかわかんないけど、松井はずっとあたしを待っていてくれたみたいだ。

「ごめんっ」

あたしは地面に手が届くほど身体を前屈させて、頭を下げた。

申し訳ない。情けない。顔向けできない。
でも、ちょっと・・・・・・嬉しい。
二時間も、待っててくれたんだ。

ぽん、と肩を叩かれた。松井の大きな、あったかい手で。ふう、と安堵のため息が聞こえた。

「やっと来たな。ベーグル職人」

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#51 いない?!

そうして、あたしは、とうとうやってきた。
ブライアント・パークに。

アンドリューの会社を抜け出して、表通りに走り出る。
春まだ浅い街角には、ときおり冷たい風が吹きぬける。

ちょうどランチタイムを迎えたストリートと、その向こうにあるブライアント・パークでは、人々が賑やかに行き交っている。
コートの襟を立てたビジネスマン。
マフラーをぐるぐる巻きにした学生。
ベビーカーを押すベビーシッター。
どこからともなく、焼きたてのベーグルのにおいがする。

ああ、帰ってきたんだ。
この場所に。

痛いくらいに胸を高鳴らせて、あたしはシグナルが変わるのを待つ。ニューヨーカーは、信号が赤でも車が来てなけりゃがんがん渡ってしまうんだけど、そこは日本人の性というか美徳で、ぐっと待つ。
青になるまで。5、4、3、2、1。

若々しい芽吹きの木々に向かって、一目散に走っていく。
あの楡の木の下に、ベーグル・サムがいるんだ。

まるで大好きな恋人に会いに行くみたいに、息を切らせてあたしは走った。

サムに最初にあったら、なんて言おう。
元気ですか? またお会いできてうれしいです。私の名前はナツキです・・・・・・
ってそれじゃまるで中学生英語だな。
サム。あなたと初めて会ったときから、あなたが私の目標になりました。
あなたの作るベーグルが、私の世界を変えてしまった。
少しでも、あなたに追いつきたい。あなたのような、ベーグル職人になりたい。
そう願って、私、ここまで来ました。

日本から、アメリカまで。
東京から、ニューヨークまで。
代官山から、ブライアントパークまで。

だから・・・・・・

あたしは足を止めた。

このまえここに来たとき、確かにサムが立っていた楡の木の下。
そこに、サムはいなかった。

壊れそうにはかない早春の陽だまりと、ときおり頬を撫でる冷たい風。
ベーグル、ベーグル! 世界一のベーグルだよ!
陽気な声を張り上げて、サムがいるはずだった場所には、学生らしきメガネの女の子が緑のウッドチェアに座っていた。膝の上に分厚い本を広げて、ハンバーガーをかじっている。

あたしは思わず彼女のところへ駆け寄った。
じっと見下ろすあたしの視線に気づいて、女の子がそばかすだらけの顔を上げた。
あたしと目が合うと、「ハーイ」と笑いかけてくる。

「あの、すみません。サムは、・・・・・・ベーグル・サムは、どこにいるんですか?」

あたしは、しどろもどろながら、なんとか英語で話しかけた。彼女は首をかしげると、
「ベーグル・サム? 誰? 知らないわ」
そう答えた。

え・・・・・・・・・・・・

あたしは一瞬、頭の中が真っ白になった。

「う、嘘でしょ。あんな超有名人を知らないなんて・・・・・・あなた、ニューヨーカーじゃないよね?! カントリーガールだよね??!!」
あたしは赤の他人の彼女に、日本人の美徳完全無視でいきなり詰め寄ってしまった。
あたしにとってベーグル・サムはマイケル・ジャクソンと同等かそれ以上に有名人なのにっ。
もちろん、彼女はドン引きだった。「知らないわよ。変な子!」とひと言残して、足早にその場を去ってしまった。

ニューヨークに着いていきなりアメリカ人をドン引きさせてしまった。

が、いまはそれどころじゃない。あたしは焦った。

どこ行っちゃったの、サム??!!

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#50 約束

いきなり王子に熱い抱擁をかまされて、あたしは10秒以内に気絶しそうになった。

落ち着けあたし。
そう、ここはアメリカ・ニューヨーク。
ハグなんてフツウのごあいさつなのよっ。

そう自分に言い聞かせつつ、ブルガリ・プール・オムのエロい香りにおぼれそうになる。

「ヒデキから君がこっちへ引っ越してくるって聞いて、さっそくランチに招待しようと思ったんだ。ナイショで迎えを出すなんて、ちょっと強引過ぎたかな」

アンドリューは無邪気な笑顔で言う。
あたしは驚いて、すぐに返した。
「そ、それは嬉しいけど・・・・・・今日は松井とランチの約束、してるし」

セントラル・ステーションで落ち合ったあと、すぐにブライアント・パークへ行こう。
ベーグル・サムのベーグルを買って、ランチしよう。

松井と、そう約束していた。
それは何より、大切な約束だった。

だってあたし、今日、サムに打ち明けるんだ。
あなたを目指して、ここまで来ました。
自分でそう告げるのを、松井に届けてもらうんだ。

もしもこの先、あたしがくじけそうなときがあったら。
夢をあきらめて、日本に逃げ帰りそうになったら。

あのときあんなふうに言ってただろ。

いましめてもらうためにも、誰かに見届けて欲しかったんだ。

アンドリューの青空のような瞳に、ほんの少し雲がかかるのが見えた。
「そうか。さっき連絡したとき、彼はそんなことなんにも言ってなかったけどな」

そう言われて、あたしは胸の奥がちくん、と痛むのを感じた。

あたしにとっては大事でも、松井にとってはひまつぶし、みたいなものなのかな。

あたしはがっかりした。
なんだか、NYに来た意味が、少し変わってしまったような気がした。

サムに打ち明けるのは、明日でもあさってでもできる。
松井も、アンドリューがあたしをオフィスに招待すると知って、そう思ったのかもしれない。

だけどあたしは、いちばん最初にそうしたかったのだ。

「とにかく。MPDにあるレストラン『モリモト』で予約してあるんだ。長旅で疲れてるだろ? やっぱり和食がいいかな、って思ってね」
アンドリューはデスクに戻ると、インターフォンで「レベッカ、出かけるから車を回しておいてくれ」と英語で指示している。
かつかつと靴音を響かせて、もう一度あたしのそばへくると、
「さ。行こう。いまから行く店はスイーツもおいしいんだ。また意見聞かせてくれるよね?」
さりげなく肩に手を回した。

が、あろうことかあたしは、その手からするっとすり抜けてしまったのだ。

「ナツキ?」

アンドリューは不思議そうな表情であたしを見ている。
あたしはおろおろと床を見たり天井を見たり壁を向いたりしていたが、ようやくアンドリューの顔をまっすぐに見ると、きっぱり言った。

「ごめんっ! あたし、行くところがあるの。どうしても、いますぐ、行かなくちゃならないんだ。だから・・・・・・」

アンドリューの表情が、だんだん険しくなるのがわかる。
うわ・・・・・・白い王子が黒ずんできてる・・・・・・

「じゃあねっ。See Ya!」

ひと言叫んで、あたしはドアから飛び出した。
長い廊下を走りながら、あたしは自分の最後の英語のセリフに、自分でちょっとシビれてしまった。

See Ya! って一回使ってみたかったんだよね。こんなに早く口にできるとはなあ。しかもごく自然に・・・・・・

エレベーターのドアが閉まってから、ふと気がついた。

そういえば、スーツケース。リムジンのトランクに置きっぱだ・・・・・・(汗

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#49 会社訪問

自分の名前が書いてあるプレートに引き寄せられて、あたしはそれを持って突っ立っているアフリカン・アメリカンのおじさんの顔を見た。
じろりとこっちを睨む。PRIDEにでも出てきそうなガッチリ系だ。あたしは思わず身を縮めた。

「Are you Ms. Natsuki Morita?」
こわごわうなずくと、イカついおじさんのこわもてが、急にニコ~っと崩れた。
「This way, please」
うやうやしく誘う。あたしは、はいっ!と叫んで大あわてでついていった。

・・・・・・っていきなり誰だよ?!

「ちょ、ちょっとちょっと、待ってください!
あなたは誰ですか?!」
あたしはおじさんのスーツの裾を引っぱって、ようやく尋ねた。もちろん英語で。

おじさんは、満面の笑みで答える。もちろん英語で。
「ミスター・アンドリュー・オールダムのご依頼で、あなたをお迎えに上がりました。すぐに彼のオフィスまで連れてくるようにと」

王子がシンデレラを王国の謁見の間へお連れするようにとおっしゃいました。

そう聞こえた。
って、あたしの頭の中の翻訳機はどうなってるんだろうか・・・・・・

ピカピカ黒塗りリムジンは、ミッドタウンのま新しいビルの前に音もなく到着した。

「ようこそ、ミス・モリタ」
受付であたしを迎えてくれたのは、アンドリューのアシスタントのレベッカ。金髪のセミロングヘアにダークスーツが超キマってる。「セックス・アンド・ザ・シティ」のキャリー・ブラッドショーみたいだ。

「こちらへどうぞ」
カツカツとヒールの音を響かせるあとから、ちょこちょことオニヅカタイガーのスニーカーでついていくあたし。
ああ、なんて絵にならないんだろう、と逃げ出したくなる。

それにしても有無を言わさずここまで連れてこられてしまった。
NYに着いたら即、現地携帯を買おうと思ってたので、松井に連絡もできない。
仕方ない、アンドリューに会ったら、その場で電話してもらおう、と思いつつ、横槍を入れてきた王子の真意を測りかねて戸惑う。

ピカピカの広いロビー、ガラス張りのエレベーター、無駄に間接照明の廊下。歩きながらずっと、あたしは口を開けたまま頭をぐるんぐるん回して見とれていた。

マホガニーの重厚なドアに金色のプレートで「Andrew H. Oldum」と書いてある。あたしはごくんとつばを飲み込んだ。

レベッカがノックをすると、「カムイン」と歌うような声。重々しいドアを開けると、目の前に、大きな窓がある広々とした部屋が現れた。

若々しい緑が芽吹くブライアント・パークの風景をバックに、いかにも社長のデスクっぽいデスクがあり、いかにも社長のイスっぽいイスに座っていた副社長のアンドリューが、青い瞳をこちらに向けた。

「ナツキ。よく来たね」

たちまち笑顔になって、アンドリューは立ち上がった。
あたしは「へへーっ」とひれ伏しそうになった。
ま、まぶしすぎます王子。

「ごめんアンドリュー、先にひとつお願いがあるんだけど」

近づいてくるアンドリューにどぎまぎしながら、あたしはあわててそう言った。
「松井に電話してもいいかな。セントラル・ステーションのスターバックスで、待っててくれてるはずなんで・・・・・・」

「ああ、そのことだったら大丈夫。私から迎えを出す、って彼にはもう言ってあるから」

「え、そ、そうなの?」
どぎまぎするあたしを、アンドリューは優しい目でみつめると、

「会いたかったよ、ナツキ」

いきなりぎゅううう~っとハグしてきた。

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#48 帰ってきた!

ニューヨーク行きフライトの最終案内が流れる。

とうとう、このときがきた。

あたしはみんなの顔をひとつひとつ眺めると、「じゃあ、いってくるね」と声をかけた。

みんな、すごくいい笑顔だ。
「いってらっしゃい」
「がんばれよ」
「元気でね」
「目指せ世界一!」
口々に叫んで、元気いっぱいに手を振ってくれている。

ありがとう、お父さんお母さん。
ありがとう、ややちゃん。
怜奈。

みんな笑顔で見送ってくれてるのに、あたしだけが、ちょっとだけ泣きそうだった。

「夏輝!」

ゲートに入っていこうとして、怜奈の声に呼び止められた。

「あたしもいつか、必ず行くから!ブライアント・パークに!」

怜奈が一歩踏み出して、そう言った。
涙声だった。

「だから待っててね、夏輝!」

あたしは大きくうなずいて見せた。

ヤバい。

ちょっとだけ、涙がこぼれてしまった。
それを見られたくなくて、あたしは走ってゲートに飛び込んでいった。

手荷物検査のカウンターに冷凍ボックスをのっけながら、涙が流れて仕方がなかった。

きっと会おうね、怜奈。ぜったいに。約束だよ。

いつか、ブライアント・パークで。

不思議な気がする。

生まれて初めての海外旅行で、生まれて初めてJFK国際空港に降り立ったのは、つい半年くらい前のことだ。

ふたたびJFKに到着して、入国審査の長い列に並びながら、色々なことを思い出した。

空港でうろたえ、飛行機のなかではそわそわして、空港からのバスで見上げた高層ビル群に、ひとりで歓声を上げてたっけ。

それから、怜奈に教えてもらったんだ。ニューヨークの歩き方を。
北がアップタウン、南がダウンタウン。番地の見つけ方、タクシーの乗り方。楽しかったなあ。

初めてひとりで歩いたマンハッタンの街角。あのとき、こみ上げてきた思い。

ああ、この街をいつか自然に歩けたら。
時間を気にせず、目的もなく、いつまでも歩いていけたら。
そんなふうに憧れて、胸を熱くした。

その場所へ、帰ってきたんだ。

ターンテーブルからスーツケースをよっこらしょ、と下ろして、ゴロゴロと引っぱって出口に向かう。
めちゃくちゃワクワクする。自然と笑みがこぼれる。
もう、夢じゃない。
これから、あたしのニューヨーク生活が始まるんだ。

到着のドアを出ると、出迎えのプレートを掲げた人々の顔がずらりと並んでいる。
あたしは松井の指示通り、とりあえずリムジンバスでセントラルステーション付近まで行くことになっていた。
そこで松井と落ち合うのだ。

なんだか、どきどきする。なんだこの胸の高鳴りは。
まるで遠距離のカレに会うみたいじゃないか。

いやいや、とあたしはあわてて自分に言い聞かせる。
NY効果だってば。大好きな街に帰ってきたからだってば。

ふと、居並ぶプレートのなかに、見覚えのある日本人の名前が見えた。
その前で、思わずあたしは立ち止まった。

「歓迎 森田夏輝 様」

ってそれあたしの名前じゃないか?!

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#47 旅立ち

3月。
春の訪れをほんのり実感できる、よく晴れた日。
あたしは成田空港第2ターミナルの出発ゲート前にきていた。

あたしの前にはお父さん、お母さん、弟が立っている。
「デイリー・ベーグル」のバイト仲間、ややちゃんも。
そして、怜奈も。
一列に並んで、みんな笑顔だ。

「お前、ほんとに大丈夫なのか? 英語ちゃんと通じるのか?」
お父さんはさっきから同じ質問を30回以上している。
「大丈夫だよ。『ビリーズ・ブート・キャンプ』で鍛え済みだもんな?」
弟がまったく根拠のないフォローを入れる。だいたい、あれ英会話のレッスンじゃないし。
「代官山のお店は外国人のお客様も多いんですよ。それ全部、夏輝が対応してたんです。だから大丈夫」
ややちゃんが根拠あるフォローを入れてくれた。
実際、ニューヨークに行くことが決まってからは積極的に外国人客の相手をした。何が話せなくても、少なくともベーグルの話ができればいい。そう思って、必死にコミュニケーションした。そして、好きなものに関しては案外話ができるものだ、と悟った。

「お友だちへのおみやげ、ほんとにこんなものでいいの?」
母が不安そうに言う。あたしは「もちろん」とうなずいた。
母に頼んで持たせてもらったのは、小さな冷凍ボックス。中身は「水戸一」特製ヤキソバパンの具財だった。
これを使って、ニューヨークでヤキソバパンを作って食べさせるのだ。
そう、松井ヒデキに。

実は、ニューヨークに移住するにあたって、住むところが決まるまで、松井の家に居候することになったのだ(両親には松井ヒデ子という日本人女子のところ、とごまかしていた)。

松井は3ベッドルームのけっこうなアパートに住んでいるらしい。
「ゲスト用バスルームもあるし、使えば? タダで泊めてやるよ」
と言われたのだ。

正直、かなり迷った。いろんな意味で。

相手が誰であろうと、とりあえずはオトコ&オンナなわけだ。ひとつ屋根の下にいて、ナニが起こらないとは誰にも保証できない。

そう考えた時点で「ナニ考えてんだあたし?!」とあわててしまった。
松井のほうは、当然そんなこと考えていないからこそオファーしてくれたに決まっている。そんなこと考えるあたしの心にヤマしいことがあるんじゃないか。

それに、なんのあてもなくいきなり転がりこむのは図々し過ぎないか。
もとはといえば、公園での単なる行きずり同士。
松井の生活にあたしが踏み込む権利なんかないんじゃない??

が、アンドリューに「しばらく泊めて(ハート)」と言うには、大気圏突破くらいの勇気とパワーがいる。
ニューヨークでカネもコネもないあたし。
松井のオファーは、ありがたいのを通り越して泣けるくらい、っていうのがホンネだった。

「夏輝らしくないなあ。そんなときこそ図々しくならなくちゃ、ニューヨークで生きていけないよ」
そうアドバイスしてくれたのは、怜奈だった。

怜奈は、あたしがニューヨークに行くと打ち明けた日から、全面的に協力してくれた。
現地での生活についてあれこれ教えてくれ、友だちを紹介してくれた。
怜奈はなんだか、一生懸命だった。
まるで、自分が夢に向かって飛び立っていく準備をしているみたいに。

あたしは怜奈の助言を得て、松井の申し出をありがたく受けることにした。

「ただし、ひとつだけ条件がある」
と、松井はメールで言ってきた。
「こっちで『水戸一』のヤキソバパン、作ってくんない?」
いろんな意味で、トンデモないやつだ。

ニューヨークに出発前、あたしは実家に帰ってヤキソバパンを両親から伝授してもらった。
それは結局、すごくいい経験になった。両親がどんなに精一杯の技術と愛情を注いで、1個150円のパンを作り続けてきたのか。あたしはようやく目が覚める思いがした。

去年の年末に、「水戸一」は三十年間の歴史に終止符を打った。
最終日は、あたしも手伝いにいった。
信じられないほどたくさんの人々が押しかけた。地元のおばさん、中高生たち、おじいちゃんおばあちゃん。
まったく、閉店するまえにもっと来てくれてりゃあなあ、なんて父もつい苦笑になる。
あたしたち親子は、最後の三日間、力を合わせて心のこもったパンを焼き、ひとりひとりにていねいに手渡した。

最終日、シャッターを閉めたあと、
「ほいこれ。お疲れさん」
と、父が分厚い封筒を渡してくれた。

なけなしの貯金を全部はたいて、あたしの渡航費と当面のNYでの生活費を工面してくれたのだ。

あたしはどんな言葉も出なかった。
ただ、封筒をぎゅっと抱きしめた。

そしてこの春、父は地元の製パン工場に就職した。
どんなかたちであれ、パン作りに再び関われる、と嬉しそうだ。
父はほんとうに、どんなことよりも、パン作りが大好きなのだ。

「いずれお前が一人前にベーグル作れるようになったら、今度はおれが手伝わせてもらおうかな」
なんて言っている。

そのときまで、腕が錆びないように、おれもがんばる。
だからお前は、おれの100倍、がんばれよ。

父はそう言って、あたしの背中を押してくれた。

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#46 戦略結婚

怜奈の告白は、あたしの告白をはるかに上回る衝撃だった。

「ちょっ・・・・・・ちょっと待って怜奈。なんかそれ意味がわかんないんだけど」
それじゃまるで時代劇のお姫様じゃないか。

怜奈は弱々しく笑って見せた。
「夏輝には言ってなかったんだけど・・・・・・半年くらいまえ、パパに言われてお見合いしたんだ。でもあたし、いま好きな人がいるし・・・・・・断ろうと思ってたんだけど」

好きな人。アンドリューのことだ。

あたしは思い切り怜奈のほうに身を乗り出した。
「だったらアンドリューと結婚すりゃいいじゃん?! ほんとに好きな人と結婚しなくちゃ、一生後悔するよ?!」
怜奈に気のあるそぶりをしていたアンドリューを疑っていたくせに、あたしは思わずそう言ってしまった。
だって、親の言いなりに結婚するなんて、不幸になるに決まってるじゃないか。

「そんなの無理だよ。夏輝の言ってたとおり、『結婚とか興味あるの?』って言われただけだし。それをプロポーズって思うほうが、どうかしてるよ」

やばい。いつもの怜奈じゃない。
どんなときでも超強気の怜奈が、どんなオトコも意のままに操る妖術系魅力を備えたお姫様が、すっかり意気消沈してる。

「それに、パパの会社を救うためには、そのほうがいいんだし」
意外な言葉に、あたしはもう一度驚くはめになった。

「それ、どう言うこと??お父さんの会社が、どうかしたの?」

怜奈はしばらく押し黙っていたが、観念したように話し始めた。

怜奈のお父さんは高級スーパーを全国規模で展開しているT社のオーナー社長だ。
このところ業績不振に苦しんでいて、競争激しい業界をどうやって生き延びていくか苦心している。怜奈の結婚相手に決められたのは取引先の大手アパレルメーカーの社長令息だそうだ。軽い気持ちで会ってみたら、向こうのほうが本気になったという。

「パパとしては断るに断れないって。うちのスーパーに大型のテナントで入ってもらってる会社だし・・・・・・」
「そんなの関係ないじゃん! テナントだかなんだか知らないけど、結婚は怜奈が決めることだよ?! そんな、戦国時代みたいな戦略結婚なんてなしだよ!」

あたしはまるで自分がヨメに出されるみたいに興奮して叫んだ。これじゃまるで、豊臣秀吉に嫁ぐ淀君じゃないか。

怜奈はあたしのほうに顔を向けると、もう一度弱々しく笑った。

「夏輝。正直に言うね。あたし、夏輝のことがずっとうらやましかったんだ」

まったく予想外の言葉だった。

だからあたしはまた、怜奈が言ってることの意味がわからなくなった。

うらやましいって? どういうこと? 
それはこっちのセリフじゃん??

「夏輝は自由で、いつも生き生きしてて、自分のやりたいことに一生懸命で。あたしなんか親に言われた学校に行って、親の勧めで留学して、親のコネで会社に入って、親の言うとおりに結婚する。そんなふうにしか、生きられない。思い切って夏輝みたいに生きていけたらな、っていつも思ってた」

あたしはあぜんとした。
でもって胸が、きゅうっと痛くなった。

怜奈がそんなふうにあたしを見てたなんて、一度も考えたことなかった。

あたしにないものを全部持っている憧れのお姫様。どんな望みもかなうのが当然なはずの女の子。
そんなふうに思って、怜奈のまえで、あたしはいつもちょっといじけていた。

怜奈のほんとうの気持ちを、ほんのちょっとも知ろうともせずに。

「夏樹がニューヨークに行くって聞いてびっくりしたけど、当然だな、って思った。だって夏輝はそういう子なんだもん。自由に羽ばたくのが、きっと性分なんだよ」

怜奈は、じっとあたしをみつめて告げた。

「夏輝。ニューヨークで、好きなこと思いっきりやってよね。あたしができなかったぶんまで」

その瞳は、うっすらとうるんでいた。

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#45 サイコー!

週末のランチタイム。
あたしは怜奈と一緒に、西郷山公園のベンチに並んで座っていた。

もう12月で寒いし、カフェでランチしよ、と誘ったんだけど、怜奈のほうから「今日はけっこうあったかいから、公園ランチしない?」と言ってきたのだ。

「あー気持ちいい。外でランチ久しぶりだなあ」
小春日和の日差しに背伸びして怜奈が言う。
「あの二人と一緒に、夏輝のベーグル食べたとき以来だよ」

実はあたしも、あれ以来だった。
トートバッグからベーグルサンドを取り出して、「はい、これ。本日のランチ」と手渡す。
「わ、スモークサーモンだ。大好物。サンキュ」
嬉しそうに包みを開いて、一口ほおばる。
「うん、おいしーっ。やっぱり、夏輝のベーグル、サイコー」
あたしは怜奈がちっちゃな口で一生懸命ベーグルを食べるのをしばらく眺めてから、聞いてみた。

「ねえ怜奈。怜奈はいつも、あたしの作るパンとかお菓子サイコー!って言ってくれてたよね。それってほんと?」
怜奈は笑って返した。
「あたりまえだよ。夏輝の作ったパンとか食べると、なんか自然に出ちゃうんだもん。サイコー!って」

そう。なんであれ、あたしが作ったフードを、怜奈はいつもサイコー!と言ってくれる。
大学時代に出会ってから、怜奈を(カレがいたときも含めて)喜ばせたくて、サイコー!のひと言が聞きたくて、ケーキやらパンやらお弁当やら、せっせと作って持っていったんだっけ。

ベーグルサンドを食べ終わるのを待ってから、あたしは怜奈に向き合った。

「怜奈。あたし、決心したんだ。ニューヨークに行くって」

怜奈の大きな目が、もっと大きくなった。その目をみつめて、あたしは続けた。

「怜奈がサイコー!って言ってくれるベーグルを、もっと極めてみたい、って思ってる。実はね。あの街に、あたしが勝手に『マイ師匠』って認定した世界一のベーグル屋さんがいるんだ。その話、ここにNY男子たちと一緒にきたとき、ちょっとだけ話したよね。覚えてる?」

あたしとNY男子たちの出会いについて話したとき、ベーグル・サムの話が一瞬出たのだ。
「え?そうだっけ??」
怜奈はもちろん覚えていなかった。まあ、あのときは王子に夢中になっていて、あたしの夢のかけらなんて怜奈の眼中にはなかったんだろう。

あたしは怜奈に、自分の気持ちを洗いざらい話した。
ベーグル・サムのベーグルがどんなに衝撃的だったか。アンドリューや松井も彼のベーグルにほれ込んでいること。NYから帰ってきてからずっと、あんなベーグルを作りたい!と思いつめてること。

そして、実家が店を閉めることも打ち明けた。

「父に『店を閉める』って打ち明けられたとき、正直、もうだめだな、ってあきらめかけたんだ。実家が大変なときに、のんきにニューヨークなんて行ってる場合じゃないじゃん? でもね、逆だったの。お父さん、『行ってこい。一人前になるまで帰ってくるな』って言ってくれた。かなり無理して」

あたしは苦笑した。怜奈は驚きを隠せない様子だった。

「そうだったんだ」
しばらくして、ぽつりと怜奈の声がした。

「あたしも、夏輝に打ち明けなくちゃいけないことがあるの」

あたしは怜奈を見た。大きな瞳からは驚きの色は消え、かわりに少し震えている。

「あたしね。来年、結婚するの」

怜奈の告白に、今度はあたしが目を見張った。

まさか、アンドリューと? それとも・・・・・・

呆然とするあたしから目をそらすと、怜奈は消え入りそうな声で言った。

「・・・・・・パパが決めた人と」

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#44 電話

松井宛てに書いたメールを何度も何度も読み返して、夜中の2時過ぎ、ようやく送信した。

なんだかドキドキしてしまった。ラブメールでもないのにな。

ベッドに入っても頭がさえてしまって眠れない。もぞもぞしていると、突然、携帯が鳴った。
あたしは文字通り飛び起きた。なんと松井からの電話だった。

「よお。長くてあっついメール、読んだぜ」
開口一番、そう言った。あたしは暗闇の中で真っ赤になった。
「もう、茶化さないでよ。けっこうまじに書いたんだから」
おもしろそうに笑う声が、携帯の奥から響く。目の前にあいつがいるみたいに感じた。

「『水戸一』が店じまいって書いてあったから、あんまりビックリして電話しちゃったよ。ああ、閉店前にヤキソバパン食いてえ」
あたしはちょっとだけ複雑な気分になった。
あたしの夢とかそういうことよりも、そこに反応したわけか・・・・・・
「年末までに帰国するなら、一個取っとくよ」
冗談で言うと、
「そのために帰ろうかなあ」
なんて言ってる。けっこう本気っぽく。

「でもまあ、リベンジすりゃいいよ。あんたが世界一のベーグル職人になって」
松井は真面目な口調で続けた。
「ニューヨークって街は簡単にはサバイバルできないとこけど、なんかやってやろう!ってやつにはいつもドアが開いてるんだ。だから、そっから入ってこいよ」
あたしは思わず、胸の上に片手をおいた。心臓が、急に高鳴りだしたのだ。

だから、そっから入ってこいよ。

その言葉が、体中を駆け巡る気がした。

「こっちで一流の技術を磨いて、今度はあんたが『水戸一』以上の店を、いずれ作ればいい。親父さんが『行ってこい』って言ったのは、そのへん期待してんだろ。自分ではできなかったことを、あんたに託したのかもしれないぜ」

「それって、どういう・・・・・・」
ちょっとだけ声が震えてしまうのをおさえながら、あたしは聞いてみた。

「ベーカリーだよ。『水戸一』じゃなくて『世界一』の」

そう言ってから、松井は笑って、
「いきなり目標デカすぎか。せめて『日本一』の」
と言った。

なんだろう。

あたしは胸の奥が、じんと熱くなるのを感じていた。
どうしてだかわからない。でも、鼻の奥も、つんとなった。

涙声になりそうなのを必死にごまかしながら、あたしは明るい声で返した。

「あのさ、松井」

「なんだよ」

あたしはすなおに、ごく自然に言った。
「ありがと。なんかあたし、すっごいやる気になってきた」

ほんのちょっと間があって、松井が返してきた。
「なんつって、きびしいぜ。ニューヨークで生きてくのは。弱気なやつは、どんどん振り落とされるし」

電話でしゃべっていることも忘れて、あたしは一生懸命うなずいて見せた。

「あのアンドリューだって、千ドルの資金を元手にデイトレーダーをやってのし上がったんだ。本人に悪気はなくても、結局周囲の人たちを傷つけるようなこともあるしな」
あたしは黙っていた。意気消沈する怜奈が、一瞬脳裏をかすめる。

「あんたも学習して、やつを利用できるくらいになればいい。あいつだってあんたを利用したんだから」

ファミレスの一夜のことを、松井は打ち明けてくれた。
あそこのスタッフにはハートがある。何気なく言ったあたしのひと言が、アンドリューに買収を決意させるきっかけになった、と。

心がけのいいスタッフがいて、ハートのこもったデザートを提供している。苦境にあっても、いいスタッフがいる会社は伸びる。それがアンドリューの判断材料になったのだ。

「あんたには、それだけ洞察力がある。人を見る目と、うまいものを見る目と。・・・・・・・ってまあ、ひと言で言うと食いしん坊、ってことだけど」
松井の笑い声が耳の奥に響く。あたしも一緒に笑ってしまった。

そして、松井の次のひと言で、あたしの心はすっかり決まってしまった。

「その才能、活かしてみろよ。ニューヨークで」

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#43 長いメール

次の日の朝。あたしはひさしぶりに、実家のパン屋「水戸一」の店先に立った。

昔ながらのあんパン、クリームパン、コロッケパン。ヤキソバパンは、あたしも大好きな一品だ。母が作るヤキソバがたっぷり入ってる。高校時代、残り物のヤキソバがお弁当におかずとして入っていたのは、ちょっとうんざりだったけど。

「あら夏輝ちゃん。ひさしぶりねえ、帰ってきとったの?」
近所のおばさんに声をかけられて、あたしは懐かしさで胸がいっぱいになる。
「水戸一さん、お店閉めるんだってねえ。あんたがこっちへ帰ってきてお店継いだらどうなの?」
そう言われて、あたしは弱々しく笑って返すことしかできない。

昼には近所のおばあちゃんが、午後には部活帰りの中学生たちがやってくる。
ヤキソバパンを袋に入れながら、そういえば松井も部活帰りにヤキソバパンを買っていった、って言ってたなあ、と思い出す。

水戸一のヤキソバパンは絶品だよ!

そう言ってくれたとき、少年のように目を輝かせていた。

なんでだろう。昨日今日と、やたら松井のことを思い出す。
ニューヨークに行きたいって夢のこと、父が店をたたもうとしていること、全部まとめて、松井に聞いてもらいたい。
それがあたしの正直な気持ちだった。

午後六時。店を閉めてから、あわただしく帰りじたくをした。
「じゃあ、また来るから。今度は年末になっちゃうかもしれないけど」
玄関先で、並んで立っている父と母にそう言った。
「おう。店じまいの手伝い、してもらうぞ」
父が言った。少しだけ、寂しそうな顔で。
あたしはうなずいた。
玄関のドアを開けかけたとき、「夏輝」と父が呼び止めた。

「店を閉めれば、おれも肩の荷が下りる。娘の一人くらい、外国へ送り出す余裕も多少できるさ。きっと、嫁にいかせるより簡単だ」

あたしは振り向いて父を見た。
父の顔からは、寂しそうな表情はもう消えていた。

「ニューヨークでもどこでも、行ってこい。その代わり、一人前になるまで帰ってくるなよ。いいな?」

その夜、あたしは松井にメールを書いた。長い長いメールを。

アンドリューの会社がF社を買収したのには、正直驚いたこと。
アンドリューが怜奈に思わせぶりな態度を見せて、怜奈が戸惑っていること。
店を閉める、と父に告白されたこと。

そして、あたし自身の夢。
できるだけ早くニューヨークに行って、ベーグル・サムに弟子入りしたい、と思いを募らせていること。

なにもかも、正直に打ち明けた。

あたしは自分で驚いていた。こんなふうに、松井に洗いざらい、自分の思っていることを打ち明けられるなんて。
それは、ほかの誰でもなくて松井に聞いてもらうのが、いちばんいいんだ、と思ったからだ。

自分に正直になろう。あたしは、そう思った。

実家で父と正面から向き合って話したことが、あたしをいっそうそんな気持ちにさせた。

F社買収が発覚する直前までは、あたしの夢のことを、アンドリューに聞いてもらおうと思っていた。
実は、結構ずるいことを考えていたのだ。

アンドリューは正真正銘のエグゼクティブで、お金持ちで、社会的にも力がある。そしてあたし(怜奈にもだけど)に優しくしてくれている。ニューヨークでの生活基盤を作るうえで、サポーターになってもらうには彼以外いないじゃないか、と。

だけどあたしは、今度こそ、自分の本当の気持ちに向き合った。
あたしにとっていちばん大切な話を、いまだれに相談したらいいのか。

それはアンドリューじゃなくて。
なんだか、たぶん、松井ヒデキ・・・・・・のような気がしたんだ。

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#42 告白

「お父さん。あのさ・・・・・・ちょっと聞いてもらいたいことがあるんだけど」

夕食のあと、母に冷凍ベーグルをトーストしてもらっているあいだ、テレビを見ている父に話しかけてみた。

「なんだあらたまって。嫁のもらい手でも決まったのか」

まったく嫌味にしか聞こえないんですが。

「はあ。だったらいいんだけどね」
あたしがため息混じりに言うと、父は気持ちよく笑い声を立てた。
「そりゃひと安心だ。こんな貧乏なうちじゃ、結婚資金なんか1円も出ないからな」

ってどういう理由で安心してんのお父さん?!

あたしは父の笑い顔を眺めていたが、意を決して話し出した。

「ねえお父さん。あたしにとってはお父さんがパン作りの先生みたいなもんだから、最初に相談しようと思ったんだけどさ・・・・・・」

それにスポンサーでもあるわけだから、とは思いつつも口にしなかった。

「あたし、この前ニューヨークに行って思ったんだ。世界はすっごい広い!あたしの知らないことがまだまだいっぱいある!って。だからもっと世界に出て行って、色々体験してみたい、って」

マンハッタンでベーグルの食べ歩きをしたときの感じを思い出しながら、そして目の前にベーグル・サムが出てきたかのように、あたしは誰もいない空間をみつめて、思い切って言った。

「あたし、ニューヨークでベーグル職人になる修行がしたい。できるだけ早く」

父がこちらを見た。驚きの色が、目に浮かんでいる。
あたしはもう一回、勇気を振り絞って言い足した。

「できることなら世界一のベーグルを作りたい。その目標になる人が、あの街にいたの」

ブライアントパークに。

そこまで言った瞬間、ベーグル・サムの隣にふっと松井の姿が浮かんだ。

あれ、どうしてだろ。なんであいつが・・・・・・

あんたの未来に投資する。

あのとき、たしかあいつはそう言ってくれたんだった。

「夏輝。実は、おれのほうからも話したいことがあったんだ」

ブライアント・パークに気持ちが飛んでしまっていたあたしは、父の沈んだ声で呼び戻された。
ちょうど、母がトーストしてバターを添えたベーグルを運んできたところだった。母はそのまま、父の隣に座った。

「お前がニューヨークにいって、あれこれ体験してきたことは、おれもよかったと思ってる。夢中になる気持ちもわからんでもない。でもな夏輝。現実ってのは、けっこうきびしいもんなんだ」

職人気質の父は、時々こんなふうにおおげさなことを言い出す。だからあたしは「また始まったよお父さん」くらいにしか思わなかった。
次の言葉を聞くまでは。

「うちの店は、今年いっぱいで閉めようと思う」

えっ。

あたしは父の顔を見た。それから、母の顔も。
沈痛な表情ではない。どこかしら吹っ切れたような顔だった。

もう決めたんだ。

ふたりの表情が、そう語っていた。

「ここまでがんばってきたけどね。もう限界なのよ。原材料も上がる一方だし、大手のスーパーにお客さんも流れちゃうしね」
母は弱々しく笑った。

「まだまだいけると思ってたけどなあ。おれも年を取れば取るほど再就職もできなくなるからな。この辺で見切りをつけなくちゃ」
父が、かすかに笑って言った。

あたしはどうしても言葉が出なかった。

うそでしょお父さん? 
お父さんが、パンをもう作らなくなっちゃうなんて???

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#41 帰省

晴れない気分で、週末、あたしは水戸行きの長距離バスに乗っていた。
どこまでも単調な高速道路に沿って、あたしの心の中をそっくり映したような曇り空が続いている。

怜奈はあれから、なんだか臆病になってしまってアンドリューにメールも送ってないらしい。
例の買収の一件は、あたしだってNY男子たちになんてコメントしたらいいのかわからない。

やったね☆ってのもなんかヘンだし、おめでとう、ってのもしっくりこない。
日本の老舗を乗っ取るなよオイ#って怒るのも違うし。

それにしてもあいつら、NYに帰ってから連絡してこなくなった。やつらの来日中に、スイーツ食いまくり以外にあたしが何をしたわけでもないが、ぱったりと連絡が途切れると、寂しいようなくやしいような、妙な気分になる。

アンドリューが怜奈に思わせぶりなことを言っているのも、実際気になる。
本来なら、憧れの王子が怜奈に気のあるそぶりを見せてる時点で、もっとしょげそうなもんなんだけど。

むしろあたしは、F社を買収したような勢いで、アンドリューがあたしの友だちを乗っ取ってしまうような気がしてる。

なんかほんとにただもんじゃない。
それは、松井が予言した通りだった。

松井のこともわからない。もちろんアンドリューの味方なんだろうけど、あたしと怜奈に忠告したりするのは、どうしてなんだろう。

「なんだか浮かない顔してんな。久しぶりに帰ってきたのにどうしたんだ」

夕食のテーブルを囲んで、父にいきなり指摘されてしまった。
母もすかさず追撃する。
「そうよ。玄関開けた瞬間から、『はあ~っただいま』なんて、ただいまよりため息のほうが先にきてたわよ」
「腹減ってただけだろ」と弟。こいつは地元の大学2年生だ。最近カノジョができたらしく妙にウキウキしてるのがムカつく。
「そうだ、おみやげくれよ。ニューヨーク行ってきたんだろ?」
片手に茶椀、片手をこっちへ突き出した。あたしは足元に置いてたバッグからTシャツを取り出して、弟の顔に投げてやった。

「なんだよ~これ?55 MATSUI? だっせー」
「うるさい!NYではそれが一番イケてんの!!」

「おれにはないのか?」
父が言うので、あたしは「ちょっと待ってて」と、キッチンに置きっぱなしにしていたアイスボックスから冷凍ベーグルを取り出してきた。

「なんだこりゃ」
「ベーグルだよ。試食しておいしかった5軒くらいのデリから買ってきて冷凍しといたの」
父はしげしげとかちんこちんになったベーグルを眺めている。それを母に手渡しながら、
「冷凍じゃなあ。鮮度だいぶ落ちてるだろ」
「そりゃそうだけど。サイズと生地の感じだけでもわかるかな、って思って」

もっとも、一番おいしかったベーグル・サムのベーグルは買って帰れなかったけど。

「じゃあ、とにかくあとでトーストして食ってみるか」
父にそう言われて、あたしは少し気持ちが明るんだ。

今日、帰省した理由。

それは、ちょっとした決意を家族に伝えたかったからだ。

NYから帰ってきてからずっと、あたしはたったひとつのことだけを心の中に思い描いていた。
そのために、これからの自分の生活のすべてを捧げてもいい、と思い始めていた。

それは、NYに行ったときにあたしの心にふっと生まれて、それからどんどんどんどん、大きくなった希望のようなもの、だった。

いつか、もう一度ニューヨークへ行く。
いつか、本当にベーグル職人になる。

それがあたしのほんものの夢、になったんだ。

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#40 プロポーズ?

その日の夜、あたしと怜奈は中野のファミレスで会った。そう、甘メンたちとスイーツの大量食いをしたあの店で。

「ふうん、そうだったの。この店で・・・・・・アンドリュー、そんなこと全然言ってなかったけど?」

自分から「アンドリューが買収したF社のファミレスに行きたーい」と言い出したくせに、あたしがあの夜のことを打ち明けると、怜奈はちょっと不機嫌になった。

「あたしだって、まさかこのレストランの親会社をどうにかするためにここへ視察にきてるなんて、想像もしなかったよ」
さすがに今日はスイーツを食べる気にはならず、コーヒーをすすりながらあたしは返した。

あたしと王子になんらやましいところがない、と見てとったのか、怜奈は機嫌を直して笑顔になった。
「それにしてもすごいよね。フツウのオトコとは違うって思ってたけど・・・・・・このケーキも最高、おいしいし。さすが彼が目をつけただけある、って感じ」
目をきらきらさせて、特製モンブランをつついている。怜奈の頭のなかでは、アンドリューがシェフの帽子をかぶってモンブランを作っている姿が浮かんでいることだろう。

「でもなあ。いいんだろうか」
あたしがため息をついたので、怜奈は不思議そうな顔になった。
「なにが?」
「いや、だってさ。F社っていったら、超老舗だよ。あたしだって子供の頃から親しんできた大好きなブランドだし。それがアメリカの企業に乗っ取られたんでしょ? それって、なんかヤバいんじゃない?」

「ヤバいわけないでしょ。その逆だよ」
怜奈はいきなり反撃に出た。
「偽装問題があって、F社は倒産するかもってとこまで追い込まれたんじゃない。それを救ったわけなんだから。そういうのを金融の世界では『ホワイトナイト』っていうんじゃないの?」
怜奈の頭のなかでは、完全にアンドリューが白馬に乗った王子様に変容しているのがわかる。

あたしは怜奈以下に経済やら金融やら買収やらに縁のない人生を送っているが、でもこの場合の「ホワイトナイト」の使い方って全然違うような・・・・・・

「どうしようかな。やっぱり、アンドリューのプロポーズ、受けようかな」

まるであたしに聞こえよがしに、怜奈はひとり言をつぶやいた。
あたしはコーヒーを飲みかけて、カップを顔に衝突させてしまった。

「は?・・・・・・いま、なんと?」

プロポーズ、と聞こえた。
怜奈は思わせぶりに、ふふっ、と笑った。

「プロポーズよ。結婚に興味ある? って言われた」

え・・・・・・

あたしは、ぽかんとなってしまった。

「そ、それって・・・・・・『誰との』結婚?」
「アンドリューに決まってるでしょ」
怜奈は露骨にむっとして返した。
「そうはっきり言われたの?」
日本語でケンカ両成敗ができるくらいの男だ。そんな大事な場面で主語と目的語を間違えたりはしないだろうけど、買収劇の一件があって、あたしは急に心配になった。

怜奈、なんかものすごいカンチガイしてたりしないよね?

「はっきり言われただけじゃないけど・・・・・・」
怜奈は急に言葉を濁した。
あたしは胸騒ぎがした。

アンドリューにでれでれの怜奈を、まさかハメようってわけじゃないよね。

「ねえ、怜奈。アンドリューってさ、想像を絶する動きをするみたいだから、ちょっと慎重になったほうがよくない?」

自分でも意外だったけど、あたしは忠告じみた言葉を投げかけた。純粋に怜奈のことが心配になったのだ。

「わかってるけど・・・・・・」

怜奈は視線を食べかけのモンブランの上に落とした。

なんでも欲しいものは手に入る、何不自由ないお嬢さま。
けれどいまの怜奈は、恋をして心細くなっている普通の女の子、なんだ。

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#39 ビッグ・ニュース

衝撃。

一言でいうと、そんな感じだった。
その朝、いつもどおりに店に出て、ややちゃんに特大ニュースを聞かされたのだ。

「ちょっと夏輝!!今朝の新聞見た?!」
食費に給料の半分を割いているあたしには、もちろん新聞なんか取る余裕はない。
「どしたの? 誰かと誰かがケッコンしたの? それともリコンしたの?」
あたしはまだエンジンがかかりきっていないアタマで、いかにも興味なさそうに聞き返した。

「王子よ王子! あんたのアンドリュー様が出てたのよ!」

意外な言葉に、あたしは一気にエンジン全開になった。

「え・・・ええっまじで?! だ、誰と?! まさか、パリス・ヒルトン??!!」
あたしのアタマのなかでは、アンドリューと金髪娘が金屏風の前に並んで座る記者会見ショットがたちまち繰り広げられた。

「なにばかなこと言ってんのよ! ほら、これ見てみ!」
ややちゃんはあたしの目の前に、極彩色のスポーツ新聞のかわりに、やたら文字だらけの経済新聞を広げた。
「こんなの普段読まないけどさ・・・・・・今朝、電車の中でおっさんが目の前で広げてた新聞に王子の名前が載ってたんだよ」
ややちゃんは一面を指している。あたしは目を凝らして紙面を追った。

洋菓子製造販売F社を米A社が買収

という文字が躍っている。あたしは目を大きく見開いて細かい文字を追いかけた。

『・・・・・・創業70年の老舗大手洋菓子製造会社F社は、昨年賞味期限を偽装して営業停止に追い込まれた。・・・・・・米大手ファンドのA社副社長アンドリュー・オールダム氏(31)は、「F社は外食産業部門が特に有益。今後は経営の中核にこの部門を据え、ブランド力のある洋菓子部門にもアメリカ的感性を活かし、再生を果たしたい」と意気込みを語っている。

え・・・・・・ええっ????!!!!

「え・・・・・・F社って、まさか・・・・・・」
このまえ、アンドリューと松井と一緒に行った、中野のファミレスの親会社だ。

「こんな店に黒塗りの車で乗りつけるあたり、すごいエグゼクティブなんだとは思ってたけど・・・・・・ここまでとはね。買収金額1800億円かあ」
ややちゃんが新聞を広げながら、うーむ、とおっさんっぽくうなる。
あたしは気が遠くなった。

そうか、アンドリューって31歳だったのか・・・・・・

いやいや、そこがポイントなんじゃなくて。

あたしより8歳年上なだけで、こんなすごいことやってるの?
あたしの給料の10億倍の金額を動かして(って時点で全然リアリティがない)、うちの近所のファミレスを買収するとは・・・・・・

まさに経済界の黒船。リア・ディゾン。いや、ハゲタカって言うのかこの場合。

とにかく、このまえの「甘メンズナイト」の理由が、これではっきりした。
あたしにあれだけスイーツを食べさせた理由。
つまり・・・・・・

「じゃ、あたしはこの買収劇のためのモニターだったわけ??!!」

あたしは叫んだ。
ややちゃんが、新聞から顔を上げて目を丸くした。
「え。どういうこと?」

ポケットの中で、携帯がヴヴヴ、と震える。朝イチでメールを送ってきたのは怜奈だった。

「びっくり!アンドリューがニュースに出てるよ☆」

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#38 企て

「ちょっ・・・・・・それ、どーいうこと?」

だまされてるっていうのも納得できないが、あたしと怜奈の両方がだまされてるっていうのはもっと納得できない。

松井は平然とソバをすすり始めたが、あたしがものすごい形相でにらみつけているのに気がついて手を止めた。

「あいつ、まだニューヨークに帰ってないよ。
今頃、怜奈ちゃんと青山近辺でランチ中」

え・・・・・・

胸のずっと奥のところで風に揺れてた小さな花が、しゅん、と萎れてしまった。そんな気分になった。

あたしはまたしても超みえみえにがっくりしてしまった。
こんなにわかりやすい女は、きっと松井の周りには存在しないんだろう。やつはため息をつくと、うつむくあたしの顔をのぞきこんだ。

「まあ、そんなにしょげるなって。ズブズブになっちゃうまえに、止めに入った俺の気持ちもわかってくれよ」

あたしは顔を上げて松井を見た。
じっとみつめる瞳は、なんだかあったかい色をしていた。

あれ・・・・・・こいつ、こんなに優しい目、してたっけ?

「おれもあいつの会社のCI(コーポレートアイデンティティ)手伝ってるし、あいつの会社が買収した会社の格上げのためにクリエイティブサイドからあれこれ口出ししてるし・・・・・・あいつに世話になってるのは確かなんだけどね。まあ正直、あいつらのやってる商売は情け容赦がないんだよ。それはおれが、一番わかってる」

優しい目が一転、真剣味を帯びた。あたしは首をかしげた。

「業績のいい会社に投資したり合併したりしてるんでしょ。別に、普通のことじゃん?」

正直、ヒルズ族が絡んでそうなその手のビジネスの話には、まったく興味も縁もないあたしだった。
大きな会社が小さな会社を一緒になって大きくしてやろう、ぐらいにしか理解していない。
「ずいぶん簡単に言うんだなあ」と、松井は笑った。

「企業買収の表舞台には、高笑いするやつらしか出てこないさ。影で泣くやつもたくさんいる。でも、それがビジネスってもんだ。多少の弱者は切り捨てるんだよ」

あたしはもう一度、反対側に首をかしげた。
「じゃあ、高笑いしてるのがアンドリュー? 切り捨てられるのが・・・・・・」

あ・・・・・・あたし? そして怜奈??

「まあ、ビジネスのためになら女の子のひとりやふたり、利用してもあいつには痛くもかゆくもないからな」
ひとり言みたいにそう言ってから、
「なにこれ?うんめぇ!この鴨南蛮!」
と、夢中になってソバをすすっていた。

結局、松井はそれ以上、アンドリューが何を企てているのかを明かすことなく、その夜のフライトでニューヨークへ帰っていった。

あたしは釈然としなかった。

あたしと怜奈が、アンドリューに利用されてるって、いったいどういうことなんだろう。

家に帰ってから、あたしは怜奈にメールした。
『今日アンドリューとランチしたの?』
すぐに返信がきた。
『ううん。なんで?』

あたしは返事に行き詰ってしまった。

松井か、怜奈か。どっちかが嘘をついている。

それを確かめるのが嫌で、あたしはもうメールを書かなかった。

アンドリューが仕掛けたすごい企て。

それが何かを知ったのは、彼らがニューヨークへ帰ってから一ヵ月後のことだった。

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#37 気が、あります。

甘メンズとの文字通り甘い一夜を過ごした翌日。

「なんか今日、顔むくんでない? ハムスターみたいだよ」
ややちゃんにいきなり指摘された。

そりゃそうだ。一晩で一か月分くらいの大量の甘みを摂取したんだから。たぶん血糖値だって十倍くらいになってるに違いない。

あのふたり、こんな食生活をこの先もずっと送ってくとしたら、間違いなく糖尿病になるな。余計なお世話だろうけど、考えずにはいられない。

アンドリューが成人病になりませんように。
いまのあたしは、太平洋の彼方に帰ってしまう王子の健康を、心のなかで祈ることくらいしかできない。

「おっ。なんだよベーグル職人、元気に出勤してるじゃん」

予告なく、昼前に松井が現れた。
あたし以上に食べてたくせに、妙にすっきりした顔をしてる。なんだか、くやしい。
「腹でもこわしてないかと思って、様子見にきたんだけど」
余裕でそんなことを言っている。

「なになに?! ゆうべ、松井クンとなんかあったわけ??」
ややちゃんが興味シンシンで聞いてくる。あたしは無視しようとしたが、
「まあ、ちょっとね。深い仲になったっていうか」
などと、松井は言いやがった。

自分のことみたいにすっかり興奮モードになってしまったややちゃんを尻目に、あたしは松井にランチに連れ出された。
別にツーショットで出かけたかったわけじゃなかったが、きのうの「甘イベント」の真相を聞けるかもしれない。

外に出るなり「ソバ食いたい」と松井が言った。てっきり代官山の有名パティシェの店に行くもんだと腹をくくっていたあたしは、正直ほっとする。

おしゃれ系ソバ屋に落ち着くと、あたしはすぐに、
「もうアンドリューは帰ったの?」
とつっついた。松井は眠たそうな表情でお茶をすすっている。
「午前中の飛行機で帰るって言ってたよね。やっぱりビジネスクラスなの? それともファーストクラス?」
松井はまったく興味なさそうに「知らねーよ」と言う。あたしはしつこく追求した。
「ねえ、きのうのあれってさ。ほんとはやっぱり、ニューヨークにケーキ屋出すリサーチなんでしょ? それって、アルバイトとか募集してない? あたしこう見えても、ケーキ焼くのとかもうまいんだよね。特に得意なのは・・・・・・・」

「あんた、アンドリューに気があんの?」

いきなりど真ん中に直球を投げ込まれて、あたしはすっ飛びそうになってしまった。

「ああそう。やっぱりね」
って、まだ何も言ってないんですけど?!
と焦りつつ、あたしがアンドリューに気があることは、たぶん初対面の人が見たってわかるだろう。
あまりにもわかりやすいリアクションで、「はい気があります。超ありありです。むちゃくちゃ気になってます!」と気があるモードを全開にしているあたしだった。

「やめとけよ。あいつはコワいお兄さんだぜ」

松井は意外なことを呟いた。あたしは目を丸くしてやつを見た。

コワいお兄さん?

「え? どっからどうみてもイケてるお兄さんですけど?」
「そ。そこにみんなだまされるんだよ。いまこの瞬間も、だまされている女子がふたり」

ソバが運ばれてきた。松井は口に割り箸をくわえてぱちん、と割ると、にやっと笑った。

「ひとりはあんた。もうひとりは、怜奈ちゃん」

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#36 今度こそ、会おう

翌朝。

あたしの胃袋は、ビールの飲み放題の居酒屋で朝まで飲んだ翌日よりも、重たくよどんでいた。

かなりひどい顔をしていたんだろう、出勤したあたしを見て、ややちゃんが「ヤケ酒?」と聞いてきた。
アンドリュー王子をめぐる怜奈姫対あたしのバトル。ややちゃんに敗北判定を出されて、ヤケ酒したのだと勘違いされてしまった。

「違うよ。中野でスイーツミシュランやったの」
一応正直に言ってみたが、ややちゃんにはまったく理解不能だったようだ。

それにしても。
なんだったんだろう、昨日の夜は。

アンドリューと松井は、あたしのアパートまで送ってくれたのだが、ちょっと離れて歩きながら、ずっと何事か英語で話し合っていた。あたしに聞かれたらマズい話なんだと、なんとなくわかった。「Bank」「Fund」「Dollars」など、あたしがかろうじて判別できる言葉がところどころ聞こえていた。

あーあ、送ってくれるのがふたりじゃなくて、どっちかひとりだったらな。
いやいや、どっちか、じゃなくて、アンドリューだったらな。

寄ってく?
もう遅いし、泊まってってもいいよ。

なあんて、怜奈じゃあるまいし、言えるわけないんだけど。
ってか、それ以前に、ハリケーンが吹き荒れたあとのような部屋に寄ってってもらうわけにはいかないんだけど。

「あの先のアパートだから。ここまででいいよ、ありがとう」
心細げに光を落としている街灯の下に立ち止まって、あたしはふたりに向かって言った。

「ナツキ。今日はほんとに、遅くまで私たちに付き合ってくれてありがとう」

アンドリューは、あたしにまっすぐ向き合うと、心のこもった声でそう言った。

あたしは急に照れくさくなってうつむいた。

「イチゴのミルフィーユに、バナナチョコクレープに、洋なしのタルト、きな粉サンデー。あんたもおれらに負けず劣らず、大食いなんだってわかったよ」

あきれているのか感心しているのかわからないような口調で、松井が続ける。
王子とあたしのあいだにほんの一瞬流れたロマンティックな空気を、松井はまったく読まなかった。

「でもまあ、あんたのおかげで色々と勉強になった。感謝するよ」
松井はにっと笑って、あたしの顔をのぞき込んだ。あたしはわざとふくれて、そっぽを向いてやった。
アンドリューはまた、「まあまあまあ」と私をなだめた。

「私は明日の午前の飛行機でニューヨークに戻る。また近々、東京に来ると思うよ。そうしたら、今度こそペニンシュラのバーで会おう」

あたしは顔を上げて、アンドリューを見た。

初めて会ったときと同じ、やさしく、おだやかな青い瞳。

ずっとみつめていられなくって、あたしはまた、目をそらしてしまった。

「またそんなこと言って。期待させるなよ、気まぐれ王子様」
松井がやっぱりにくたらしいことを言うのを、もうあたしは聞かなかった。

「いえ。期待して待ってます」

自分でもびっくりするくらい、あたしはきっぱりと返した。

アンドリューはにっこり笑って、「ああ、もちろん」ともう一言、言った。

通りかかったタクシーを止めると、「じゃあね」と軽く手を振って、ふたりは行ってしまった。

もちろん。
もちろん、会おう。ペニンシュラのバーで。
今度こそ、ふたりっきりで。
そのときは、帰さないよ・・・・・・

と、あたしの脳内でアンドリューの言葉が勝手に増幅していた。

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#35 ハートなスイーツ

テーブルの上をすっかり取り散らかして、あたしたちはファミレスを出た。
夜気がひんやりとしみる。もう夜中の2時を回っていた。

「あ~~食った食った。さすがに腹いっぱいだなあ」

夜空に両腕をうーんと突き上げて、松井が満足そうに言う。いったい何皿のスイーツを食べつくしたんだろかこのオトコは。「食いタン」を地でいくようなヤツだ(ただしスイーツ限定だけど)。

「和の風味のデザートはなかなかイケてたな。懲りすぎてた感じは否めないけど」
松井の意見に、アンドリューがうなずく。
「私も同意見だ。やはり系列の洋菓子チェーン店の影響が大きいな」

そう言われて、あたしはようやく気がついた。

あのファミレスは、老舗の洋菓子会社の系列のレストランだ。
今年、賞味期限の偽装問題が発覚して、経営危機に陥った会社。それを皮切りに、次々に食品会社の偽装問題が発覚していた。
ほんとに日本はどうなっちゃったんだろう、と、曲がりなりにも食品に関わる者として心配になっていたんだけど。

「でも、あのレストランのスイーツは、ちょっとハートがこもってる気がした」

あたしは何気なく言った。アンドリューと松井が、同時にあたしを見た。

「ハート? どんなところにそう感じたの?」
アンドリューが、興味シンシン、って感じで聞いてきた。
深い意味もなく口走ったに過ぎなかったので、あたしはちょっと口ごもってしまった。

でも、嘘じゃない。
なんとなく、ほんわかと、ハートを感じたのだ。

「あたしが食べたバナナチョコクレープ。お皿のふちに振りかけてたチョコレートパウダーが、思いっきりお皿からはみ出してたとこ、とか」
一生懸命思い出して、そう言った。
アンドリューと松井は目をぱちくりさせてあたしを見ている。

「それのどこが?」と、今度は松井が聞いた。
「つまり」と、あたしは目の前に大きな円を指で描いてみせた。

「こうお皿があるでしょ。マニュアルどおりのデコレーションだと、チョコパウダーは、ぱっ、ぱっ、ぱっとこう・・・・・・できるだけ周りに散らす量は少なめにするはずなんだよね」
「チョコパウダーも積もれば山となる、だからな」
松井が口を挟んだ。あたしはかまわず続ける。
「でも、あのクレープは、パウダーがお皿から完全にはみ出してた。あれを作ってるデザート担当の人が、たぶん自分の判断で、大きな円形状に振りかけてる」
あたしは空中で、パウダーを振り掛けるゼスチャーをした。
「ちまちま振りかけるんじゃなくて、思い切って大きく、はみ出したっていいから、って」

一流レストランのパティシェとは違って、ファミレスのデザート担当者は、細かいマニュアルに従って飾りつけをしてるはずだ。作る人はもちろんプロじゃないだろうし、マニュアルがなければきっと作れるはずもないんだけど。

あのクレープの飾りつけをした人は、チョコパウダーにハートを込めた気がした。そんな細かいところを見ているお客がいるわけもないだろうし、テキトーにパウダーがかかっているものと、そうでないものの区別なんかつきっこないのだ。

「なるほど。それなのに、大ぶりにパウダーを振りかけた。そういう気骨のあるスタッフがあのレストランにいる、ってことだね」

アンドリューが、確かめるようにそう言った。

キコツ、という言葉をさりげなく会話に混ぜる外人を、あたしは初めて見た。

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#34 作品?

ベーグル・サムのベーグルが、いまのところの世界一。
そりゃあ確かにそう言ったけど。

「それだけじゃない。キミのベーグルには、サムに共通するセンスが感じられる。今日食べたハニーキャロットベーグル。あれ、キミの作品って言ってたよね。すぐに感想を言わなかったけど、私もヒデキも、帰りの車のなかでかなり興奮してたんだよ。『やられた、すごい才能が出てきた』ってね」

・・・・・・へ・・・・・・?

アンドリューの感想は、予想もしないものだった。

すごい才能って・・・・・・
いや、それ以上に「作品」って・・・・・・

あたしは思わず笑い出しそうになった。
「なにそれ。おおげさすぎだよ」
「おおげさなんかじゃないよ。ほんとのことだ」
アンドリューが真顔で返す。
あたしはうれしいようなくすぐったいような、どうにも恥ずかしい気分でいっぱいになってしまった。

あたしが作るベーグルなんて、ベーグル・サムのベーグルには、足元にも及ばない(そう、あっちのほうこそわずか1ドルで買える『作品』だ)。

でもまあ、王子自らお墨をつけてくれたとあれば、ぜんぜん悪い気はしないけど。
っていうか、かなり、猛烈に嬉しいんだけど。
つまり、アンドリューの言うことを真に受けたとして。

あたしのベーグルも、ニューヨークで通用する・・・・・・ってこと?

「やめとけよアンドリュー。あんまりお前がちやほやすると、この子本気にしちまうぞ」
チョコまみれの幼稚園児が口をもぐもぐさせて横ヤリを入れてきた。

自分のベーグルを芸術作品扱いされて、ほとんど幽体離脱寸前まで舞い上がっていたあたしは、松井の一言でいきなり下界に引きずり下ろされてしまった。

こんのォ・・・・・・

あたしはおしぼりを握ると、松井の顔めがけてびしゃっと投げつけてしまった。
「口の周りチョコだらけですよっ! ちゃんと拭きなさいッ!!」
この幼稚園児が! と思っていたので、そのまんまな指摘をしてしまった。

松井は5秒くらいおしぼりを顔全体に張り付かせていたが、
「はーいママ」
と言って、口の周りをごしごしと拭いた。

アンドリューはぽかんと一部始終を眺めていたが、急に笑い出した。
「すっごいなあ。天下のマツイヒデキにそんなこと言えるのは、世界中でナツキだけだ」

って別にこいつ「松井秀喜」と同姓同名なだけだし。

松井はチョコで汚れたおしぼりをくるくると丸めてテーブルの上に置くと、
「言い過ぎた。ごめん」
と、あたしに向かってひょこんと頭を下げた。

急にしおらしい態度に、あたしはかえってあたふたしてしまった。

「いや別に・・・・・・あたしのほうが、いい気になってただけで」
あたしも姿勢を正すと、松井に向かって、ひょこんと頭を下げた。
「やり過ぎました。ごめんなさい」

アンドリューはふたりをかわるがわるに眺めているようだったが、
「まあまあまあ。どっちもどっちってことで」
と言った(「ケンカ両成敗」をする外国人に会ったのは、生まれて初めてだった)。

「アンドリューの言ったことはほんとなんだ。
あんたのベーグルを一口食べて、『やられた』と思ったよ」

あたしは顔を上げた。
いままで見た中で、一番熱っぽいまなざしの松井がそこにいた。

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#33 デザートビジネス

ビ、ビジネスって・・・・・・

こんなにテーブルいっぱいのスイーツを食べ続けることがビジネスとは。
そんなことがまかり通る世界は、「チャーリーとチョコレート工場」以外にありえない。

あたしはもろに「嘘でしょ?」という目を松井に向けた。
松井は口の周りにチョコレートをいっぱいにつけて、無心にスイーツを食べ続けている。幼稚園児そのもののような無邪気さかと言えばそうでもなくて(ってかそうだったらかなりアブないヤツだ)、意外にも真剣な面持ちで、やっぱりノートに何かを書き込んでいる。
何気なく見ると、ちょこまかとブランドロゴのような走り書きをしているようだ。

あたしは、ようやく思いついた。
スイーツを食べるビジネス。
つまり、ケーキ屋さんかなにか、スイーツ系のショップを立ち上げようとしているとか?
だってアンドリューは投資ファンドの会社の副社長だし、松井はブランドのロゴ作ったりするデザイナーなわけだし。
そういうビジネスを考えてるといっても別に不自然じゃない。

あたしは急にチョコレートケーキの上に覆いかぶさるようにして、身を乗り出した。
「どこに出店するの? やっぱ、マンハッタンの一番高級なとことか?」

アンドリューがノートから顔を上げてあたしを見た。きょとんとしている。
「出店? なんの?」
「え? だって、スイーツ食べるのがビジネスって言うから・・・・・・ニューヨークにケーキショップでも出すのかな、と思ったんだけど」

「なんだそりゃ。それって単にあんたの夢じゃねえのか?」
松井がチョコだらけの口でそう言った。
幼児並みの顔でエラそうなことを言われると、余計にむっとなる。

「別にケーキ屋やるなんて夢持ってないし」
そう言い返してやると、
「あーそうだった。あんたの夢は『世界一のベーグル職人』」

うっ、また言いやがって。

あたしがムカっとくるのをなだめるように、アンドリューがにこっと笑いかけてきた。
「私たちが店を経営するわけじゃないけどね。まあ、似たようなことをするのかな」

なぞなぞっぽいことを言われて、あたしは思わず首をかしげた。

似たようなこと?

「どっちにしてもあんたには関係ないことだから。ほら、早くそのイチゴのクレープ食って感想聞かせろよ」
あたしは再びムカムカっときた。
「なんであたしがこんなに大量のスイーツ食べて感想言わなきゃなんないわけ? だいたい、寝る前にこんなにバカ食いしたら太っちゃうじゃん」
「あれ? あんたでもそんなこと気にするんだ。どっちかっつーと栄養が行き届いてない感じがするけど」

なっ・・・・・・それってこのペチャ胸のことかいっ?!

松井とあたしが衝突寸前になるのを、アンドリューが「まあまあまあ」とあいだに入って止めた(ってか、まあまあまあ、と言いながらケンカを止めに入る外国人を生まれて初めて見た)。

「私もヒデキも、キミの味覚のセンスを信用して頼んでるんだよ。だってキミは、私たちふたりと同じ意見を持ってるんだから」
アンドリューは心なしか真剣なまなざしをあたしに向けた。

「ベーグル・サムのベーグルが、いまのところ世界一のベーグル、っていう意見。だろ?」

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#32 甘メンズ

中野サンプラザ付近のファミレス。

テーブルの向こう側に、NY二大男子がそろって座ってる。

アンドリューはこざっぱりした白いシャツに黒いパーカー。でもよく目を凝らすと「PRADA」の赤いタグが袖についている。こういうのをエグカジ(エグゼクティブカジュアル)とでも言うんだろうか。
松井は定番「55 MATSUI」の紺色Tシャツに長袖シャツの組み合わせ。ついでにNYヤンキースのキャップまで、念入りに被っている。

でもってふたりの前にはマロンクリームパンケーキだの抹茶とあずきのパフェだのきなことバニラアイスのワッフルだのが所狭しと並んでいる。

あたしは右手にフォーク、左手にスプーンを握り締めて、ずらりと並べられたスイーツをぽかんと眺めるばかりだ。

「んん、このパフェはちょっと甘すぎるなあ。日本的なおだやかな甘みに欠ける。そっちの『抹茶とフルーツのエクストラサンデー』はどうだ、ヒデキ?」
「子供だましだな。一番底にあるコーンフレークにかかってるイチゴ風味のソースが、抹茶味とミスマッチすぎ。そっちの『和三盆の季節のブリュレ』はどうなんだよアンドリュー?」

な・・・・・・なんなんだこの甘メンたちは?!


アンドリューがなぜか中野のファミレスに来ていると知って、あたしは一度はくじけそうになったが、ありったけの勇気をふりしぼって立ち上がった。

こうなったらペニンシュラだろうが中野サンロードだろうが勝負には変わりないッ。
一番ましな無●良品のブラとパンツをつけて、一番ましなワンピースを着て、超特急でメイクして、夜の中、必死に走ってここまで来た。
めったにないチャンスを逃さないために。

それなのに。

学生で混雑する店内で、ようやくみつけた王子様は、なんと松井連れだった。
そしてオトコふたりはテーブルいっぱいにスイーツを注文していた。
あたしはその前に座らされて、フォークとスプーンを握らされた。
そして・・・・・・

「じゃ、次。『イチゴとチョコレートのミルフィーユ』。これはナツキ担当ね。『食後のちょこっとシャーベット』はヒデキ、と・・・・・・」
「それの大盛りね」と松井が付け足す。
「『オオモリ』」とつぶやきながら、アンドリューがノートに走り書きしている。松井が横からのぞき込む。
「あーそうじゃねえよ。『大森』じゃなくて『大盛り』」
「『しゃあべっと大盛り』」
「そうそう。日本語書くのうまいじゃん」
って定食屋の品書きか?!

あたしはまったく自体が飲み込めずに、NY二大男子の顔と卓上のスイーツをかわるがわる眺めるほかなかった。

甘メンズ(ついさっきあたしが名付けたこのふたりのユニット名)は、次々にありったけのスイーツを注文しては少しずつ食べ、お互いの皿を交換したりノートになにか走り書きしたりしている。
スイーツを持ってくるウェイトレスは最初いぶかしそうにしていたが、途中から店長らしき男性がうきうきと皿を持ってき始めた。
悪い予感がする。
「ミシュラン偵察隊」と勘違いしてるんじゃないだろうか・・・・・・

「ねえ、あの・・・・・・どうしてこんなにスイーツばっか注文するの?」
あたしは恐る恐る聞いてみた。

なんでこんな夜中にあたしがそれを食べさせられてるの? とほんとは聞きたかったのだが。

アンドリューは無邪気な王子様そのものの瞳をあたしに向けて言った。

「もちろん、ビジネスのためだよ」

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#31 勝負?!

あたしは5cmX3cmの液晶画面を食い入るようにみつめた。
心臓がバクバクいってる。ケータイを握る手のひらが、じっとり汗ばんでくる。

落ち着け。
落ち着けあたし。
こんなウマい話があるわけないじゃない。
そうだよだってもう夜の十一時だよ。
あたしは中野区在住だよ。
でもってペニンシュラホテルって言えば行ったことないけど日比谷のへんだよ。
なのにこんな時間に呼び出すってことはつまり。

もう今夜は帰さないよ・・・・・・

ってことじゃないかっっっ???!!!

「うっわ~~~どおしよおっ??!!」
あたしは返信メールもしないうちに、あわててクローゼットにすっ飛んでいった。

服服服服服服っ!!!
靴靴靴靴靴靴っ!!!
バッグバッグバッグバッグバッグ!!!
あたしはハンガーに情けなく下がっている抜け殻のようなリクルートスーツやカーディガンやスカートやらを両手でかき分けた。
検索結果は2秒で出た。
ペニンシュラでアンソニーとのツーショットに耐えられるようなエレガント服を、あたしが持ってるはずがない。

さらにあたしが気づいたのは・・・・・・

「ああ~~っっ!! な、ないっっっ!!」
あたし持ってないよっ!!
勝負パンツを!!

このさい、はっきりしとこう。
あたしは堂々、バージンじゃない。
大学時代、ちゃんとカレシがいたんだ。その頃は、勝負パンツくらいちゃんと持ってた。モカと、ラズベリーと、ライトブルーのブラとショーツの上下セットで3組も持ってた。
だけど前カレと別れた直後、それをタンスのど真ん中にみつけてはらわたが煮えくり返って、ゴミ箱に直行させたのだ。

それ以来、まる3年。
5年間使い続けた無●良品のブラとパンツがあたしの下着のすべてだった。

って23歳女子としてどーなんだあたし?!

ああ・・・・・・こんなことならせめてピー●ジョンの一番安い上下セットだけでも、緊急事態に備えて通販で揃えておけばよかった。
この教訓を胸に刻まなければ。
地震とオトコの誘いがいつきても大丈夫なように・・・・・・

などとクローゼットの前で悶絶していると、再びメールの着信音が鳴った。
あたしはタックルする勢いで、ケータイに飛びついた。
うっっ、またもやアンドリューからだ。
メールを開くまえに、あたしは目をぎゅっと閉じて自問した。

さあどうする。
こんなチャンスは二度とない。
しかしその二度とないチャンスに立ち向かう勝負服も勝負パンツもあたしにはない。
丸腰で闘えるのかあたし?!
ええいこうなったらッ!
コトに及ぶ直前にトイレに行くフリをしてブラもパンツも先に脱いじゃう作戦だッッ!!!

想像を絶する奇策を思いついたところで、あたしはアンドリューのメールをようやく開いた。

『なーんてね(笑) 実はいま、中野サンプラザ付近のファミレスにきてるんだ。たぶんキミの家の近く。よかったらお茶でもしに来ない?』

・・・・・・・・・・・・・・・。
き・・・・・・・気まぐれが過ぎますよ王子様あ!!

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#30 ひだまり

西郷山公園で三人と別れて、あたしは「デイリー・ベーグル」に戻った。

「夏輝。それ、生ゴミネットだってば」
お客様お買い上げのベーグルをうっかり別の袋(生ゴミネット)につめるあたしを、ややちゃんがまたもや攻め立てる。

「まあ、ぽわんとするのもわかるけど。あんたが言ってたアンドリュー様。ニッポン女子の夢の権化みたいな人だったねえ・・・・・・」
ややちゃんまで、ぽわんとしている。

げっ。よくみると目がすわってる。
もしやややちゃん、妄想のなかでアンドリューとあんなことこんなこと・・・・・・・状態になってるんじゃ?!

「しかしねえ。怜奈ちゃん相手じゃ無理だよねえ。はい! 夏輝の負け」
いきなり勝負判定されて、一瞬であたしは落ち込んだ。

「でもいいじゃん。もうひとりのほう、松井ヒデキもかなりイケてたし。あっちはデザイナーとかでしょ? 御しやすそうじゃん?」
あたしはむきになった。
「ぜんっぜん興味ないから! 王子に比べたらあっちはハズレ馬券だから!」
ってなんでそんなおっさんな表現が出るんだあたし。
どうも今日は使ったことのない単語がガンガン出てくる。それだけ常軌を逸した状況に置かれてるんだろうか。

その日はそれからも二度ほどお買い上げベーグルを生ゴミネットにつめてしまった。そのまま持ち帰ったツワモノのお客様もいたのにはびっくりした・・・・・・

その夜。

あたしはずーっともやもやした気分のまま、アパートに帰った。

とりあえず、アンドリューに再会できたことはうれしい。それは、なにがどうあれ、とにかくうれしかった。

そんなふうに、気持ちが明るむのを、あたしは久しぶりに味わった。

ニューヨークにいるときは、すべてに対してテンションの針が振り切っちゃうほどアゲアゲな気分だったから、松井にしてもベーグルサムにしても、角のデリのプエルトリカンのおじさんにしても、それぞれにかっこよく見えちゃって、やたら胸が高鳴りっぱなしだったけど。

もちろん、アンドリューに対してだってそうだ。

あんなふうに、マンガっぽい出会いをしちゃったこともあって、必要以上にいいオトコに思えたんじゃないか、と、あとになって冷静に考え直してみたりもした。

でも、今日。もう一度会ってみて、わかった。

アンドリューは、特別なひとだ。

別に金髪青い目だからとか、エグゼクティブで黒塗りの車に乗ってるからとか、そんなことじゃない(いや、そんなこともかなり大事だけど)。

生まれ持った光のようなものが、あのひとにはある。

といっても神様系じゃなくて、小鳥が集まり花もほころぶあったかいひだまりみたいな。
そのひだまりのなかにふんわり座って、いつまでもいつまでも眺めていたいような。

ああ、不思議な気持ち。
この気持ちって・・・・・・

ピルル~ッ。
携帯のメール着信音がして、あたしは夢見心地から、いっきに現実に引き戻された。
急いでフラップを開ける。

うわっ。ま、まじで?!
アンドリューから、メールがきたっ。

『今日は君に会えて嬉しかった。ペニンシュラホテルに泊まってます。よかったら、バーで会えませんか?』

・・・・・・は・・・・・・?
う・・・・・・嘘でしょ?!

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#29 ふたりの秘密

「で、あんたの店では『ヤキソバベーグル』とか作ってないわけ?」

ハニーキャロットベーグルを思いっきりほおばりながら、松井が言った。
あたしはまたもやかじりかけのベジベーグルがのどにつっかえそうになった。

まったく、怜奈も松井も天然なところは似てないとは言えなくもないかもしれない。
こいつらのせいで、西郷山公園でのランチ中窒息死、なんてことになったらどうすんだ。

「なにそれ。思いっきりミスマッチっぽいけど」
怜奈がきゃらきゃらと笑った。
松井は大真面目だ。
「だってこいつの実家、水戸の超有名なパン屋なんだぜ。おれの高校の近くにあってさ。部活後かなりお世話になったんだ。ヤキソバパン、絶品だし」

水戸の超有名パン屋。
体育会系男子高生ご用達。
絶品のヤキソバパン。

うわあ・・・・・・どの単語をとっても、アンドリュー王国から遠く離れて茨城方面に吸い込まれていく。

「あれ? なんか松井さん、すでに夏輝のこと知り尽くしてない?」
怜奈に指摘されて、あたしは妙にぎくりとなる。
アンドリューに誤解されかねない発言でしょ、それ。
あたしはあわてて否定する。
「いやいやいや。全然、知り尽くしてないよ。あたしたちはただの通りすがりの・・・・・・」

松井は、くすっと笑って言う。
「そうだな。結構知ってるよ。なんせこいつの将来は世界一のベーグル・・・・・・」

「あーっもう!なんでそれを言う?! ふたりの秘密じゃんっ?!」

と、自分でもまったく想定外の言葉が転がり出てしまった。

ふたりの・ひみつ。

自分で言った言葉に、あたしは驚いた。

自分の人生で、初めて「ふたり」って単語と「秘密」って単語を合体させて使った気がする。
うわあ・・・・・・とあたしは、途方もなくうろたえてしまった。

「え? なになに? 秘密?」
とつっこんできたのはアンドリューだった。

か、かんべんしてくださいまし王子様・・・・・・

松井はくすくすと笑って、
「あーそうだな。秘密秘密。ふたりの秘密」
かなり面白そうに言いやがった。
「えー、なにー。あやしーい」
怜奈はまたふくれモードになる。
まったく、常にそこにいる男子全員の注目の的になってないとやだっていうんだからな、このお嬢様は。

「べ・・・・・・別に秘密じゃないよ。ベーグル職人になりたいって、この人に、ちょこっと自分の将来の夢を話しただけ」

あたしはついに開き直って言い放った。

あれ・・・・・・だけど。

口に出してみると、そんなに無茶な感じもしないのが、ちょっと不思議だ。

アンドリューは、うんうん、とうなずいて、「いいね、いいね」と楽しそうだ。
こういうリアクションが日本人ぽくて、すごくキュンとくる。

「だからナツキは、ベーグルの店に勤めて、ニューヨークでベーグルの食べ歩きしてたんだね。で、『ベーグル・サム』のベーグルに行き着いた」
アンドリューがすばやく話をまとめた。
ううっ、こういうとこもスマートなヤンエグって感じがする。

「そう。サムのベーグルが、いまんとこあたしの世界一。まだまだ無理だけど、いつか追いつけたらなあ、なんて」
あたしは正直に自分の胸のうちを語った。

松井と怜奈はともかく、アンドリューに聞いて欲しくなったのだ。
あたしの夢。現実的にも無謀にも思える、夢のこと。


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#28 ふたりの関係

そんなわけで。

アンドリューと松井ヒデキと怜奈とあたしは、秋の土曜日の午後の西郷山公園へと、遅いランチに出かけた。

あたしの頭のなかは、かなり混乱していた。

なんなんだろ、いったい、これ?
なんでこのメンバーで、ランチに行くんだろ?

しかもニューヨークじゃなくて東京で。
ブライアントパークじゃなくて西郷山公園で。
シチュエーション的に、ありえない展開。

公園へ向かう道々、両側に背の高いイケメンニューヨーカー(とりあえず松井もそう言えなくもないし)を従えて、怜奈はきゃっきゃとはしゃいでいる。

お前は幼稚園児か?! 

と、これがややちゃんとかなら、とツッコミのひとつも入れたいとこなんだが。

あたしは下を向きっぱなしの顔を上げて、怜奈の後ろ姿を眺めてため息をつく。
超お嬢系キレイめOL週末スタイルの怜奈と、店のロゴ入り白にブルーのストライプのコットンシャツ&コットンパンツ&スニーカーのあたし。

この歴然たるファッション格差。

負けた・・・・・・
と二度目の敗北宣言をするほかない。

と、アンドリューが振り向いた。目が合って、どきっとする。

「どうしたんですかナツキ? さっきからずっと下を向いて歩いているね?」

もう一回、どきっとした。

ってことは、何度かこっちを振り向いてくれてたってこと?

「腹減り過ぎたんだろ?」
松井も振り向いて言った。
こいつぅ・・・・・・アンドリュー王子のようなやさしさのかけらもないのかっ。

「ちょっとジェラシーなのかも。怜奈がステキな男子ふたりに囲まれちゃってるから」

ああっ姫。その通りでございます!

ほんと、直球でイタいとこにぶつけてくるなあ怜奈は。

西郷山公園に到着すると、アンドリューと松井は同時に「ああ~っ」と長い両腕を空に伸ばして深呼吸した。
「ああ、生き返った。せっかく東京に帰ってきても、会議会議会議。生きた心地がしないよ」
アンドリューは、伸び伸びとしてそう言った。

彼は正真正銘のエグゼクティブだった。
ニューヨークの大手投資ファンドの若き副社長をしているという。
「ニューヨーク」「大手」「投資ファンド」「若き」「副社長」のどの単語をとっても、ニッポン女子のハートを高鳴らせないものはない。怜奈がキュン死するくらいなんだから、あたしだってキュンキュンしまくってあたりまえだ。

「ほんっと、お前んとこのトップマネージメントはきびしいからな。最強のハゲタカだよ」
と、アンドリュー王国を平気でハゲタカの群れ扱いする松井は、正真正銘のグラフィック・デザイナーだった。
アンドリューが日本に駐在時代に、なんとこの西郷山公園で会ったんだと。
ふたりとも食いしん坊で、あちこちのグルメを食べ歩き、すっかり親友になった。
アンドリューに誘われて、ニューヨークのデザイン会社に入社。実はもうアシスタントは卒業して、ぴんで動くデザイナーとして、がんがん大手クライアントの仕事をこなし、いまはアンドリュー王国の家紋(つまりアンドリューの会社のロゴ)の担当をしているとか。

今回の来日は、アンドリューの出張に松井が同行。
会社が急成長していることもあり、日本支社も含めて全社的なブランドイメージの統一を図るプロジェクト(そういうのをコーポレート・ブランディングというそうな)をやるとかで、そのチーフデザイナーにばってきされたんだと。

事実は小説より奇なり。と、昔の人は言ったとか。
でもまあ、あたしに言わせれば、現実はマンガを超える、って感じだ。

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#27 知ってたの?!

松井の問いかけに、アンドリューが目を丸くして返した。

「え? 君もナツキのこと、知ってるのか?ヒデキ」

・・・・・・ええっ?!

「ちょ、ちょっとそれ・・・・・・マジで?!」
あたしはショーケース越しに、松井に向かって叫んだ。
「あんたの名前、ヒデキっていうの?! マツイヒデキ?! 嘘でしょ?!」

ってどうしてそんなとこに反応してんだあたし?!

怜奈は松井とアンドリューの顔を両方見比べて、「なにそれえ~」と不機嫌な声を出した。

あわっ。や、やばい。
怜奈が自爆モードに入ってしまった。

「自分が主役じゃない」と気づいたとたん、怜奈は捨て身の攻撃に出る。
大学時代、これに何度か遭遇した。
ゼミの男の子たちと群れてるときとかに、自分が入っていけない話題になったり別の女の子の話になったりすると、「あーあ。怜奈、今夜ひとりぼっちなんだ・・・・・・」
みたいな向こう見ずかつ罪作りな発言をする。それは男子の耳に到達する瞬間に、
「あっためて・・・・・・*」
と聞こえる仕組みになっている。
こうして、何人のオトコを二度とはい上がれない怜奈地獄に陥れたことだろう・・・・・・

「ふたりとも夏輝と知り合いだったなんて。なんで怜奈に教えてくれなかったのっ」
怜奈は自爆直前のぷうっとむくれ体勢に入った。
この時点で男子の気を引くことに成功したら、捨て身の攻撃には至らずにすむ。

アンドリューと松井は顔を見合わせた。

「確かに私は『デイリー・ベーグル』に行きたいとは言ったけど、君はそこに知り合いがいる、って教えてくれただけじゃないか。それがナツキかどうかなんて私にはわからないし」

おおっ。じゃ、やっぱり怜奈が言ってた「かつて代官山に住んでたエグゼクティブ」っていうのはアンドリューのことだったわけね。

あたしは一瞬ほっとして、またすぐにひやっとした。

ってことは、やっぱ怜奈がキュン死しちゃった相手って、アンドリューだってことじゃないか?!

「おれはアンドリューと怜奈ちゃんが行きたいってとこについてきただけだよ。『デイリー・ベーグル』って聞いて、ああそういやこないだブライアント・パークでたまたま出会った子が勤めてるっけな、くらいに思っただけだし」

アンドリューは愉快そうなまなざしを松井に向けた。

「へえ、君も彼女にブライアント・パークで会ったのか。私もたまたま、出勤前にベーグルを買いに行ってぶつかっちゃってね・・・・・・ちょっと話しただけだけど、私の大好きな『デイリー・ベーグル』に勤めてるって聞いたから覚えていたんだ」

ええ、ええ。はい、はい。その通りです。
まったくその通り。

こくんこくんとうなずきながら、あたしはほとんど限界に情けなかった。

・・・・・・負けた。

なんでだかわかんないけど、あたしはその場で敗北宣言したくなった。
アンドリューにとっても、松井にとっても、あたしはやっぱり通りすがりのベーグルマニアの女子に過ぎなかった・・・・・・

「なあんだ。そっかあ」
怜奈が露骨にほっとする。
一瞬でもあたしがこのNY二大男子の話題をさらったことで一気に自爆の道を進むかと思いきや、けろっとして怜奈は言った。
「じゃあ、メンバーそろったところでランチに行こっかあ」

「ちょっと待って。その前に私もベーグルを・・・・・・」
アンドリューはわくわくした表情で、ケースをのぞき込んだ。

「これがいい。ハニーキャロットベーグル!」

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#26 再会

あたしはどう見ても松井1号に見える松井2号に、ベーグルの包みを手渡した。
まったく、「世界不思議発見!」で調査してもらいたいくらいのミステリーだ。

「お。ありがと」
松井はにこっと笑って受け取った。
妙に無邪気な笑顔がかえってあやしい。

そこであたしは突然気づいた。

松井1号2号がいると考えるよりは、あたしか怜奈のどっちかに嘘をついてるって考えたほうが自然なんじゃ・・・・・・

って気づくの遅すぎだろあたし。

あたしは松井をできるだけ迫力をこめてじろっとにらんでやった。松井はぜんぜん気づいていない。
ああ、なんてスゴみがいのないやつなんだ・・・・・・

「夏輝、もうランチしちゃった? よかったらベーグル持って西郷山公園とか行かない?」
ベーグルの包みをバッグに入れると、怜奈が妙にうきうきと聞いてきた。

「いやそれが怜奈ちゃんさ、なんだか夏輝、今日挙動不審で・・・・・・誰かを待ってるみたいでなかなかランチ行かなかったんだよ~」
と、ややちゃんが超余計なお世話で口をはさんだ。
「ねえ夏輝ぃ。今日もしかしてキミが待ちわびてたお方はこちらの・・・・・・」
「だあからっ!! 別に誰も待ってないってば!!」

あたしは大声を出した。
松井と怜奈は、きょとんとしてしまった。もちろん、ややちゃんも。

「待ってたってことなわけね。こちらの方を」
ここぞとばかりにややちゃんがダメ押しした。

あたしは本気で泣きそうになった。
でもってやけくそになって言った。
「だからあたしが待ってたのは・・・・・・」

その瞬間。
ドアが開いて、金色の風がさあっと飛び込んできた。

「ああ、ごめんごめん。待った?」

あたしたちは全員、ドアのほうへ顔を向けた。
あたしは今度こそ、思いっきりアゴを外した。

あ・・・・・・
あ・・・・・・あ・・・・・・あ・・・・・・

「アンドリュー!」
あたしが叫ぶより先に、怜奈が叫んだ。
あたしは正真正銘、アゴと腰を抜かしてまったく動けなくなってしまった。

な、なな、なんなんだこの展開は?!

「打ち合わせが長引いちゃって・・・・・・結局、途中で抜けてきちゃったよ」
走ってきたんだろう、アンドリューは肩で息をついている。怜奈もそう気づいたようだ。
「そんなわざわざ・・・・・・駅から走ってきたの?」
「いや、そこに車待たせてるけど」
アンドリューは窓の外を指差した。ピカピカの黒塗りの車が停まっている。

あたしは急に感動を覚えた。
ああ、ほんまもんのエグゼクティブなんだこの人は・・・・・・

アンドリューはあたしの顔をみると、ふっと微笑んで言った。

「Nice to meet you again, Natsuki」

あたしはかあっと真っ赤になってしまった。そしてかなりうろたえながら、例の中学英語で返した。

「ナイス・トゥー・ミーチュー・トゥー」

じろっ。

なんだかサムい視線を感じる。
怜奈が思いっきり疑い深いまなざしであたしを見ている。
「ちょっと夏輝。何よNice to meet you again、って?!」

い、いやそれはその・・・・・・

「なんだ。お前もこの子のこと知ってんのか、アンドリュー?」

そう割って入ったのは松井だった。

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#25 MATSUIふたたび!

「あ・・・・・・ま・・・・・まま・・・・・・・まままま」

松井ぃ~~~~~~~~~っっっ?????!!!!!

そうだったのだ。

怜奈と一緒に店に現れた男。
「代官山の『デイリー・ベーグル』のホウレンソウのベーグルをぜひ食べたい」と怜奈に言ったとかいう男。
どっかの会社のエグゼクティブだとかいう男。
でもって、怜奈が一目ぼれしてしまった男。

それは、あの金髪で青い目のアンドリューじゃなかった。

5月5日生まれ、茨城県牛久出身、「55 MATSUI」・・・・・・だったのだ!

「よお。ベーグル職人」
松井はおもしろそうに声をかけた。あたしのほうは、思いっきりアゴを外して、ただただぽかんとするばかりだ。

「あれ?松井さん、夏輝と知り合いなの?」
怜奈がびっくりした目を松井に向けた。松井はにやにや笑っている。
「うん、まあね。おれの投資先。なんせいずれ世界一の・・・・・・」
「あーーっっっとぉ! いらっしゃいませえ! どちらのベーグルになさいますかっっ?!」
あたしは強制的にオーダーを取ろうとやっきになった。
「世界一のベーグル職人」などというあたしの一時的な気の迷いを、怜奈に知られたら笑われるだけだ。
「なになに? へんなの。もしかして、ニューヨークで偶然会ったとか?」
怜奈は興味シンシンで聞いてくる。
松井はショーケースの中をのぞき込みながら、
「うん。ブライアント・パークで・・・・・・」
「ほ、本日おすすめのベーグルはチーズオニオンベーグルですがっ?! あと和風のゆずベーグルなんかもありますがっ?!」
あたしはあわててリコメンドしまくった。

松井は長身を折り曲げるようにして、ショーケースの中にきれいに並んだベーグルをひとつひとつ、楽しそうに眺めていたが、
「これがいい。ハニーキャロットベーグル」

あ、それ。
あたしのアイデアで作ったベーグルだ。

「おいしそう。さすが松井さん、ナイスチョイス。じゃ、あたしもそれもらおっと」
松井の肩先にそっと手を置いて、怜奈がうれしそうに言う。

出たっ。怜奈の必殺ちょいタッチ攻撃。
このタッチにヤラれない男がこの世にいたら会ってみたいもんだ。心なしか松井も、鼻の下を伸ばしているような気がしないでも・・・・・・

ってか、なんでアンドリューじゃなくてこいつなわけ?!

ベーグルを袋に入れながら、あたしは完全に混乱した。
ややちゃんから「夏輝、それ生ゴミネットだよ」と指摘されたくらいだ。

だって、いったいどういうこと?!

あたしは光速で記憶を巻き戻しする。

ブライアント・パークで会ったとき、松井は「MPDにあるデザイン事務所でアシスタントしてて、マンハッタンに住むと家賃高いからブルックリンに住んでる」と言っていた(と、思う・・・・・#13参照)。

それってつまり、貧乏な駆け出しデザイナーだってことだよね。

でもって西郷山公園で会ったとき、怜奈は「ブライアント・パーク近くの会社に勤めるヤンエグで、かつて代官山に住んでいた」と言っていた(#22参照)。

どうしてそれがアンドリューじゃなくて、松井なのっ?!

しかも、怜奈は「結婚式で会ってキュン死しちゃった~」とも言っていた(たぶん)。

あたしが松井に会ったのは、ちょうど怜奈が結婚式に行ってたときじゃないか?!

ってことはもしかして・・・・・・

松井2号がいるの?!

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#24 来る、来ない?

一週間後。

そわそわそわそわ、ドキドキドキドキ、はらはらはらはら。
朝からずっと、そんな調子だ。

「ちょっとお~夏輝? 大丈夫なのあんた?」
昼前に、ややちゃんが見かねて声をかけてきた。
「だ、大丈夫って? なな、何が??」
「だってあんた、そうとう挙動不審だよ。仕込みの時だって小麦粉と粉砂糖間違えて入れそうになるし、レジは万単位で打ち間違えるし・・・・・」

そうなのだ。
今日のあたしは、かなりテンションが上がりっぱなのだ。

なぜって、今日は特別な日。
アンドリューが、店にやってくる日なのだ。

怜奈情報によると、彼はおととい東京入りしている。で、今日は週末で午後まで予定がないから、「デイリー・ベーグル」に行く、って言ってるらしいのだ。

ただし、怜奈と一緒だけど。

いやいやいや。そんな細かいことはこの際言うまい。
怜奈とツーショットだろうがほんの5分だろうが、あたしにとっては、彼がここにやってくること自体が重要なのだ。

アンドリュー。

ブライアント・パークで、偶然に出会った人。でもって、あたしにベーグルを買ってくれた人。

エグゼクティブなのに、ちっとも気取らない人。

たった十分かそこらしか一緒にいなかったのに、特別長い会話したわけでもないのに、こんなふうにあたしをどきどきさせる人。

ああ、このきもち、なんだかかなりヤバい感じ。

あたしがここにいる、ってわかってるよね。
だから来る、なんてことないかな。

怜奈をさしおいて、そんなことはあるわけないんだけど。

だって、もしこれがマンガだったら(マンガじゃないけど)、えてしてそういうデキるオトコは、カンペキな女子よりも、ちょっとマヌケでトホホな女子のほうを選んだりするもんじゃないのか?

などと、たった1ミリの可能性にかけてみたい気分になる。

無駄な努力かもしれないけど、こうなりゃ1ミリの可能性を3ミリくらいに広げるくらいのことはやってみよう。

ってことで、きのうは半身浴して、試供品でもらった毛穴パックをして、コンビニで買ったラメ入りネイルカラーをした。
出かけるときは一番ましなワンピを出して(仕事中は制服に着替えるからまったく関係ないんだけど)、いつもはほとんどしないけど、メイクもした。
その姿で現れたから、冒頭からややちゃんに不審がられたのは仕方がない。

昼が近づくにつれ、胸の鼓動がどんどん早くなってくる。
店のドアが開くたびに、ぎゅっと目をつぶってから顔を上げる。
入ってくるのが青い目でないことがわかるたびに、がっかりするような、ほっとするような。

時計の針が12時を指した。店が一番混む時間帯だ。

12時5分・・・15分・・・30分・・50分。
1時・・・1時10分・・・1時20分・・・

期待と緊張は、しだいに不安に変わっていく。

来ない。

まだ、来ない。
怜奈からのメールもない。

どうしちゃったんだろう。もしかして、このまま・・・・・・

膨れ上がる不安に、押しつぶされてしまいそうだ。

2時を過ぎて、ランチにも出かけられず、あたしは肩を落として途方に暮れた。

もう、来ないのかな。

その時。

「いらっしゃいませ・・・あ、怜奈ちゃん?」
ややちゃんの声がした。
あたしは顔を上げた。
「夏輝。遅くなってごめんね」

元気いっぱいのこえで、満面の笑みの怜奈が立っていた。

そして、怜奈の横に立っていたのは・・・・・・

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#23 信じられない!

偶然というにはあまりにもデキすぎた話。

けれど怜奈がいま、ちょっといいなと思っているそのオトコは、話だけ聞くと90%以上の確率で、あたしもいいなと思っているオトコのことのような気がする。

その人の名前って、アンドリュー?

そう聞きかけて、あわてて飲み込んだ。
もしも予感が的中してしまったら、どうしたらいいんだろう。

どんな相手だって、いつでも主導権をがっちり握る怜奈。どんなお坊ちゃまだろうが、いかなるエグゼクティブのおじさまだろうが、怜奈の手にかかればたちまち骨抜きになる。
そんな恋愛イリュージョニストの怜奈とアンドリューが偶然出会ってしまっていたら。

ブライアント・パークで、彼にぶつかってコケたあたしの偶然もなかなかのものだろうけど、いざ現実のステージで怜奈と張り合おうなんて度胸が、あたしにあるはずもない。

「でね。その彼が、もうすぐ日本に来るっていうのよ」
怜奈の言葉に、あたしは本格的にコロッケをのどに詰まらせた。今日はこれで二回目なんだけど。

「ま、マジで? 怜奈に会いに?」
つい、絶望的な声で聞いてしまった。
が、怜奈はあたしが絶望的になってることにはまったく気にもとめずに、ふふっと笑った。
「まさか。だったら嬉しいけど、そこまでまだ深入りしてないし」
まだってとこに異常に力を込めてる。

「仕事で出張らしいんだけど。宿泊先とか教えてくれないんだよね。わかったら部屋におしかけちゃうのになあ~」
ってかわいい顔してなかなか大胆な発言だよそれ。

「でもね。ひとつだけ、行きたいところがあるんだって、教えてくれたの。どこだと思う?」

キミと夢の国、とか言うんじゃないだろうな・・・・・

あたしはうんざりした顔をみられたくなくって、うつむいた。
あたしの視線の先には、食べかけの弁当箱の中身-キンピラゴボウと白いご飯のかたまりがあった。
それをみつめるうちに、なんだかむなしくなってくる。

怜奈は、新しい恋の始まりにわくわくしているのに。
あたしは、恋を始めることにすら、臆病になって、身体を縮こまらせている。

なんにも言わずにただうつむくだけのあたしの横顔に向かって、怜奈が一言、言った。

「『デイリー・ベーグル』に行きたいんだって」

え?

あたしはあわてて顔を上げた。
「う、うちの店に? なんで? なんで??」

「なんか以前、東京に駐在してたことがあったらしくて、この辺に住んでたとかで。デイリー・ベーグルのホウレンソウのベーグルが大好物なんだって。なんだか妙に詳しいのよ」

あたしは、自分の顔がみるみる真っ赤になっていくのを感じた。

やっぱり、間違いない。
アンドリューだ。

アンドリューが、東京にくるのだ。
しかも、うちの店に来たいって。
ホウレンソウのベーグルを食べたいって。

あたしに会いたいって。

いや、そうは聞いてないけど・・・・・・広い意味でそれに近い感じじゃないか。

信じられない。

こんな、マンガみたいな展開になってしまっていいんだろうか。

「どうしたの夏輝? なんか、顔急に真っ赤だけど?」
怜奈に指摘されて、あたしは顔をぶんぶん振った。

いやいやいや。しっかりしろ、あたし。
あの人は、あたしに会いに来るわけじゃない。

あたしの友だちに会いに来るんだ。

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#22 公園の恋バナ

土曜日の出勤、ランチタイム。
西郷山公園で、コロッケ弁当をちまちまとほじくりながら、ブライアント・パークのことを考える。

あそこにあって、ここにないもの。

背の高い木立。よく育った木々の緑は、都会の喧騒から公園を守ってくれている。

緑色のイス。木製で軽くて折りたためる。その気になれば持って帰るのなんて簡単だ。だけどそんな人はひとりもいなさそうだ。

図書コーナー。公園を使う人々の好意で集まった色々な本が置かれている。金融の本から植物図鑑まで。絵本だってある。子供用のちっちゃい赤いイスが、本棚に寄り添うようにして置いてあったっけ。

深緑色のコーヒースタンド、何種類ものアイスが冷えてるアイスクリームバー。

舗道にこぼれる木漏れ日。

枝葉のあいだにスラリと見える、エンパイアステートビル。

それに、歌うようなベーグル・サムの声。

55番、MATSUIのTシャツ。

あたしを優しくみつめる、透き通る青い瞳。

「なにひとつないじゃん」
あたしは思わず、ひとりごとを言った。

「なにがないって?」
うしろで声がして振り向くと、怜奈が立っていた。

やっぱり今日も、ウィークエンドのキレイめOLファッションでキメてる。
まったく、大手企業にお勤めのOLさんには気を抜いたカジュアルウェアってのは存在しないんだろうか。

「お店のほうに行ったら、ランチに出てるって言われて。ここだと思った」
怜奈はあたしが座ってるベンチに腰かけた。

「どしたの。いつも来るときはメールくれてるじゃん?」
怜奈の突然の訪問に、あたしはちょっとだけ不安になった。

またニューヨーク行こうとか、言うんじゃないだろうな。

いまのあたしにその文句はかなりキケンだ。なにもかも捨てて、飛んでいってしまいそうになる。

「うん?いや、ちょっとね・・・・・・恋バナしたいな、なんて」

あたしはコロッケを喉に詰めそうになった。

「恋バナって怜奈・・・・・また合コンでもてまくりの件? それとも元カレに復縁迫られるの件?それとも・・・・・・」

怜奈の恋バナなら、ありとあらゆるトピックが想定できた。でもあたしのほうは、切れるカードは一枚もない。

「全部ハズレ。今度のは、なかなかムズかしいんだ」
と言いつつ、怜奈はちっちゃなため息をついて、夢見るような瞳で空中をみつめた。

ああ、やっぱなにやってもかわいいんだ怜奈は。

パンダがそうであるように、人類であれば確実に「カワイイ」と思ってしまう何かが、怜奈にはある。
あたしがオトコなら、間違いなく即ホレだよ。

「あのさ。このまえNY行ったとき、友だちの結婚式行ったじゃない? そのとき、知り合っちゃったんだよね・・・・・・すんごく、あたしの好みのタイプに」
「へえ、そーなんだ」

あたしはできるだけ平然と返した。
なんですぐに話してくれなかったんだろ。

「とりあえずメアド交換はできたんだけどさ・・・・・『今度いつ会えるかな』って聞いたら、『いつでも会えるよ。ブライアントパークで』なんて言われて」

ぎょっとした。
な、なにそれ?!

「ど、どーいうこと? なんで公園なの?!」
「彼のオフィスが近くにあるんだって。それで朝か昼には、そこで売ってるベーグルを買いに行くって。彼、大企業のヤンエグなのにそんなかわいいこと言うのよ。ねっ、胸キュンでしょ?」

ま・・・・・・・・・・・・・
ま、まま、まさか?

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#21 あそこじゃない、ここ

なんの波風も立たない、おだやかで、平和で、平凡な日常に、あたしは戻った。
フリーターで、わりかし下流で、彼氏のいない日常に。

でも毎日それなりにおいしいベーグルを食べられて、病気もなく、友だちもいて、そこそこ笑って暮らしている。

不満なんて、ない。おそらく日本の大半のひとが、あたしとおんなじように、そこそこ笑って暮らせているんだ。

政治不信や異常な犯罪は残念ながらなくならないけど、ふつうのひとたちは、なるべくお日様の当たる道を一生懸命に歩いて生きているんだ。

あたしだって、そうだ。別に、不満なんてない。
もっと上に行きたいとか、もっとお金持ちになりたいとか、世界で一番日の当たる場所に住みたい、なんて思わない。

だけど、・・・・・・だけど。

どうしてこんなにぽっかり心が空っぽなんだろう。

「それでどうだったんだ、本場のベーグルは」

ニューヨークから帰ってきて、父に電話をした。パン試食のリポートをする約束だったあたしは、かなり力を込めて報告した。

「もう、めまいがするほどおいしかったよ。
とくに公園で、駅弁スタイルで売り歩いてたおじさんのベーグルは鳥肌立つほどだった」
「そうか」と父は感慨深げにため息をついた。
「何がどう違うんだ?」
「大きさと歯ごたえかな。全然違うの。手のひらをいっぱいに広げたくらいのサイズで、かめばかむほど味が出るみたいなもっちり加減で・・・・・・塩気のないバターをはさむと、これがまた・・・・・・」

話しながら、口の中につばがたまってきた。父のほうも、どうやらそうらしい。

「くそっ。お前、いいなあ。そんなうまそうなパン、食ってきたのか・・・・・・ひとりで」

そう言われて申し訳ない気がする。お金を出したのは父なのに、おみやげすら買えなかったのだ。

「それで、作り方の秘訣はわかったのか」

そう聞かれて、今度ははっとする。
どうすればあの粘り感が出せるのか。おいしさに心奪われて、作り方にまで気持ちが及ばなかった。

「ごめん、すっかり食べることに集中しちゃって。研究してみる」
あたしが恐縮しているのを感じたのか、父は「まあ、いいさ」と慰めるよう口調になった。

「お前はまだ若いんだし、やりたいこともあるんだろう。ベーグル屋でバイトしてベーグルのことばっかり考えてたんじゃ、彼氏もできないぞ」

はあ。それを父親に言われると、けっこうこたえるんだけど。

「ま、今度帰ってきたら、うちのオーブンで挑戦してみてくれ。本場のベーグルとやらを、おれもお母さんも食ってみたいから」

代官山に、西郷山公園という場所がある。高台にあって街を見渡せる、なかなか気持ちのいい場所だ。

夜に行くと、闇にまぎれていちゃつくカップルがうじゃうじゃいて、ひとりものを跳ね返すようなラブバリアーを張りまくってる。
「デイリー・ベーグル」の飲み会では、罰ゲームにひどいのがある。ひとりぼっちでこの公園のベンチに、夜、30分座り続けるっていうやつだ。

あたしはこの罰ゲームに負けて、二回もやらされたことがある。夜の恋人たちがどんなに大胆かをそのとき知った。

もっぱらランチタイムに、あたしは西郷山公園へ出かけていく。
こぎれいなイヌ連れ代官山マダムやおしゃれな子連れヤンママがいる。
時々、女子高生が陽だまりの中で化粧してたりもする。

それなりにのどかで、いい感じに日の当たる風景だ。

だけどあたしは、ついつい思ってしまう。

どうしてここは、あの場所じゃないんだろう?

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#20 ハニー、ハニー、ハニー

ハニー、とサムに呼びかけられて、あたしは緊張した。

たしかにあたしは大学で英文科にいたが、正直なところ、外人が「ハニー」と赤の他人に呼びかけるメンタリティーがわからない。

そういうふうに呼びかけるのは映画なんかで何度も見て知っていたが、実際に自分が呼びかけられると、問答無用で赤面してしまった。

あたしが真っ赤になっているのを見て、サムは実におもしろそうに笑った。
「おれのベーグルのどこが気に入ったのかな、ハニー?」
またハニーと言われた。そんな質問をされても、具体的に答えられるほどあたしの英語力は上級じゃない。

あたしがもじもじしていると、アンドリューはプレーンベーグルとシナモンベーグルを箱の中から取り出して、あたしに差し出した。
「このふたつが私のお気に入りです。これでいいかな?」

あたしは小さくうなずいて、「ありがと・・・」とようやく答えた。
それから、サムに向かい合って、彼の大きな瞳をみつめながら言った。
しどろもどろの英語で。

「あたし、今日、日本に帰ります。だけど、あたし、あなたのベーグルを、忘れません」

大学の英文科にいたとは思えないような、中学英語になってしまった。
サムはじっとあたしをみつめ返した。アンドリューも微笑した目であたしを見ている。あたしは赤くなったままで、ふたりの顔をかわるがわるに見た。

サムはいっそう優しいまなざしになると、あたしに右手を差し出して言った。
「ああ、ありがとう。おれも君のことを忘れないよ、ハニー」

三回目に呼びかけられて、あたしは微笑がこみ上げた。

「あたしは、あなたのベーグルが、大好きです」

素直に言って、グローブのように大きな分厚い手を握った。ぎゅうっと握り返してくる。あたたた・・・・すごい力。骨折しちゃうよ。

「また帰っておいで。ブライアント・パークに」

サムはあたたかな声でそう言ってくれた。

あたしの後ろにサムのベーグルを求める人の列が、すっかりできあがってしまっていた。あたしとアンドリューに手を振って、サムはまた忙しそうにベーグルを売り始めた。

あたしたちは公園の端まで歩いていくと、立ちどまって向かい合った。
「私はもう仕事へ行かなくちゃなりません。でも、会えてよかったです、ナツキ」
アンドリューはもう一度、右手を差し出した。あたしも右手を差し出した。ふたつの手は、しっかりと結び合った。

古い友人に語りかけるように、アンドリューが言った。

「いつかまた会いましょう。ブライアント・パークで・・・いや、代官山で」

あたしは嬉しさを隠しきれない気分になった。

「ええ、ぜひ。店で、お待ちしています。ああ、でも、もしかしたら・・・あたしがここへ帰ってくるほうが先かな、なんて」

半分くらい、本気で言ってしまった。

「ああ、そういえば。これ私の名刺です。もしニューヨークに来られることがあったら、メールください」
そう言って、アンドリューは名刺を取り出した。

真っ白い上質な紙に、「Dayson & Brothers Co.」という社名と、「Andrew Oldum」「Vice President」の文字があった。

「See you next time」

明るく告げて、アンドリューは五番街へ向かって去っていった。

どうしてだかわからない。
けれどあたしは結局、偽マツイとアンドリューとベーグル・サムのことを、つまりブライアント・パークでの出来事を、いっさい怜奈には話さなかった。

こんなに魅力的な人間がニューヨークにいることを、怜奈に否定されたくなかったのかもしれない。

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#19 ふたつの場所

「え~なになにそれ?! なんか作ってね?! ぜえったい作ってね?!」

ニューヨーク最終日、ブライアント・パークでのできごとをややちゃんに語って聞かせてやった。そしたら異常に興奮して、ややちゃんは私の首をしめそうな勢いで食ってかかってきた。
いや実際、あたしにも作り話みたいに聞こえるよまじで・・・。

「で、で、で?! どうなったわけその青い目のアンドリューとは?!」
ややちゃんは興奮のあまりベーグルの生地を叩きつぶしている。
ほんとそれはやめてってば。ベーグルへの冒とくだから。

「どうにもなんないよ、別に」
あたしのそっけない返事に、ややちゃんは目を真ん丸くした。
「どうもないって? イケメン外人エリートで、日本語ペラで優しげで、しかも代官山在住経験ありでうちのベーグル屋のファンであるオトコを、あんたみすみす逃がしちゃったとか?」

うわっ・・・・・・そう言われるとニッポン女子の夢を逃したように聞こえる。

あたしが黙って生地をこねているのを眺めて、ややちゃんは特大のため息をついた。
「あーあ。惜しいなあ、もう」
まるで自分がチャンスを逃してしまったみたいに、ややちゃんは言った。

オーブンから焼き上がった見るからにおいしそうなベーグル。それをみすみす試食もせずに、店に出してしまった。

まあ、言ってみればそんな感じだろうか。

仕方ないじゃん。どんなにおいしそうなベーグルでも、あんまりつやつやで焼き立てだと、やけどしそうで手が出せないもんだし。

イケメン外人エリートと何もなかったと知って、ややちゃんは急にあたしの思い出話に興味を失ってしまった。
だからそれ以上、ブライアント・パークの出来事は話さなかった。

だけど、アンドリューとの偶然の出会いのあと、もっと決定的なことが起こったんだ。
ただし、そのことはややちゃんにも怜奈にも話さずに、あたしの胸の中だけにしまっておこうと誓っていたんだけど。

あたしの勤めている代官山の「デイリー・ベーグル」。アンドリューは、金融関係の仕事で東京に赴任していたころ、通い詰めたという。

あたしが勤め始めたのは半年前だから、もちろんお互い会ったことはない。けれどアンドリューは、ホウレンソウのベーグルやスィートポテトのベーグルなど、うちのオリジナルの商品をよく覚えていて、「いまでもときどき食べたくなるんですよ」と笑った。

「日本ではあの店のベーグルがいちばん好きだった。でも、昔からNo1.なのはサムのベーグルです」

あたしは、なんだかすごく嬉しくなった。

うちの店とあのサムのベーグルを一緒に語ってくれる人がいたなんて。

言葉もやってくる人も異なる、遠く離れたふたつのささやかな場所が、アンドリューによって急に至近距離になった気がした。

「そういえば、あなたはまだベーグルを買っていませんね。ぶつかってしまったおわびに、私が買いましょう」
アンドリューが言った。あたしが遠慮するまもなく、彼はサムのところへ走っていった。あたしはあわてて追いかけた。

「サム、彼女は東京から来たんだ。僕が住んでいた町のベーグル屋で働いているんだよ。君のベーグルが大好きだって」
アンドリューはサムに向かって、早口の英語で、たぶんそんなことを告げた。
あたしは思わず頭を小さく下げた。

サムは大きな黒い瞳でじっとあたしをみつめて、昨日と同じ大きな笑顔になった。

「ああ、知っているとも。また来てくれたんだね、ハニー」

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#18 Nice to meet you.

いた。

ベーグル・サムだ。
あたしは急いで声のするほうへ駆けていった。

昨日と同じように、ベーグルのたくさん並んだ箱を首から提げて、ベーグル・サムが立っていた。
出勤途中のビジネスマンらしき人たちが、声に誘われるようにして何人か通りから公園へ入ってくる。
昨日よりもずっと忙しそうに、サムは彼らにベーグルを次々に手渡していた。

あたしはビジネスマンたちに囲まれるサムを、少し離れたところから見守った。

仕立てのいいスーツをビシッとキメたビジネスマンが、クリームチーズを挟んだベーグルを片手に、また通りへと戻っていく。
ベーグルを買ったからって特別に喜んでいるわけではないけれど、通りと公園を結ぶ彼らのごく自然な流れは、毎朝サムのベーグルを楽しみにしていることを、とてもよく物語っていた。

と、急いで行き過ぎようとしたビジネスマンが、通路の脇に立っていたあたしにぶつかってきた。
ただでさえぼんやりしているあたしは、公園の朝の光景に夢心地になっていて、輪をかけてぼんやりしていたもんだから、すてーん! と音がするくらい勢いよく後ろにひっくり返ってしまった。

「Oh, excuse me」

頭の上で声がした。あたしは何が起こったのか一瞬わからずに、「へ?」と目を見開いた。

青い目がのぞきこんでいる。やがて大きな手が、私の手首をつかんで引っ張りあげた。

「I am so sorry. Are you OK?」

手をぱたぱたさせたり、あたしの肩を叩いたり、全身で申し訳なさそうにしながら、彼は何度も「ソーリー、ソーリー」と言った。

「アメリカ人はちょっとやそっとであやまらないのよ」と、怒りの収まらない怜奈が、昨夜言っていたので、そんなにあやまられたことに、あたしはかなりびっくりしてしまった。

「大丈夫ですか? ケガは、ありませんか?」

ふいに、彼は流暢な日本語で話しかけてきた。あたしはさらにびっくりしてしまった。

「あれ・・・・・・日本語、お上手なんですね」
あたしがようやく日本語で返したのを聞いて、彼はほっと胸をなでおろす。いかにも「安心した」という感じで胸に手をおき、こぼれるような笑顔になって。

「ええ、日本に長いこと住んでいたので。ところで、大丈夫ですか?」

日本語が通じるとわかって、あたしは急に元気になった。

「ええ、全然大丈夫です。あたしのほうこそ、ごめんなさい。ぼんやりしてたから」

彼はもう一度安堵のため息をついた。

「そうですか、よかった。日本から来たんですか?」
「そうです。でも今日、帰っちゃうんだけど。昨日、ここでサムのベーグルを食べて、すっかりファンになっちゃって・・・・・・最後にもう一回、食べたいな、って思って」
「そうですか。サムのベーグルは世界一ですよ。私も大好きで、毎朝買いに来ています」

そう言ってから、右手を差し出した。
「私はアンドリューです。よろしく」

あたしもあわてて右手を出した。
「夏輝です。Nice to meet you」

あたしの手をしっかり握りながら、アンドリューの目がやさしく微笑んだ。

「Nice to meet you, too」

うわっ。生まれて初めて外国人とあいさつを交わしてしまった。
映画ではよく見てたけど、外人ってほんとに出会ってすぐに名乗って握手するんだな。しかも友達の紹介とかじゃなくて、ぼんやりしててたまたまぶつかっただけなのに。

「アンドリューさんは、どうして日本に住んでいらっしゃったんですか」
「私は金融関係の会社に勤めているんです。それで東京に赴任していました。代官山に五年間、住んでいたんですよ」
「え? ほんとですか。あたし、代官山の『デイリー・ベーグル』って店に勤めてるんですけど」

アンドリューの瞳が、一瞬、輝いた。

「ああ、それ、私の大好きな店です」

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#17 出会ってしまった・・・

別に、東京を嫌いなわけじゃない。
でもって、日本人女子のあこがれの街・代官山を嫌いなはずもない。

それなのに、なんだかもう、ここがぜんぜん違う街に思えてしまう。
ニューヨークから帰ってきたばかりのあたしにとっては。

「どうしたのナッキー、なんかいきなり意気消沈してね?」
バイト仲間のややちゃんに、真正面から指摘されてしまった。

今日はバイト先のベーグル屋に早出の日。朝6時出勤でベーグルづくりなのだが、時差ボケで昼夜がひっくり返っているあたしには、かなりキツい。
夜9時頃にベッドにもぐりこんだが、結局1時間くらいうとうとしただけでほぼ完徹だった。

「さてはニューヨークでいい感じの出会い系?」
ベーグルの生地を丸めながら、ややちゃんがおもしろそうに言う。
あたしはため息をつきながら応える。
「まあ、そんなとこ」
「えーー?! まじでまじで?! なになに、外人イケメン?! ナッキー英語しゃべれんだっけ?! どうやってコミュニケーションしたの?! まさかいきなりボディコンタクト?!」

矢継ぎ早に質問されて、苦笑してしまった。

「いやあ、10分くらいしか話してないし」
「なっ?! じゃあなに、ひとめぼれ、とか?!」

そう言われて、あたしは特大のため息をついてしまった。
ややちゃんは手を止めてあたしを見た。

初海外旅行で、ひとめぼれ?! ナッキー、あんた外人にダマされたんじゃね?

声に出さなくても、そう思ってるのがもろ伝わってくるよややちゃん。

しょうがないでしょ。出会っちゃったんだから。

あたしの人生のデスティネーションを決めるひとに。そして、ベーグルに。

ニューヨークから東京に帰る日。
あたしは早起きして、ひとりでブライアント・パークに出かけた。

午前7時。
地下鉄を乗り継いで、タイムズ・スクエア駅で降りて、パーカーのポケットに両手を突っ込んで、足早にブロードウェイを歩いていく。
出勤時間にはまだ少し早いのか、通りを行きかう人は多くない。
清掃車、ゴミ収集の人、ドーナツ売りのワゴン、新聞を小脇にすたすたと歩く人。ようやく目覚め始めた街を、それでも泳ぎ始める人々とすれ違いながら、私はだんだん身体も心もあたたまっていくのを感じている。

ぎちぎちに身を寄せ合って居並ぶビルのすきまから、ところどころ朝日が差し込む。その光のストライプを横切って、公園へと急ぐ。

「ベーグル・サム」のベーグルをもう一度食べたい。
そして確かめたい。あたしに、またこの街に戻ってくる気持ちがほんとうにあるかどうか。

朝のブライアント・パークは、ランチタイムのあとに見たときよりずっと静かだった。朝の冷たい空気のなかで、緑はいっそうみずみずしく、日差しはいっそうきらめきを増している。

昨日と違って、今度は迷うことなく公園に足を踏み入れる。
懐かしい場所に帰ってきた。
そんな気分になった。

新聞を広げてコーヒーをすする人や、ヘッドフォンで音楽に聴き入ってリズムを人、ゆったりと太極拳をするグループ。ここにいる誰もが、やっぱり自然にこの場所を呼吸しているのがわかる。
そんな人たちを、こちらものんびり眺めたいところだけど、あたしにはもう時間がない。

あたしはきょろきょろして、ベーグル・サムを探した。
ふと、聞き覚えのある歌うような声がする。

「サムのベーグル、世界一のベーグルだよ!」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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#16 だいっきらいNY!

言い捨てた怜奈の横顔は、プライドを傷つけられた気高い姫君そのものだった。

あたしには信じられなかった。

確かにあたしは、ニューヨークのほんの一部分しか知らない。だけど少なくともあたしの知ってるニューヨークは、貧富や肌の色で人間を区別するなんてことはない。

「そんな、考えすぎなんじゃないの? 怜奈言ってたじゃん、予約の取れない店なんだって。予約の先着順でテーブル決めてんのかもしれないし」
「夏輝はこの街の怖さを知らないんだよ。確かに治安はよくなったかもしれない。だけどいつなんどき、テロ警戒レベルが上がるかもわかんないんだよ。この街を、ものっすごく憎んでる人もいるんだよ。それはこの街が、金持ちとWASPばっかりひいきするから。だからあたしだって嫌いなのよっ、ニューヨークなんて!」

怜奈はいきなり超きゃしゃなパンプスで、道端のデカいゴミ箱をけった。あたしはすっかり青ざめた。
「れ、怜奈・・・・・・嫌いなの? この街・・・」
「嫌い! だいっきらい! せっかくおしゃれしてきたのに! 夏輝も無理しておしゃれさせたのに(いやそれは余計なお世話なんだけど・・・)! あーやだ、もう帰るっ!」

あたしたちはタクシーに乗り込んだ。
怜奈はすっかり気分を害してそっぽを向いたままだ。あたしは今まで怜奈にフラれた数々のオトコたちに心の中で合掌した。

怜奈を炎上させたヤツらは、さぞやおろおろと血迷ったに違いあるまい・・・・・・

タクシーがタイムズスクエア付近の信号で停まった。ものすごい色と光の洪水があたりいったいを真昼のように照らす。まるで宇宙船そのものだ。

ああ、この場所。ホンモノの松井秀喜がヤンキースに入団決めたとき、大喜びでバット振ってたとこだ。

ふいに、ニセモノの松井のことを思い出す。
すごい、タフなヤツなんだろうな。

もしもニューヨークが怜奈の言ったとおりの街だったら、日本人にとってこんなに生きにくいところはないだろう。

あたしは今日、五番街を意気揚々と歩きながら、あたしがその気になりさえすれば、もしかして、ほんとにもしかして、この街にもっと長くいられたりするんじゃないかな? なんて考えた。

でもそれは、ものすごく現実的じゃない。
こんなに可愛くておしゃれで、お嬢様でお金もあって、英語もしゃべれてニューヨーク経験値が高い怜奈ですら、「嫌い」と宣言しちゃうような街なんだ。

あたしなんかがへら~っと来て、おもしろおかしく暮らせるような場所じゃない。
あたしは、なんだかとてつもなくがっかりした。

明日の昼には、もうここを出て行くんだ。

きっとそれっきり、戻ることはないだろう。

急に、ぽつんと寂しくなった。

大好きなひとに、もう二度と会えないような気分。

ちょっとだけ仲良くなれたのに、結局コクれずに、大好きだった先輩と卒業式で別れてしまった。あのときの気分を思い出す。

また会おうよな。
いつか、ブライアント・パークで。

せっかく松井にそう言ってもらったのに。
1ドルプラスコーヒー代、投資してもらったのに。

もう二度と、会えないんだ。

あたしは首を伸ばして、タイムズスクエアの向こう側にあるはずの、あの公園を探そうとした。

怖いくらいの光の洪水が広がるばかりで、もちろん緑のかけらも見えはしなかったけど。

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#15 オイスター・バーで

ソーホーにある「オイスター・バー」のウェイティング・エリア。なんとかたどりついたあたしは、かなり緊張して怜奈が来るのを待っていた。

どのくらい緊張してたかっていうと、
「Would you like something to drink while waiting for your friend?(お連れ様をお待ちの間に何かお飲みになりますか?)」
と案内係の女性に聞かれて、「ベーグル、プリーズ」と答えたくらいだ。もちろん、露骨に笑われた。

んもー早く来てよっ怜奈あ!

あたしはほとんど泣きそうだった。その日一日、いろんなことがあって、心の中がなんだかすごく混雑していた。

ひとりでマンハッタンを歩き回ったこと。
すごくすてきな公園を発見したこと。

間違いなく世界一おいしいベーグルを食べたこと。

そして、茨城県牛久出身、5月5日生まれの松井秀行に出会ったこと。

「今度、ニューヨークに来ることがあったら連絡ちょうだい。また会えるといいな」
ヤツは、そう言った。

また会えるといいな。
いつか、ブライアント・パークで。

「あーごめんごめん。遅くなっちゃったあ。待った?」

怜奈の声がして、はっと我に戻った。
あたしはあわてて立ち上がる。

「ううん、今来たとこ」
ってなんか初めてのデートなセリフだ。

怜奈はあたしを上から下までじろじろと見てる。あたしはいっそう緊張した。
なにしろこんなドレス系ワンピや靴は身につけたことがない。

「あー惜しい」
怜奈が一言、呟く。
あたしは、へ? となる。

「なんで? 言った通りのカッコしてきたけど」
「バッグ貸すの忘れてた。それ、駅ビルで3800円のバッグでしょ」

あたしの腕に下がっていたのは、おっしゃる通り、駅ビルのバーゲンで3000円台で買ったビニール製ハンドバッグ。

「ったくもう、夏輝も早くヴィトンのバッグ一個くらい買いなよね」
怜奈は不機嫌な顔になる。
ヴィトンを持ってないからって怒られるのは、かなり不条理なんだけど。

いちばん奥の席に通された。
いったん座った怜奈は、急に立ち上がって「ちょっとすみません。なんでこの席なんですか?」みたいなことを英語で案内係の女性にいきまいた。あたしはわけがわからなくて、ふたりの顔を見比べた。ふたりは何か言い合いをしている。

怜奈はあたしに向かって「夏輝行くよ。早く」と言った。
あたしは何が起こったのか、さっぱりわからない。案内係の女性は露骨にいやな顔をしている。

「ぐずぐずしないで。早くってば」

怜奈に引きずられるようにして、あたしは外へでた。

「ど、どうしたの? 何があったの??」
怜奈は肩で息をついた。それから、軽蔑するように言った。

「夏輝にはわかんないよね。あれ、明らかな人種差別だよ」
びっくりした。あんなに丁寧に案内してくれたのに?
「あたしたちが通された席。厨房とトイレのまん前だったでしょ。他のテーブルも空いてたのに、わざとあの席に連れてったのよ。普通は女性ふたりなら、気をつかって一番いい席に案内するもんよ。もしもあたしたちがニューヨーカーっぽい白人女性だったらね」

そう言って、怜奈は憎憎しげに店のほうを見やった。

「ニューヨークはそういう街なのよ。お金持ちと白人―WASPにだけ寛容な街なの」


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#14 YES-I-DO!

世界一のベーグル職人。

あたしは、自分で自分の言ったことにうろたえた。
それでいて、もうずいぶん長いあいだ夢見てきたことを口にしたようで、ああ、そうだったんだよね、と納得していた。

なんだろう、この感じ。不思議な気分。
急に、目の前がひらけたみたいな。

「で、どんなベーグル作りたいの? ってか、そもそもあんた、パン焼いたことあんの?」

笑いを含んだ松井の声に、あたしはまたもやむっとなって立ち上がる。

「あたしの父は、水戸じゃちょっと知られたパン屋を経営してるんですっ!」

つい大きく出てしまった。

「へーなんていう店? ヤマザキ? 神戸屋? アンデルセン?」
「え? い、いやあの・・・ミトイチ・・・ミトイチパン、っていうんですっ!」

あたしはわざと胸を張って言った。
恥かしがる必要なんてない。いまじゃ傾きかけてるけど、それにめっちゃダサいネーミングではあるけど、お父さんのパンは、あたしにとっては世界一・・・いや少なくとも水戸市内一、なんだから。

「え、ミトイチ? まじで? おれ、知ってるよ」

松井が身を乗り出して言う。あたしはきょとんとなった。

「え? な、なんで・・・」
「おれ牛久出身なんだけど。高校時代の友達が笠間にいてさあ。ときどき、部活のときに『うちの近所の超うまいパン』って分けてくれたんだよ。へーそうなんだ、ミトイチの・・・
おれ、ヤキソバパンかなり好きだったよ」

あたしは二重に驚いた。

その①。松井が牛久(茨城県、知る人ぞ知る大仏がある町)出身だったこと。
その②。父特製のヤキソバパンを知っていたこと。それはあたしの大好物のひとつだし。

そんなオトコと、ニューヨークの名も知らぬ公園で、ベーグル売りのおじさんの前で、出会ってしまったとは。

少々ためらいつつも、あたしは何かしら運命のようなものを感じずにはいられなかった。

「じゃあ、おれの投資はムダにはならないかもしれない、ってことかも。あのミトイチのムスメなら、あのヤキソバパンのDNAを持ってる、ってことだもんな」

あたしは松井を見た。目が合って、なぜかどきっとした。

「で、どう? このベーグルは」

言われて、あたしははっとした。半分こしたベーグルは、すっかりあたしの胃袋の中におさまってしまっていた。松井は惜しむように、ゆっくりと食べている。

あたしは黙っていた。黙ったままで、くるりと向きを変え、すたすたと歩いていった。
そう、「ベーグル・サム」に向かって。

「あれ? おい、ちょっと待っ・・・・・」
松井があわてて走ってくる足音を背中で聞きながら、あたしはベーグル・サムの前に立った。

ベーグル・サムはあたしの顔を見ると、もう一度おっきな笑顔になった。

「Do you like my bagel?」

おれの・ベーグル・気に入ったかい?

なめらかな英語は、そのまま日本語になって、耳に心地よく響いた。あたしは自分の顔いっぱいに、ベーグル・サムと同じくらい、おっきなおっきな笑みが広がるのを感じながら、こくん、とうなずいた。

「YES- I- DO!!」


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#13 何者?

あたしとMATSUIは、空いている緑色の木製折りたたみチェアを陽だまりに持ってきて、並んで座った。

驚いたことに、MATSUIの本名は、ほんとに「松井」だった。誕生日は5月5日。

「だからこのTシャツは、あのマツイじゃなくてこの松井のユニフォーム」
などと言う。笑ってしまった。

ニューヨークに住んで3年。
グラフィックデザイン事務所でアシスタントをしている。

事務所があるのは、いまをときめくMPD(ミート・パッキング・ディストリクト)。
なんでも昔は食肉倉庫が居並ぶ、クサい・汚い・キケンなエリアだったらしいけど、この5年くらいのあいだに流行の最先端の店やホテルが次々にオープンして、いまやすっかりトレンドタウンになってしまったとか。

もと食肉倉庫だったところに、最新ファッションがずらりと並ぶセレクトショップが入っているという。

そのまん前に、ストレッチリムジンが横付けされて、アッパーイーストに住んでいるマダムが小型犬を抱いて、つんとして車の中から出てくるんだそうだ。

「なにそれ? トレンディドラマみたい」
「ってか、ドラマのほうがあの街のトレンドを追っかけてる、って言ったほうが正しいな」

松井が住んでるのはブルックリン。マンハッタンからブルックリン橋を渡った東側にある。

「マンハッタンは家賃が高くて住めないんだ。おれの住んでるアパートの周りにも、若いデザイナーやアーティストがいっぱい住んでるよ。カフェとかうまいイタ飯屋とかもけっこうあるし」

わあ、と、ついうらやましそうな声を出すと、
「くいしんぼだな。メシのとこだけ反応してるし」
と言われてしまう。
はあ、その通りですよ。

「で、あんたは何者なの?」

松井のプロフィールをひととおり聞き終えてから、今度はあたしの番になった。

「えーとあたしは・・・・・・」

言いかけて、あたしは口をつぐんでしまった。

あたし、何者なんだろう。

フリーターです。
ひとことで終わっちゃうじゃないか。

「なんか、どデカいことをやろうとしてる人?」

すかさず、松井が突っ込んできた。
あたしはつい、むくれてしまった。

「だからやめてくださいって。あたしはそんな、スケールのデカい人間なんかじゃないんだから」
そしてぷい、と横を向いた。

こんな態度とるなんて、あたしってやっぱり子供じみてる。
これが怜奈だったらきっと、あれこれ話題の糸口をつくって、また会えるようにきちんと段取りしておくんだろうな。

・・・・・・ってあたしまた会いたいのかこいつに?

あたしの目線の先に、さっきのベーグル売りのおじさんがいた。

ベーグルの入ったボックスを首からさげたまま、おじさんもあたしのほうを見ていた。
視線が合うと、おじさんは、またもやこぼれるような大きな笑顔になった。
あたしもつられて、つい笑顔になる。

『世界一のベーグル』

リズミカルな文字が、再び目に入った瞬間、あたしは何気なくつぶやいた。

「世界一の、ベーグル職人」

え?

あたしは自分のつぶやきに、はっとした。

「へえ。そうなんだ」

松井の声がする。
気のせいかな、さっきよりもずっと近くで、囁くみたいな声が。

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#12 55 MATSUI

はあ?

「凍死? 別に死ぬほどは寒くないですけど?」

と、言ってみた。

あたしのボケに、MATSUIはぷっと吹き出した。

「いや、死ぬほどサムいんだけどそのリアクション」

あーどうもすみませんね。

しかしなんだ、トウシって。さっぱり意味、わかんないし。

「あんた、なんかすっげえ真剣だっただろ。たかがベーグル一個に。迫力感じたんだよ。自分の全部を賭けてる、っていうか」

はあ?

「いや別にあたし、全部賭けたりとかしてませんけど」

かなりむっときた。そこまでいやしそうだったのかあたしは。

「いや、賭けてた。『ここでこのプレーンベーグル食えなかったら日本に帰れない』って顔してた」

あたしは絶句した。

そこまで言われるとなると、いやしいのを通り越して、ほんとに自分のすべてを投げ打ってベーグル獲得に動いたのかあたし・・・・・

「で、なんかこいつやるな、と思ったわけ。いずれどデカいことをやりそうだな、と」

どデカいこと、って・・・・・・

「ベーグル1個欲しがってじたばたしてるあたしが・・・・・・ですか?」

MATSUIはこくん、とうなずいた。

「だから、あんたの未来に投資した」

あたしはヤツを見た。
ヤツのふたつの目を、目と目の真ん中を、つながりそうでつながってないわりかし濃い眉毛、でも形のいい眉毛のあいだを。

あんまりみつめすぎて、寄り目になってしまいそうだった。

なに、それ?
あたしの未来に、投資?

もしかして、ものっすごいバカ?
いやそれとも、新手のナンパ?

いやいやいや、違う。だって、お金払って行っちゃうとこだったんだし。

そもそも、投資ったって、たった1ドルだよ?!

みつめあうこと約5秒。あたしはモウレツに焦った。どう反応していいか、さっぱりわからなくなった。

「ま、そういうこと。じゃ」

「ちょちょちょ、ちょっと待って!」

あたしは去りかけるMATSUIの「55」をまたもや引っ張って止めた。

「なんだよ。シャツ伸びちゃうだろ。これ、お気に入りなんだから」
「すいません。でも、それってなんか、フェアじゃない」

自分でもまったく想像しなかった言葉が口をついて出た。

MATSUIの視線を感じながら、あたしはずっと握っていたベーグルを半分にして、小さいほうを差し出しかけてから、やっぱり大きいほうを差し出した。

「投資してもらうんだったら、おっきいほうどうぞ」

MATSUIは差し出されたベーグルに視線を落としていたが、ようやくそれを受け取った。

「じゃ、遠慮なく」と、ヤツ。
「いや、遠慮なんて」と、あたし。

お金払ったのは、あなたのほうですから。

「あ。ちょっと待ってて」

何か急に思い出したように、MATSUIは公園の端へ駆けていった。
3分後、口にベーグル半分をくわえ、両手にあつあつのコーヒーが入った紙カップを持って戻ってきた。

カップをひとつ受け取ると、MATSUIはにっこり笑顔になった。

「それ、追加投資だから」

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#11 世界一のベーグル?

世界一のベーグル。

その文字に引き寄せられるように、あたしはおじさんのところへ歩いていった。

おじさんは、あたしを見ると、ほんとうに顔いっぱいに笑みを浮かべた。ちゃめっけたっぷりの表情で、ものすごく早口の英語で話しかけてくる。

あたしは満面笑みのおじさんと、ボックスの中に並んだつやつやに光るベーグルの両方を見比べる。

「すいません、プレーンベーグルを一個ください」

こともあろうに、あたしは堂々と日本語で言ってみた。
なんだかすごいいきおいのあるおじさんだから、日本語で話しかけても受け止めてくれるような気がしたのだ。

私の意図とはうらはらに、おじさんはひとつひとつのベーグルの説明を始めた。
「これがシナモンレーズン、これがチョコレート、これがオニオン・・・・・・」
と指差しながら。

あった、プレーン。
一個だけ、残ってる。

手を伸ばそうとした瞬間に、すぐとなりから、ひょい、と長い腕が伸びた。
あたしが狙いを定めたプレーンベーグルをおじさんに差し出して、
「クリームチーズはさんでくれる?」
となめらかな英語で語りかけたのは、
どっからどう見ても、日本人のオトコ、だった。

「ちょっと待って。それ、あたしが買おうとしてたやつなんですけどっ」

あたしは無意識にヤツの長い腕をがしっとつかんでしまった。

ヤツはきょとんとあたしを見てる。
Tシャツに短パン、短いソックスにスニーカー。季節感のかけらもないいでたちだ。くしゃくしゃの真っ黒いくせっ毛が、ヤンキースのキャップからはみだしてる。

さらによく見ると、Tシャツに「55 MATSUI」って書いてある。

うわっ・・・・・・ハズカシイ。絵に描いたようなおのぼり観光客だわ。

ベーグル1個を取り合って、そのおのぼりさんの腕をつかんでるあたしも似たようなもんだけど。

「え。あるじゃん、ほかにも」

MATSUIは腹ペコ小学生をけん制するような視線でそう言った。

あたしはむっとして返す。

「ないですよ。それが最後のプレーンベーグルだもん。あたしが先にみつけたんだし」

あんまりあたしが食い下がるもんで、MATSUIは手にしたベーグルを、あたしに「わかったよ。はい」と渡した。
そして、ベーグル代をおじさんに払うと、「じゃあ」と、自分は何も買わずにすたすたと去っていく。
あたしはぽかんとしてしまった。

「ちょ・・・・・・ちょっと。ちょっと待ってください!」

あたしはベーグルを握りしめたまま、「55 MATSUI」と書いてある背中を追いかけた。「55」のところをぎゅうっと引っ張って、ようやく止める。

「なんだよ、どうかしたの」

MATSUIが振り返った。
至近距離に目が合って、あたしはあわててTシャツを離す。

「いやあの、だって、あたしのベーグルのお金、なんで払ってくれたんですか?」

MATSUIは両腕を前に組んで、あたしと向かい合った。
結構、背が高い。
どっちかっていうとあたしはちっこいほうだから、文字通り見下ろされてる感じ、いや、見下されてる感じがする。

どっちにしろ、やーな感じ。

5秒くらいのにらめっこのあと、MATSUIは思いも寄らない言葉を口にした。

「投資だよ」


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#10 運命の場所

ニューヨーク市立図書館と42nd Streetの角をまがった先で、あたしがたどりついた場所。

そこは、公園だった。

車と人がひっきりなしに行き交う大通りから公園を眺める。

うっそうと茂る緑の木々。ときおり軽やかに、十月の初めの風に枝葉を揺らしている。

よく手入れされた芝生のスクエアで、人々が思い思いにくつろいでいる。

寝転んで本を読む人。ヨガマットを広げて、「鳥のポーズ」をする人。ギターをつまびいて歌う人。それに聞き入る人。

そのスクエアをぐるりと囲む、ニューヨークの摩天楼。

エンパイア・ステート・ビルが、凛として青一直線に立っている。そのせいで秋の空は、いっそう高く青く、広々と見える。

芝生のスクエアの手前はプラタナスの並木道。その木陰で人々が、緑色の木のイスをあちこちに並べて、やっぱり思い思いに時間を過ごしている。

ラップトップコンピュータとにらめっこするビジネスマン。
コーヒーを片手に談笑するお母さんたち。
その周りではしゃぐ子供たち。
居眠りをする清掃のおじさん。
肩を寄せ合う恋人同士。
スケッチに熱中する美学生。

なんだろう。なんだか、すごく涼しい、やわらかい、あったかい。
いろんな国の、いろんな職業の、いろんな世代の人々が、ここには集まっている。

それぞれに、知らない同士。
それなのに、ほのかに漂う親近感。
自分の世界を楽しみながら、ほかの人の世界を尊重しているような。

誰もがこの場所が作りだす磁力に、心地よく身をゆだねているような。

同じリズムで揺れている、野原の名もない花のような。

たぶん、マンハッタンのなかではありふれた風景なんだろう。
それでいて、世界中でここにしかない風景なんだ。

あたしには、そう思えた。

あたしは、この完璧な絵のなかへ入っていくことを、ほんの少しためらった。

もしかして、あたしが入っていくことで、このすばらしい雰囲気が壊れてしまうんじゃないか。

そんなふうに思わせるくらい、泣きたいほどに美しい風景だったのだ。

ふと、大通りに続く階段の近くのイスに座っていた若い女性と目が合った。彼女はちょうどラップトップをたたんで、立ち上がるところだった。
あたしとあわせた目は、そのままごく自然に微笑んだ。

どうしたの? 入っておいでよ。

まるでそう語りかけてるみたいに。

あたしは彼女の微笑に勇気づけられて、公園の中へ足を踏み入れた。

一歩、また一歩。ゆっくりと歩くにつれて、木漏れ日があたしの身体の上で波打ち際の泡みたいにきらめいている。
その透き通ったあたたかな光に、あたしは不思議な感情で少しずつ満たされていく。

ああ、生きてるっていいな。
こうして歩いて、見て、聞いて、感じて。
いいな、いいな。すてきだな。

静かに静かに、あたしは興奮していた。

世界が自分に向かって凝縮してくるのを、体中で受け止めていた。

「ベーグル・サムのベーグル。ベーグルはいかがかね」

まるでブルースでも歌うような大きなよく通る声。あたしは顔を上げて目をこらした。

大きな黒人の男性が立っている。首から紐で吊るした大きなボックスに、たくさんのパンが並んでいるのが見える。

『ベーグル・サム 世界一のベーグル』

箱には赤い文字の英語が、リズミカルに書かれてあった。

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#9 ベーグル、じゃない?

「は? え? あああああの、なんて?」

デリのお兄さんの耳にも止まらぬ光速英語に、あたしはあわてふためいた。

「なんにしましょう? って聞いてるだけだよ」

怜奈は平然として、メニューの黒板を見上げている。

「えーっとあたしはパンケーキかな。サイドにソーセージとポテトつけてもらおっと。夏輝は?」

あたしも黒板を見上げたが、目が泳いでしまう。
後ろに並んでいるキャリアウーマンふうの女の人の、イライラオーラが背中にイタい。

「あたしは、あたしは・・・・・・ええっと」

チョイスはとっくに決まっている。

もちろん、ベーグル。
ニューヨークで、もっともポピュラーなパン。でもって、あたしがこの世の中で一番好きな食べ物。

「あのっ、セサミベーグルを、もしできればトーストしてもらって・・・・・・バターをとろーりとはさんでもらいたいんだけど・・・・・・」

「For her, a toasted sesame bagel with butter, please」

しびれを切らした怜奈が、ガラスケースの向こうのお兄さんにすばやく注文をする。

ううっ。なんてなめらかな英語なんだ。

「Anything else?」
「That’s all, thanks」

ワックスペーパーに包まれたあっつあつのベーグル。
3分後に、あたしの手の中にあった。

ホテルの部屋に帰りつくのが待ちきれず、通りに出たとたん、あたしはベーグルにかぶりついた。

その瞬間、あたしのなかで食の地殻変動が起こった。

なにこれ?! う・・・・・・うますぎない?!

親がパン屋を経営してたこともあって、子供のころからパンを作り、食べ続けてきた。
でもって、いまも代官山のおしゃれなベーグルショップに勤めてる。

なのにそのとき、あたしが食べたものはベーグルじゃなかった。

いや、これがベーグルだとしたら、いままで食べてたベーグルはひとつ残らずフェイクじ
ゃないか。

衝撃だった。

初めてのニューヨーク一人歩きで、あたしは迷わずデリに突進した。

怜奈と行った店でセサミベーグル。
もう1ブロック先の角のデリでシナモンベーグル。
そのまた2ブロック先でオニオンベーグル。
3個食べて、すっかりお腹がふくれてしまった。

なんせ、日本のベーグルの1.5倍はある。かつもっちりした歯ごたえは、焼きもちを食べている感じに近い(そんなにノビないけど)。
かみ続けていると、まじでアゴがきたえられそうだ。

しかし、かめばかむほど味が出るところは、どことなく都こんぶのような。

とにかく、3個くらいじゃ話にならない。
父親に借金するときの約束で「パンの食べ比べしてこい」と言われてることだし。

まだまだ食べるつもりで、あたしはどんどんどんどん、五番街を南に向かって下っていった。

ティファニーや、ヘンリー・ベンデルや、H&Mや、ロックフェラーセンターを右に左に眺めながら。

かなり歩いたと思う。だけど、そんなにお腹は空かなかった。そのかわり、またもや足が棒になってしまった。

少し休もうかな。

そう思って交差点で立ち止まる。
目の前に、大きな白っぽい建物がある。入り口に二匹のライオン像が見える。

ああ、これたしか「ゴースト・バスターズ」に出てきたな・・・・・・ニューヨーク市立図書館だっけ?

そう思いながら、あたしの足はなぜかその角を曲がっていた。
図書館の壮大な建物の後ろに、緑の茂みが見えたからだ。

自然と、あたしの足は向かっていた。

運命の場所へと。

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#8 NYデリ・デビュー!

Tシャツにジーンズにパーカーにスニーカー。腰にはしっかりポーチをくくりつけて、パスポートはポーチの内側のポケットにハンカチにくるんで入れた。

This is Natsuki’s New York Style.

と、鏡の中の自分に向かってつぶやいてみる。

ちょっとおバカな今日のあたし。
だってあたしは今日、けっこううかれてるんだ。
初めてのニューヨークひとり歩き。
目的は、ただひとつ。

「っしゃあ~っ、パン食い競争だあっっっ!!」

表通りに出たとたん、思わず日本語で、しかもわりと大きめな声でシャウトしてしまった。
道行く人が振り返ってあたしを見てる。だけどちっとも気にならない。

そう、あたしは客観的にどっからどう見てもハズかしい日本人観光客だった。

なのに今日のあたしはあたしのなかで、カンペキに「ザ・ニューヨーカー是枝夏輝」なのだった。

まえ、なんかの雑誌で見たことがある。
ニューヨーカーの歩く速度は世界第2位だとか(ちなみに1位は大阪人。笑)。
足が長いってこともあるんだろうけど、確かにあんまりぶらぶらしてる人がいないっていうか。
みんな目的地に向かって、ツカツカツカツカ、まっしぐらに歩いていってる気がする。

曲がりなりにもニューヨーカーと肩を並べて歩いていると、こっちもついつい早足になる。

もちろんコンパスの長さではかなうわけないんだけど、なんていうか、「世界的な競歩に参加してる」みたいな気分になってくる。

この闘いに打ち勝ったら、いつの日か「ニューヨーク・シティ・マラソン」に参加できるかも、なんて、バカX 2 なことを考えたりもする。

そんなことより、今日のあたしの最初の目的地は、ミッドタウンにあるホテルから2ブロックダウン、2ブロックイーストへ行ったところの角にあるデリだった(心のなかでは、まず右へ行って、1コめを右曲がって、2コめを左に曲がって、2コめの角、と覚えていた)。

NYに来てからホテルでブッフェの朝食を食べていたんだけど、きのうの朝、「デリのブレックファースト、してみる?」と怜奈が連れていってくれた。

知ってる店があるのかと思ったら、「NYには、ほぼ1ブロックごとにデリがあるの。だからどっかそのへんにあるでしょ」と、わりかしいい加減な返事だった。

ところが、である。
「どっかそのへんのデリ」の朝ごはんが、めちゃくちゃおいしかったのだ。

デリと言えば、私の中では「ディーン&デルーカ」みたいなおしゃれ食材とコーヒーやスイーツを売ってる店のことだった。

が、ほんもののデリっていうのは、まったく別モンだった。

まず、おしゃれじゃない。どっちかっていうと、ダサい。

それから、スパゲッティとゆでたトウモロコシとフライドポテトの匂いを混ぜたような、なんともいえないジャンクな匂いがする。

でもって、ポテチだのチョコだのヨーグルトだの、いろんな加工食品=ジャンクフードがどわーっと並んでいて、奥のほうには洗剤や殺虫剤まで置いている。
その一部はホコリっぽくて、ディスプレイはここ何十年も変えたことありません、って感じの、むしろガンコ一徹な雰囲気さえある。

日本の田舎のよろず屋さんみたいな感じ、だろうか。

だけど、よろず屋さんにありがちな、「さて何がみつかるかな?」みたいなワクワク感がいっぱいにあふれている。

そして入り口近くにショーケースがあり、チーズやサラダがずらりと並ぶ。
その奥からはタマゴとソーセージの焼けるなんとも香ばしい匂いが漂ってくる。

ニューヨークヤンキースのキャップをかぶったプエルトリカンっぽい男の人が、あたしと目が合うと人懐っこく、だけどものすごい早口の英語で語りかけてくる。

「May I help you, Ms.?」

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#7 NYディナーのしきたり?

「じゃあいってくるね。今日いちにち、ほんとにひとりで大丈夫だよね?」

ウェディングパーティーに出かけるしたくをすっかり整えて、怜奈があたしに向かって言う。
カルバン・クラインのシルクのワンピに、きのう買ったばかりのケイト・スペードの靴とバック。ダナ・キャランのコロン「ニューヨーク」をふりかけて、怜奈はすっかりミス・ニューヨークって感じに仕上がっていた。

起きぬけでパジャマのままの自分がひどく貧相に思えてしまうのは、いまに始まったわけじゃないけれど。

「大丈夫だって。ストリートのアップ&ダウンも把握したし、イースト&ウエストも」
あたしは怜奈に習ったとおりの言い方をしてみた。
マンハッタンの地図を見ながら、あたしが「この上のほうにある・・・・・・」とか「下の右の・・・・・・」と言うのに対して、怜奈は「ツーブロックアップのとこにある店」とか「もうワンブロックダウンしてイーストに向かって」とさらりと言う。

そんなふうに、目的地をストリートのアップ&ダウン、エリアのイースト&ウエストで言えるようになったらニューヨーカーのはしくれになれそうな気がする。

「あのさ。海外って、着いた日ともう大丈夫って思ったときが一番キケンだから。アップ&ダウンでストリートを把握したからって、『あたしもニューヨーカーのはしくれだ』なんて間違ってもカンチガイしちゃだめだからね」

ううっ。なんてするどいんだこの女は。

胸のうちをまんま見抜かれて、あたしは少々どぎまぎしてしまった。
怜奈はすました顔で、「じゃあ7時にオイスターバーでね。あたしの名前で予約してあるから」と確認した。

さっきからもう3回目なんですけど。

「はいはい、わかってますって」
「このへんからだと地下鉄でもタクシーでも30分はかかるから。で、6時半くらいはタクシー捕まりにくいから、余裕を持って出てね」
「はあい。わかりましたあ」
「ちゃんとした店だから、ちょっとはおしゃれしてきてよ。だいたい、あたしがこんなキメてんのにそっちがTシャツとジーンズじゃ、つりあわない。でしょ?」

いちいちうるさいなあ、もう。

「わかった。なんかちょっとは、ましなの着てくよ」

とはいえ、いちばんましなのがきのう買ったアバクロのTシャツなんだけどなあ・・・・・・

あたしがどんよりと沈みこむのに気づいたのか、ドアを出ようとした怜奈は、「あ、そうだ」と戻ってきた。
そして、クローゼットの戸を開けると、まだタグがつきっぱなしで吊るしてあった紫色のサテンのワンピを取り出した。
やっぱりきのう買ったばかりのアナ・スイの新作。

「これ、よかったら着てきなよ」

友だちの親切な提案に、私はちょっとあわててしまった。

「え? いやでも、まだ怜奈着てないじゃん」
「いいからいいから。あたし的には夏輝がジーンズでディナーに来られるほうがマズいし」
「えーそんな悪いよ。それにこのワンピで一日じゅう歩き回るのはちょっとなあ・・・・・・」

怜奈は笑い出した。

「何言ってんだか。NYではね、ディナーのまえにはうちに帰ってシャワーを浴びて、着替えておめかしして出かけるもんなの。ほら、靴もないんでしょ。あたしのパンプス。サイズおんなじだよね?」
またまたきのう買ったばかりのミュウミュウのパンプスを差し出した。

まったく、頼りがいのありすぎるヤツ。

「じゃ、くれぐれも気をつけて。いってきまあす」

歌うように出ていこうとする親切な友を、「ちょっと待て怜奈!」と今度はあたしが引きとめた。
怜奈はほんの少し不機嫌な声を出した。
「なに? もう時間ヤバいんだけど」
「いやその。今日の怜奈、超きれいだな、と」

なんだかカレシめいたことを口にしてしまって、あたしはおおいにテレてしまった。
怜奈はふふっと笑って、「ありがと。じゃっ、See you tonight!」と、今度こそさっそうと出ていった。


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#6 夢みたいに恋みたいに

それからの5日間は、まさしく夢のような日々だった。

23年間生きてきて、生きてることっていいよな、なんて、一度も意識したことなかった。

平々凡々、めちゃくちゃよくもないが、どうにもならないほど悪いわけでもない生活。

朝起きて、バイト行って、お弁当食べて、帰ってご飯食べてお風呂に入って洗濯して、寝る。
休みの日には友だちと会って、雑貨屋さんとかケーキ屋さんとか行って、DVD借りてきて、ご飯を作って、寝る。

ほんとにごくごくフツウの生活だ。

大学時代にちょっとだけつきあった男の子がいた。
考えてみると、あたしの恋愛モード期間は笑っちゃうほど短かった。
だけど確かにその期間は、アドレナリンやらドーパミンやらビフィズス菌やら、体内にいいものがあふれてて、生きてるのが通常の2倍以上は楽しかったように思う。

だけど、いま。

こうして五番街を、空に突き刺さる摩天楼を見上げながら歩いている、いま。

街角でホットドッグを買ってかぶりつきながら、日本の倍くらいの大きさの紙コップでスターバックスのカプチーノを飲んでいる、いま。

この瞬間ほど、生きてることを楽しんでたときって、あっただろうか。

誰かに恋してるときって、確かに楽しかった。
だけど恋が終わってしまえば、それは苦しいだけのものに変わってしまった。

でも、いまはどうだろう。

この街にあたしがいられるのは、ほんの5日間だけ。
それはたしかに、すぐ終わってしまう。

だけど、もしも、あたしがその気になって、がんばって仕事してお金を貯めて、あの紙切れみたいな航空券を買って、この5日間をもう一度再現しようと思ったら?

そして5日間だけでなく、たとえば10日間、もしかして1カ月、って決めたら?

それは100%不可能――なことじゃない。

いっかい失ってしまった恋を、もういっかいやりなおすのだって、そりゃあ100%不可能なことじゃないかもしれない。
だけど98%くらいは不可能だと思う。 

あたしがこの街に戻ってこられる確率って、それにくらべたらずっと高いんじゃないのかな。

恋はどうにもなんないことのほうが多いけど、この街に帰ってこようと思ったら、それはあたし次第でどうにでもなるんじゃないのかな。

そんなふうに考えて、あたしは自然とスキップしてしまいそうになる。

ニューヨークに来て最初の日。あたしはただただ驚いて、どきどきして、きょろきょろしてた。どこへ行くにも、びくびく、おろおろ。かなり挙動不審なニホンジン観光客だった。

2日目、怜奈の案内で、とにかく歩いた。北から南へ、東から西へ。足がまんま棒になる。

3日目、怜奈に誘われるままに美術館巡り。夜はブロードウェイで「ライオン・キング」を観て大興奮。そのあと、「ブルーノート」でジャズに酔いしれる(っていうか時差ぼけのため爆睡)。

4日目、すっかり気持ちが大きくなって、ショッピングに繰り出す。とはいえ、「ティファニー」や「ケイト・スペード」で怜奈のお買い物を見てるだけ。あたしの戦利品は、「アバクロンビー&フィッチ」のTシャツ1枚のみ。

そして、今日。

怜奈が友達の結婚式で、ロングアイランドに出かける日。

朝から夜まで、たった一人で過ごす日が、とうとうやってきた。

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#5 マンハッタンのオキテ

そうしてたどりついたニューヨークは、あたしの想像をはるかに超えてものすごい街だった。

JFK空港からチャーターバスに乗って30分。長いトンネルをくぐる。そこを抜けるとなんだか薄暗い。
あれ? と思って窓から上を見上げると、太陽の光をまったく遮断してすきまなく立ち並ぶビル群が視界に飛び込んできた。

うわっ。な、なんだこれ?!

「夏輝。口、開いてるよ」
隣に座っていた怜奈が、くすくす笑っている。
あたしはよっぽどぽかんとしてしまったに違いない。
だけど、ぽかんとしてしまうのを止めようがなかった。

これでも大学時代からいままで5年間、曲がりなりにも東京で生活している。
だから高層ビルなんて珍しくもなんともない。
六本木ヒルズの展望台だって、一回きりだけど上ったこともある。

だけど、マンハッタンの高層ビル群は、想像を絶する高さにあたしには思えた。

高さもだけど、密度が濃いっていうか。
ほんとうにぎっちりとビルとビルがくっつきあっている。
鏡のように磨き上げられた外観のビルには、どのくらい窓があるのか数えられもしない。このビルひとつひとつの中で、どれほど多くの人々が働いているんだろうか。
想像しただけでも気が遠くなりそうだ。

「ねえ、ニューヨークってこんなぴっかぴかのビルばっかりなの?」
怜奈に聞くと、「まさか」と言う。
「いまバスが走ってんのはミッドタウンって言って、セントラルパークの南で、マンハッタンの中心街ね。もっと下、っていうか南のほうへ行くと、ダウンタウンとかソーホーとか言って、もう少し庶民的で古いビルがあるエリアなの」

ガイドブックのマンハッタンの地図を指差しながら怜奈が説明してくれる。

マンハッタンは細長い島のように見えて、なんていうか、人差し指で下を指してるみたいな形をしている。
その真ん中あたりに長方形の緑色があり、これがあの「セントラルパーク」だ。
この巨大な公園の中を、ニューヨーカーたちがジョギングしたり優雅に犬の散歩をしたりする写真は、何度も雑誌や映画で見たことがある。

そのセントラルパークを中心に、地図上で上が北、下が南。右が東、左が西、と怜奈は教えてくれた。
「一度覚えちゃうと超わかりやすいよ。東西に走ってる道は『ストリート』って言って、下のほうから上に上がるほど数字が大きくなるの。ほら、ダウンタウンの辺は3rd Streetとかあるでしょ。セントラルパークの横あたりは、90th Street。それから南北に走ってる大通りは『アヴェニュー』。これは東から西へ数字が大きくなる。ね、右側は1st Avenueで、左側は7th Avenue」

ああ、なるほど。

「あと、タクシーに乗ったりしたらタテヨコのストリートとアヴェニューを組み合わせて言うと、店の名前とか住所を言うよりわかりやすいみたい。たとえば、『Broadway & Prince』って言うの」
「え? それだけでいいの? で、どこに着くの?」
「ブロードウェイとプリンス・ストリートの交差点だよ。つまり、『プラダ』と『ヴィクトリアズ・シークレット』と『アルマーニ・エクスチェンジ』と『ディーン&デルーカ』のある交差点」

へええ、とあたしは思わず感嘆する。
タクシードライバーにタテヨコの組み合わせで行き先を告げるなんて、なんかすっごくニューヨーカーっぽい。

さっそく試してみよう、と心に決めた。


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#4 誘われちゃったけど?!

そんなとき、怜奈から海外旅行に誘われた。

一緒に行くつもりにしてた同僚が、仕事の都合でいけなくなってしまったとか。

「キャンセルすることも考えたんだけど、サマースクールのとき知り合った友達の結婚式に出るって約束しちゃったんだよね。ホテルもツインで取ってるし、その分はあたしが持つから」

いきなりニューヨークに誘われて、あたしは正直、あわててしまった。

「え? ニューヨーク? あ、あたしが?」

だって海外なんて行くお金もチャンスもなかったし、それをいきなりニューヨークなんて。

あたしの中でニューヨークのイメージは、タイムズスクエアの前でバットを振ってる松井と、ティファニーの前でパンをかじるオードリー・ヘプバーンと、崩壊する高層ビルの前で逃げ惑う人たちだった。
にぎやかで、お金もちがいっぱいいて、なにかと狙われやすい都会。
そんな感じだった。

「だって夏輝が一番スケジュールなんとかなりそうだし。私のまわりでフリーターやってるの、夏輝だけだもん」

なんなんだその後ろ向きな理由は。

ちょっとむっとしたが、怜奈の言ってることはもっともだった。

「知ってる? ニューヨークってすっごくホテルの予約取りにくいし、宿泊代も高いのよ。いまのシーズンは一番高いときだから、そうだな、ルームチャージで1泊4万円とかかな」

よ、4万円?! ×5泊=20万円っ?!!

あたしは気が遠くなった。5日間であたしのバイト代をはるかに上回るとは・・・・・・

それを全部持ってくれると怜奈は言う。まったく、どういう金持ちなんだこの子は。

「どうすんの、行くの行かないの? 行かないんなら他の子に声かけるから」
「い、行く行く。行きますっ」

ほとんどなし崩し的にあたしの初海外旅行が決定された。

宿泊代は怜奈に甘えるとして、問題はその他の経費だ。
怜奈いわく「飛行機代でしょ、食費でしょ、ショッピングでしょ、ブロードウェイのミュージカルでしょ。美術館とかもいっぱいあるし、なんだかんだで20万くらいはかかるね」

情けない話だが、私の通帳残高はわずか5万円だった。
ショッピングやブロードウェイや美術館は自粛するとして、最低でも13万くらいは必要だ。

あたしは意を決して実家に電話した。
が、母に「夢でも見てるのかね・・・・・」と軽くいなされてしまった。
これを断られたらいよいよサラ金に手を出すかも、と恐れながら父に借金を申し込むと、意外にも「わかった」と言う。
電話口で狂喜乱舞するあたしに、しかし父はぬかりなく釘をさしてきた。
「ただし、条件がある。あっちで一番うまいパン屋をみつけて、どんなだったか報告すること。それから貸した金は1年以内にきっちり耳を揃えて返すこと」

「えー? パンなんてあるのかなあ」
とぼけてみると、
「ばかやろう! お前、ベーグル屋に勤めてるんだろ?! ニューヨークはベーグルの本場だろうが!!」

怒られてしまった。

申し込んだ借金の金額は13万円。
けれど翌日、20万円があたしの口座に振り込まれていた。

そうしてあたしは、とうとうニューヨークに行くことになった。

機中、怜奈はずっと寝ていたが、あたしは映画と機内食とガイドブックを存分に楽しんで、寝てるひまなんてちっともなかった。

日付変更線を超えた。
シベリアも超えた。
フライト情報を見ながら、あたしはずっとどきどきしていた。

いままでなにごともなく、平凡に安穏と生きてきた。

でも、冒険の始まりって、きっとこんな感じに違いない。

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#3 かなり上、わりと下

そうなのだ。

同じ大学の同じゼミ出身なのに、怜奈とあたしは格差社会のかなり上とわりと下の両極端に位置している。

怜奈のお父さんは会社の経営者で、お母さんは専業主婦。
兄貴はIT企業勤務で、30歳にして年収2千万。
怜奈は親のコネで大手商社の花のOL一年生。おしゃれと海外旅行と合コンに明け暮れる、優雅な日々。

いっぽうあたしの両親は、茨城県水戸市の郊外で昔ながらの町のパン屋を営む。
大型ショッピングセンター進出のあおりで、商売はかなり傾きかけてる。
妹は来年大学受験で、社会人になったあたしに仕送りする余裕なんて、もちろんない。

なのにあたしの身分は、フリーターなのだ。

就職氷河期でもないはずなのに、受けた就職試験はことごとく失敗。面接にこぎつけたのはたった二社。
そこでもあえなく自滅した。

成績がいいわけじゃなし、クラブ活動に熱心だったわけじゃなし、容姿端麗なわけじゃなし。
くわえてコネなし、やる気なし。
そんな新入社員、あたしだっていらんわ。

てなわけで、ほかにチョイスもなく、フリーターになった。

実家に帰って家業を手伝う、というのも考えたが、親から給料をもらえるはずもない。

親伝授のパン作りの腕だけはあったので、代官山にあるおしゃれなベーグル屋でアルバイトを始めて半年が経つ。

格差の上と下に位置していても、怜奈はけっこういいやつだった。

怜奈はあたしの作るパンやお菓子が大好きで、ゼミで仲良くなったのも、あたしがランチタイムに手作りスィーツやサンドイッチを持っていったからだ。

「夏輝のケーキが世界一だと思う」とか、
「夏輝がパン屋を開くなら、あたしのパパに言って出資させる」なんてことまで言う。
冗談だろうと思いつつ、そこまで言われるとさすがに悪い気はしない。

OLになってからも、ランチタイムにうちの店にデリバリーを時々頼んでくれる。

一度だけ、デリバリーの男の子が急に休んで、あたしが届けに行ったことがある。

青山にある、とんでもなく巨大な本社ビル。業者が入ることが許されないので、通用口で怜奈を待つ。
そのあいだに次々に出てくる女の子たちの華やかなことといったら。
自分と同じ生物だと思えずに、なんていうか、あたしはため息をつくしかなかった。

「あれ~? 夏輝、わざわざ来てくれたんだ?」
怜奈のうれしそうな、でもちょっとだけ誇らしそうな表情。
あたしは複雑な気分だった。

怜奈はすごくいいやつだけど、会社がらみの合コンにあたしを誘ってくれたことはない。

わかってる。

そんなとこにあたしが出てったら、ひとりだけ全然つりあわないはずだもん。
「そのうち声かけるよ」と怜奈は言ってくれてるけど、その気配はない。

そのくせ「きのうの合コンでまた3人からお申し込みいただいちゃいました☆」なんて自慢げなメールがしょっちゅう送られてくる。
お嬢さまの天然というのか、悪気がまったくないだけに、憎みようがない。

怜奈とあたしの微妙な距離は、少しずつ少しずつ、広がっていくような気がする。


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#2 初心者な成田

あたしの手には、A4の紙が1枚、ぺろっと握られている。
怜奈が手配してくれたeチケットってやつだ。

それは、どこからどう見ても紙にしか見えない(ってか、怜奈がメールに添付してくれたのを自分のプリンターで印刷したんだから、紙以外のなにものでもない)。

この紙が、あたしをニューヨークまで連れて行ってくれるんだ。

あたしはベッドに寝転がって、透視でもするみたいに、じぃっと紙をみつめる。

生まれて初めてのニューヨーク。
生まれて初めてのアメリカ。
生まれて初めての海外旅行。

たった一度きりの旅行が、その後のあたしの人生をすっかり変えてしまうなんて。

このとき、どうして予想できただろうか。




初めての成田空港で、あたしはすでに右も左もわからない完全なイナカモノ状態になっていた(東京から来たにもかかわらず)。

去年まで大学の英文科のゼミが一緒だった怜奈は、まったく臆することなくチェックインする。

「鈴川怜奈様ですね。いつもご搭乗ありがとうございます。シートのご希望はございますか?」

怜奈はかなりのお嬢さまで、家族で海外旅行のときはいつもビジネスクラスで行くとか。今回はあたしの予算に合わせて、エコノミーにしてくれたわけだが、常連のプレミアムクラブとかなんとかで、チェックインカウンターでの扱いが違う。

「私は通路側で。夏輝はどうする?」
「え?あ、あたしは(空が見えるから)窓側がいいっ!」

怜奈は、わかってないなあ、という感じであたしをちらりと見る。

「彼女の席も、私の席と通路を挟んで通路側にしていただけますか?」
「かしこまりました」
カウンターの担当者がカチャカチャとキーボードを叩く。
「え~っ外が見えないじゃん!」とあたしが騒ぐと、「ったく、子供じゃないんだからね」と、怜奈があきれ気味に言う。
「何時間飛ぶと思ってんの? ニューヨークまでほぼ14時間もあるんだよ。トイレに行くとき窓際だと通路に出にくいし、空港についてからだってなかなか出られないんだから。上に入れた荷物も取りにくいし」

はあ、そういうものなのか。

引率の先生に諭された小学生の気分になったが、落ち込んでる場合じゃない。

「ねえねえ怜奈、現金持ってると危ないから、トラベラーズチェック用意したんだよ。それって高得点?」
300ドル分のTCを出して自慢げに見せたが、笑われてしまった。
「いまどきTC使ってる人なんてみたことないよ。クレジットカードがあるじゃん。NYではそのへんのデリでもカードが使えるし」

そ、そういうものなのか。

いやいや、まだ挽回の余地アリ。

「でね、怜奈。日本食恋しくなるかなって思って、梅干とか都こんぶとか、あと『フリーズドライおにぎり』なんてのまで持ってきたんだよ。高得点?」
怜奈の笑いが、どことなく嘲笑っぽく変わった。
「どんなド田舎に行くつもりになってんの? NYは世界の中心だよ。寿司屋もラーメン屋もあるよ。スーパーで豆腐も売ってるし」

そ、そうか。そういうものなのか・・・・・・

ニューヨーク大学のサマースクールにも行っていた怜奈の言うことは、いちいちリアルだった。

こんなとこにも格差が出ちゃうんだよなあ。

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#1 いつか、あの場所に

この世界に、あの場所がある。

どんなに遠く離れていても、なかなか行くことができなくても、あの場所があるから、いつか行こうと決めてるから、今日もがんばろう、って思う。

そういう場所って、誰にもあるんじゃないだろうか。

たとえばそれは、ふるさとの町だったり。
あるいは、大好きな人が住むまちかどだったり。

もしかすると、いつもほっとくつろぐ小さなカフェだったり。
お気に入りの本がみつかる古本屋だったり。

学生時代を過ごした、なつかしい通りだったり。

誰にでもひとつ、そんな場所があるんじゃないだろうか。

あたしの場合、それはかなり遠くにある。

ちょっとやそっとじゃ届かないくらいの距離。

明日行きたいな、と思っても、ぜんぜん行けないくらい、はるか彼方。

距離だけじゃない。
行こうと思ったら、準備もお金も、それなりの覚悟だって必要になる。
そのくらい、あたしのとっておきの場所は、遠くの遠くにある。

だけど、いつもあたしは思う。

この世界に、あの場所があってよかった。
あの場所がある、この世界に生きててよかった。

そんなふうに思って、今日もいちにちがんばろう、って気持ちになる。

いつかきっと、あの場所へ行けるように。

あの場所の近くに住んで、毎日、何気なく通えるように。
コットンのシャツと色あせたジーンズ、髪をゆるく束ねて、ヨガマットとお気に入りの本を抱えて出かけていけるように。

通りの角のコーヒースタンドで、いれたてのコーヒーを一杯、テイクアウトして。
陽気なベーグル売りのおじさんから、とびきりおいしいシナモンベーグルをひとつ、買って。

緑色の木漏れ日に染まって、青空にそびえたつ摩天楼を大きく見上げて。
胸いっぱいに、深呼吸する。

ああ、私はいま、この瞬間をこの街で生きているんだ。

そう感じたい。
いつか、ブライアントパークで。



ええっと、着替えでしょ、ガイドブックでしょ、パスポートでしょ。
シャンプー、リンス、シャワージェルに、パスポート。
ノート、ペン、梅干、黒あめ、パスポート。

「よしっ。これだけ何回も確認すれば大丈夫だよね?」
ひとり暮らしのアパートで、独り言がつい話しかけ口調になってしまう。
スーツケースを何度も開けたり閉めたりして、ひとり持ち物検査に余念のないあたし。

「なに忘れてもいいけど、パスポートだけは忘れちゃだめだよ」
23歳にして海外旅行歴20年の怜奈に、念を押される。

だから、パスポートの確認は20回以上した。
これでカンペキなはず。

最後の確認、怜奈にメールする。

『準備OK(^^)v でもほんとにこの紙切れ1枚でニューヨークに行けるの?まだ信じられないんだけど・・・』

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