ココログ小説

目次

「いつかブライアント・パークで」

この世界に、あの場所がある。

どんなに遠く離れていても、なかなか行くことができなくても、あの場所があるから、いつか行こうと決めてるから、今日もがんばろう、って思う。

そういう場所って、誰にもあるんじゃないだろうか。

たとえばそれは、ふるさとの町だったり。
あるいは、大好きな人が住むまちかどだったり。

#1 いつか、あの場所に
#2 初心者な成田
#3 かなり上、わりと下
#4 誘われちゃったけど?!
#5 マンハッタンのオキテ
#6 夢みたいに恋みたいに
#7 NYディナーのしきたり?
#8 NYデリ・デビュー!
#9 ベーグル、じゃない?
#10 運命の場所
#11 世界一のベーグル?
#12 55 MATSUI
#13 何者?
#14 YES-I-DO!
#15 オイスター・バーで
#16 だいっきらいNY!
#17 出会ってしまった・・・
#18 Nice to meet you.
#19 ふたつの場所
#20 ハニー、ハニー、ハニー
#21 あそこじゃない、ここ
#22 公園の恋バナ
#23 信じられない!
#24 来る、来ない?
#25 MATSUIふたたび!
#26 再会
#27 知ってたの?!
#28 ふたりの関係
#29 ふたりの秘密
#30 ひだまり
#31 勝負?!
#32 甘メンズ
#33 デザートビジネス
#34 作品?
#35 ハートなスイーツ
#36 今度こそ、会おう
#37 気が、あります。
#38 企て
#39 ビッグ・ニュース
#40 プロポーズ?
#41 帰省
#42 告白
#43 長いメール
#44 電話
#45 サイコー!
#46 戦略結婚
#47 旅立ち
#48 帰ってきた!
#49 会社訪問
#50 約束
#51 いない?!
#52 ごめん
#53 決意
#54 再会
#55 そうだったんだ・・・・・・
#56 松井のアパート
#57 カルメンのこと
#58 ふたりの出会い
#59 攻防戦
#60 魅惑のパン
#61 水戸一、買った
#62 伝えたい!
#63 始まり
#64 朝の地下鉄
#65 サムのベーグル
#66 メール
#67 試作品
#68 涙の理由
#69 好きだった、よね?
#70 密談
#71 ワルいやつ
#72 泣いた。
#73 完成!
#74 デビュー
#75 二重マル
#76 この気持ち
#77 トウキョウ
#78 かっこよかった!
#79 東京で?
#80 拍手
#81 きっと、いつか

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目次

「いつかブライアント・パークで」

この世界に、あの場所がある。

どんなに遠く離れていても、なかなか行くことができなくても、あの場所があるから、いつか行こうと決めてるから、今日もがんばろう、って思う。

そういう場所って、誰にもあるんじゃないだろうか。

たとえばそれは、ふるさとの町だったり。
あるいは、大好きな人が住むまちかどだったり。

#1 いつか、あの場所に
#2 初心者な成田
#3 かなり上、わりと下
#4 誘われちゃったけど?!
#5 マンハッタンのオキテ
#6 夢みたいに恋みたいに
#7 NYディナーのしきたり?
#8 NYデリ・デビュー!
#9 ベーグル、じゃない?
#10 運命の場所
#11 世界一のベーグル?
#12 55 MATSUI
#13 何者?
#14 YES-I-DO!
#15 オイスター・バーで
#16 だいっきらいNY!
#17 出会ってしまった・・・
#18 Nice to meet you.
#19 ふたつの場所
#20 ハニー、ハニー、ハニー
#21 あそこじゃない、ここ
#22 公園の恋バナ
#23 信じられない!
#24 来る、来ない?
#25 MATSUIふたたび!
#26 再会
#27 知ってたの?!
#28 ふたりの関係
#29 ふたりの秘密
#30 ひだまり
#31 勝負?!
#32 甘メンズ
#33 デザートビジネス
#34 作品?
#35 ハートなスイーツ
#36 今度こそ、会おう
#37 気が、あります。
#38 企て
#39 ビッグ・ニュース
#40 プロポーズ?
#41 帰省
#42 告白
#43 長いメール
#44 電話
#45 サイコー!
#46 戦略結婚
#47 旅立ち
#48 帰ってきた!
#49 会社訪問
#50 約束
#51 いない?!
#52 ごめん
#53 決意
#54 再会
#55 そうだったんだ・・・・・・
#56 松井のアパート
#57 カルメンのこと
#58 ふたりの出会い
#59 攻防戦
#60 魅惑のパン
#61 水戸一、買った
#62 伝えたい!
#63 始まり
#64 朝の地下鉄
#65 サムのベーグル
#66 メール
#67 試作品
#68 涙の理由
#69 好きだった、よね?
#70 密談
#71 ワルいやつ
#72 泣いた。
#73 完成!
#74 デビュー
#75 二重マル
#76 この気持ち
#77 トウキョウ
#78 かっこよかった!
#79 東京で?
#80 拍手
#81 きっと、いつか

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#81 きっと、いつか

黒くて異様に長いストレッチ・リムジンが、JFK国際空港に到着した。

「いやあ、こんなセレブな車、生まれて初めて乗ったけど、なかなかいいもんだなあ。気分はマイケル・ジャクソンだ」

上機嫌でサムが車から出てくる。もちろん、あたしだって生まれて初めてだ。さしずめ気分はパリス・ヒルトンってとこかな。

「『凱旋』して帰ってきたときは、ご希望とあればもっとすごいクルマを手配するよ」

サムに続いて出てきたアンドリューが、楽しそうに言う。まったく、馬車でも用意しかねないなこの人は・・・・・・

「私もこっちの仕事が片付いたら、日本へすぐ飛ぶから。あ、レナからもメールが来てたな。君たちの迎えの車、成田に着けとくって・・・・・・日本での会議のアレンジメントも全部彼女がやってくれて、助かるよ」
アンドリューは、やっぱり新しい冒険でも始まるみたいな口調で、わくわくと言った。

そうなのだ。日本で、怜奈があたしたちを待っている。
あたしたちの新しいプロジェクトを支えるべく。

アンドリューの会社は、今年初めに怜奈のお父さんの会社を破格の好条件で買収し、去年買収したF社と合併させた。
それによって、新しいスーパーの形態―飲食テナントが充実した新型スーパーマーケット―を実現させようとしていた。
その新会社に、なんと怜奈がプロジェクトリーダーとして採用されたのだ。もちろん、アンドリューの采配で。
そしてなんとなんと、私の父までが、引き抜かれたのだった。ベーカリー部門商品開発マネージャーとして。

さすが王子。その後光は関係者の子々孫々(ってか親だけど)まで及ぶという・・・・・・

サムとあたしは・・・・・・というと、特にその新会社と何かをする、ってわけじゃない。

もちろん、アンドリューは「資金の協力をする」「東京に店舗を出す場所を確保する」などなど、色々に言ってくれた。
だけど、あたしとサムは、「じゃあ、いずれ将来的に」と約束をして、まずは自分たちで始めてみることにした。

そう―あたしたちの「◎」が、東京でどのくらい通用するのか、まずは自分たちで試してみたいのだ。

ブライアント・パークでの売り上げ貯金で、あたしたちは小さなワゴン車を買って、そこにオーブンを備え付けて、移動式ショップを始めてみることにした。
車や場所のリサーチは、すでに怜奈とややちゃんが開始してくれている(ややちゃんは、デイリー・ベーグルを辞めてそっち手伝うから!と言ってくれている)。
そして、まずは代官山の西郷山公園の横あたりから、始めてみたいと思っている。

あたしたちの、新しい挑戦。

ニューヨークと、ここで出会ったたくさんの人たちとしばらく別れるのは、とても寂しい。
でも、きっとまた帰ってくる。そのときは、アンドリューが言う通り「凱旋」だ。

出発ロビーで、あたしはきょろきょろ頭を巡らせた。そして、人混みの中、必死に目を泳がせた。

あたしが探していたのは、背番号55。

来てくれないの?
松井秀喜。

きのう、ブライアント・パークで別れ際に「今夜は徹夜で仕事になるかも」と言っていた。あたしは最後に、いっぱいいっぱい、話がしたかった。
そしてもしも、一瞬でも勇気が湧いたなら、その瞬間を逃さず、告げよう、と心に決めていた。

好き、とひと言。

一晩中、どきどきして待った。けれど、何時になっても、朝になっても、結局松井は帰ってこなかった。

あたしは、ちょっとだけ神様を恨んだ。
こんなにまじにどきどきして待ってたのに。ひどいよ神様、って。
でも、すぐに思い返した。

いや、違う。これは、また帰ってこい、っていう神様のはからいなんだ。
もう一度、この懐かしい街に帰ってこれたら。
それが、そのときなんだ。

「あれ。あそこにいるの、ヒデキじゃない?」

レベッカが、人混みの向こうを指差した。あたしは夢から覚めたみたいに、レベッカのブロンズのネイルが指す先を見た。

いた。あいつだ。

松井がベーグルスタンドに立って、ベーグルをかじっている。あたしたちをみつけて、軽く手を挙げて合図している。
サムとアンドリューは、一緒に笑い出した。

「ったく。この期に及んでベーグル食べてるのか、お前は」

アンドリューがさもおかしそうに言う。

松井は食べかけのシナモンベーグルを一気食いして、「これ、なかなかうまいぞ」と言った。

いつも通りだ。まったく、いつも通りの松井。
ひょうひょうとして、ちょっととぼけて、楽しげな、背番号55。

「来て、くれたんだ・・・・・・」
あたしはようやく、そう言った。
嬉しかった。涙が出るほど。

松井はあたしをじっと見ていたが、茶色い紙袋をあたしに向かって、ほら、と差し出した。

「飛行機の中で食えよ」

あたしは黙って、紙袋を受け取った。
ほんのりと、あったかい。あたしはそれを、胸にぎゅっと抱いた。

「ありがとう」

そうつぶやくのが、せいいっぱいだった。

松井は、ふっと笑顔になった。
口もとに、パンくずがついている。あたしは、ぷっと噴き出した。

「なんだよ。人の顔みて何笑ってんだよ」

なぜだかあたしは、笑いが止まらなくなった。笑いすぎて、泣き出しそうだった。

ほんと、キマんないやつ。
最後まで、デリカシーのないやつ。
どこまでも、あったかくて、大きいやつ。

やっぱり、あたしは、この人が・・・・・・

・・・・・・・大好きだ。世界で、いちばん。

もうどれくらい、飛んだだろうか。

照明を消したキャビン、あたしの隣で、サムはすやすやと眠っている。大きな体を狭いシートに突っ込むようにして、だけど不思議なくらい平穏な寝顔で。

初めてニューヨークへ行ったときのことを、あたしはふいに思い出す。
確かあのとき、あたしはすっかり興奮して、ちっとも眠れなかったんだ。

そうして着いたニューヨークで、あたしはブライアント・パークにたどりついた。
そして、出会ったんだ。
サムに、アンドリューに・・・・・・松井に。

こっそり、茶色の紙袋を取り出す。がさごそ、開けてみる。
プレーンベーグルが、ひとつ、入っていた。取り出してみる。

半分にスライスされたベーグル。真ん中に、紙ナプキンが挟まっている。

あれ・・・・・・?

ナプキンには「◎」が印刷されている。その横に、走り書きがある。

ちゃんと帰ってこい
ブライアント・パークに、
じゃなくて

おれのところに。


ほんのり、バターの香りがあたしを包む。
こぼれそうになった涙を、あたしはあわてて飲み込んだ。

東京に着いたら、すぐに電話をしよう。

あのね松井。言いそびれたひと言が、あるんだ。

だからそれを告げるために、あたし帰るから。
そのひと言を、あなたにきっと告げるから。

それが、そんなに遠くない未来でありますように。

きっと、いつか・・・・・・ブライアント・パークで。


◎END◎

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#80 拍手

春がきた。

冷たく凍えるマンハッタンの寒風を耐え抜いたブライアント・パークの木々が、いっせいに芽吹く。
ニューヨークのおしゃれな女の子たちが、いっせいにコートを脱ぎ捨ててさっそうと歩く。
公園の陽だまりで、学生たちが本を広げる。
春がきた!と街中が、声に出して喜んでいるような、春のいちばん初めの日。

「サムとナツキのベーグル 本日よりしばらく休業」

そう書いたバナーをディスプレイボックスに下げて、サムとあたしは、いつもどおりブライアント・パークの片隅に立った。

あたしたちの前に、ものすごい行列ができている。
列は42丁目のストリートから1ブロック先まで続いている。レベッカがカウンターで数えて、開店直前に知らせに来てくれた。

その数、500人。

あたしとサムは顔を見合わせて笑った。ぴったり、500個の「トウキョウ」を作って持ってきてあった。

「来てくださって、ありがとうございます」

あたしは、朝5時から並んで待っていた、という、一番乗りの学生の男の子に「トウキョウ」を手渡して、ぺこりと頭を下げた。彼もぺこりと頭を下げて、「アリガト、トウキョウ」と日本語で返してくれた。

「これで終わりじゃないのよね?」
何番目かに「トウキョウ」を手渡した女の人が、名残惜しそうに尋ねた。サムがにっこり笑って答える。
「まさか。ちょっとのあいだ、臨時休業ですよ。そう遠くないうちに、必ず再開します」
「きっとよ」と、彼女が念を押す。

「戻ってきてくれよ。おれたち、待ってるから」
その後ろに並んでいた何人かが、口々にそう言った。
サムとあたしは、大きくうなずいた。

あたしたちはひとりひとりに「トウキョウ」を渡して、「Thank you 」「アリガトウ」とお礼を言った。

あたしは、もう、胸がとてつもなくいっぱいになった。

あたしの、新しい旅立ち。

あたしは、明日、日本に帰るのだ。
そう、ひとりじゃなく―サムと一緒に。

きっかけは、サムのつぶやきだった。

「ナツキ。私の夢を、聞いてくれるかい?」

冬の初めのある日、ブライアント・パークからの帰り道、サムは突然、あたしに打ち明けた。
なんと、日本に行きたい、と。

私の両親に会いたい。日本のパンの作り方を教わりたい。
そしてできることなら、「トウキョウ」を東京で売ってみたい。
それがいまの自分の夢だ、とサムは話してくれた。

あたしは当然、困惑した。
だって、あたしのお父さんがサムにパン作りを教えるなんて、なんだかとんでもないじゃないか。それに、日本の公園ではベーグルなんか売れないだろうし・・・・・・

「わかってるさ。けど、いまは夢でも、いつかきっとかなえたいんだよ」

サムの目はきらきらと輝いて、未来を信じてやまない少年そのものだった。
その目をみつけたとき、あたしのなかで、ことん、と何かが動いた。

おんなじだ。あたしと、おんなじ。

いつかニューヨークで、ブライアント・パークで・・・・・・って憧れてた、あの頃のあたしと。

誰がなんて言ったって、絶対に実現する! って、あたしはがむしゃらに飛んできてしまったんだ、ここまで―サムのところまで。

いま、あたしの目標だった人が、あの頃のあたしとおんなじまなざしで、日本を目指している。

サムの思い。それは、きっと・・・・・・

あたしの思いでもあるんだ。

あたしは、松井とアンドリューに相談した。
ふたりは黙って聞いていたが、あたしが一通り話し終わると、ふたりで顔を見合わせて微笑んだ。
「待ってました!」と、すぐに松井が言った。
「ようやく、キター!って感じ?」と、アンドリューも言った。
実は、ふたりとも、「サムとナツキのベーグル」は、日本に「里帰り」するべきだ、と最初から考えていたと言う。

アンドリューは「グローバルな展開の最初の一歩は東京だと思っていた」し、松井は「水戸一がなけりゃ始まらなかったわけだからな、『トウキョウ』も、あんたも」なんて言う。

そして、口を揃えて宣言した。

「なるべく早く、実現しよう。おれたちの夢」

あたしはあっけにとられてしまった。

いつのまにか、「サムの夢」じゃなくて、「おれたちの夢」にすり替わっている。

そして、まるで新しい冒険が始まるみたいに、ふたりとも、わくわくしている。

あたしはすっかりあきれてしまった。
そして、とても嬉しく、頼もしく思ってしまった。

「トウキョウ」の里帰り。

それは、あたしたち全員の、新しい目標になった。

最後のひとりに、最後の「トウキョウ」をひとつ、渡し終わったとき。

パチパチパチ、と拍手が起こった。
あたしは顔を上げて、回りを見回した。

公園にいた人たちが、あたしたちを囲んで、あたたかく手を鳴らしてくれていた。
ビジネスマン、清掃のおじさん、ベビーシッター、学生たち、そして―

いつのまにか、アンドリューがいた。レベッカと一緒に、笑顔で拍手してくれている。

その隣に、松井も立っている。すごくいい笑顔で、やっぱりあたたかく、拍手してくれている

あたしは・・・・・・あたしは、涙がいっぱいにこみ上げた。
今回ばかりは、がまんできなかった。ぽろぽろと涙がこぼれて、あたしは思わず両手で顔をおおってしまった。

ありがとう、サム。あたしの師匠。
ありがとう、アンドリュー。あたしの友だち。

ありがとう、松井。
あたしの・・・・・・大好きな、ひと。

ありがとう、ほんとに、ありがとう。
あたしのニューヨーク。

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#79 東京で?

それからの数ヶ月。

ゆっくりと、着実に、あたしたちの世界最小のベーグルショップ「サムとナツキのベーグル」は、ブライアント・パークに、そしてニューヨーカーたちの間に浸透していった。

それは、とてもすてきな広がり方だった。
最初のうちはアンドリューが「CNNにCMを打つ」とか、「Goo●leに協力してもらって全米のブロガーを買収する」とか、冗談とも本気ともつかないことを言って騒いでいた。
でも、そんなやり方は、あたしたちらしくない。

ほんとうに「おいしい」と感じ入ってくれた人が、またもう一度、買いにきてくれるのがいい。
心から「好きだ」と思ってくれた人が、それを誰かに伝えてくれればいい。
そんなふうに、この街に暮らす人の印象に優しく残って、心にそっととどまるのがいい。

そんなふうに、広がってくれれば。

「そんな悠長なこと言ってたら、世界に広がっていかないだろ」
と、アンドリューは、国取り合戦の気分が抜けきれないようだ。

王子の心配をよそに、あたしたちのベーグルの噂は、どんどんマンハッタンに広がっていった。

「驚いた。今朝、私が出勤するときに、もうベーグル待ちの行列ができてたわよ」
レベッカが電話で報告してくる。
オーブンにどんどんベーグルを滑り込ませながら、サムとあたしは思わず手と手をぱちん、と合わせる。

「さあどんどん焼くぞ。今日は『トウキョウ』100個に挑戦だ!」
「了解です師匠!」

あたしはその夏、本気で日焼けした。正確には、オーブン焼けと公園焼けの混合焼けで、真っ黒になってしまった。
日焼け止めなんか、汗ですぐ落ちる。おしゃれなんか、当然してられない。結構、女子としては代官山時代以上になさけない。

こんなあたしは、いったい、松井の目にはどんなふうに映っているんだろう。

松井とあたしの関係は、ベーグルショップをオープンしてからも、何一つ変わらない。

あいかわらず、朝6時起きであたしに付き添って、ブロンクスのサムのアパートまで通っている。

地下鉄のシートに腰掛けて、「ニューヨークタイムズ」で大リーグ情報を読んで、勝った負けたと騒いでいる。

あたしの作った「トウキョウ」を、毎朝いちばんに、二個予約する。ジーンズのポケットから、皺くちゃの5ドル札を出して、あたしに渡す。
「いいよいいよ」
と言って、受け取らないものなら、まじに怒り出す。
「そういうのは、だめだ。これはこれ、それはそれ」
そんなふうに言って、あたしの手にお札を握らせる。
おかげで毎朝、ほんの一瞬触れ合う手と手に、あたしはどぎまぎするはめになる。

こんな感じが、いいな。

あいつと、あたし。
ドラマチックな進展がなくたって、「好きだ」って抱きしめられなくたって。

こんなふうに、ちょっとだけ気持ちのいい距離感があって。
言葉にはできなくても、心だけ寄り添わせる。
そんなのが、いい。

だけど、もしも。

松井に好きな女の子ができたら、あたしはそれをすんなり受け止められるかな。

それはちょっと・・・・・・いや、かなり・・・・・・ううん、ぜったい、いやだッ!!

ブライアント・パークの木々が黄金色に輝き始める季節。
あたしたちのベーグルショップは、マンハッタンの人たちにあたたかく受け入れられ、定着した。

常連さんも増えた。
同僚の分まで買出しにくるビジネスマン、新しいベーグルのアイデアあれこれ持ちかけるマーサ・スチュアートみたいな主婦、毎週カントリーソングを近くで奏でる学生。
そして、けっこう増えた「トウキョウマニア」な人たち。

「ヤキソバベーグルがすっごい好評なんだ。東京で売り出しても、いけるかも」

週に一回、父に電話をするとき、あたしはいつも「トウキョウ」の話を持ち出した。

「ニューヨークで売ってる『トウキョウ』ねえ。おもしろいもんだな」

父は楽しそうに応える。製パン工場での仕事にも慣れて、それなりに充実して働いているみたいだ。

「お父さんの工場でも、作ってみたら?」
そう持ちかけると、
「いや、おれは商品開発に口を出せる立場じゃないし。それに、そんなにヒットしてるんなら、いつかこっちに持って帰れよ。お前自身で」
そんなふうに言う。

東京で、トウキョウかあ。

あたしはなんだか、夢みてる気分になる。

いつか、ブライアント・パークで、世界一のベーグルを売る。
そう思い続けて、サムの努力と仲間の協力もあって、とうとう実現した。

いつか、東京で、自分が作ったベーグルを売る日がくるのかな。

そんなふうに思って、ちょっと愉快になった。

それが現実になるなんて、そんなにたやすく想像はしなかったんだけど。

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#78 かっこよかった!

衛生局?

あたしはサムを見た。
サムはこわばった笑顔を作って、「ええ、私がサム・ジョーンズですが」と、緊張気味に答えた。

「ここでの飲食物の販売には許可がいる。確か、君は以前、不衛生なものを売って消費者が被害を受けたと報告を受けているが?」

「それは・・・・・・」と、サムは言いよどんだ。

「許可証はこの通りです」

松井がサムのバッグから書類を取り出して、いきなり男の前に突き出した。

「営業も今日から開始すると届け、認可を得ています。それから、さっきあなたが言った『不衛生なものを売って消費者が被害を受けた』という話。なんの根拠もない。取り消してください」

男たちは鋭い目で松井をにらんだ。
「君は、誰だね? 共同経営者か?」

「パートナーです」

松井ははっきり言って、あたしの肩をぐいっと抱き寄せた。
思わず、どきっとする。

「サムも、彼女も、おれの大切なパートナーです。何か言いたいことがあるならば、連帯責任者であるおれに言ってください」

うわ・・・・・・ちょ、ちょっと待って。

な、なんか松井ものすごく、かっこよくないか?!

「それを言うなら、私もパートナーです」

きらりん☆と目を光らせて、アンドリューがずいっと前に出てきた。

ってさっき「いまから会議だから、じゃあね~」って帰ったはずなのに、まだいたの?!

「あなたがたは誰の差し金で来たんですか?ニューヨーク市衛生局長のエド・ホックマン? 保険局長のリー・ジョンソン? それとも市長のマイケル・ブルームバーグかな? 先週食事したとき、そんなこと言ってなかったけどなあマイケル・・・・・・」

男ふたりが神妙な顔になるのを見て、アンドリューは、IDを差し出しながら続けた。

「失礼、申し遅れました。私はアンドリュー・オールダム。大手ファンド企業A社の副社長です。最近買収したのはネット検索大手のY社、アパレルのG社、ソフトウェアのN社など・・・・・・市長のマイケルとは『マイルーム』メイトです。あ、そのうちニューヨーク市も買収しようと思っています」

自信たっぷりの王子の発言に、男たちの顔色が変わった。

アンドリューは携帯を取り出すと、
「なんなら、いまからあなたたちのボスに電話しましょうか? 私たちの営業に何か不満でもあるのか、って。えーと、エドの番号は・・・・・・」

「い、いやいやいや! ちょ、ちょっと待ってくださいっ!!」

男たちが携帯を持つアンドリューの手をあわてて押さえた。

アンドリューは涼しい顔で、ぱちんとフラップを閉じた。
「じゃ、文句はないってことですね?」

男ふたりは、黙りこくっている。

あたしは、あっと思い出して、自分のトートバッグの中から、「トウキョウ」をふたつ、取り出した。
それをひとつずつ、彼らに渡して言った。

「サムと私が、心をこめて作りました。ニューヨークでしか食べられない、『トウキョウ』です」

ふたりは顔を見合わせていた。
が、ひとりが先に、ぱくりと食いついた。

もぐもぐもぐ。

「・・・・・・うまい」

そのひと言を聞いて、もうひとりも、ぱくり。もぐもぐもぐ。

「ほんとだ。うまいぞ、これ」
「なんだこの味。食べたことがないな。フライド・ヌードルが入ってるのか?」
「おもしろいな。・・・・・・おお、これはすごい」

うまい、うまい。

ふたりは何度もそう言いながら、ぱくぱく、もぐもぐ、あたしたちの「トウキョウ」を食べた。

ほんとは、完売したらサムと松井に食べてもらおう。そう思って、ふたつだけ取っておいたんだけど。

おいしい。

ニューヨーカーにそう言ってもらうために、あたしは「トウキョウ」を作ったんだ。
だから・・・・・・

衛生局のふたりは、食べ終わってすっかり笑顔になった。
そして、あたしたち全員と握手して、翌日の「トウキョウ」を4個、特別に予約までして帰っていった。

「助かったよ。ありがとう、ヒデキ、アンドリュー、ナツキ」

サムは満面の笑みで、あたしたちの肩を叩いた。

「おい。かっこよかったぜ、王子様」
松井がアンドリューにそう言うと、
「当然だろ。でも、ま。お前もかっこよかったよ、ヒデキ」
嬉しそうに、そう返した。

「でもいちばんかっこよかったのは・・・・・・」松井が言うと、三人とも、同時にあたしを指差した。

「サイコーだったよ、ハニー」
「いかしてたぜ、新・ベーグルマスター」
「なかなかやるね、お嬢さん」

みんなに肩を叩かれたりハグされたりして、あたしはすっかり照れてしまった。

誰かを、みんなをハッピーにできるベーグル。

とうとう、完成したんだ。
あたしは、もう、胸がいっぱいだった。

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#77 トウキョウ

さあ、準備完了。

◎のマークのついたボックスを首から提げたサムとあたしは、並んで立った。
目の前に、松井とレベッカがいる。でもって、松井はビデオカメラをこっちに向けている(頼むからやめてほしい・・・・・・)。

「Are you ready, Natsuki?」
サムが横から声をかける。あたしはサムを見上げて、大きくうなずいた。

「Sure! I’m ready!」

せえの。

「サムとナツキのベーグル、本日開店!」

あたしたちふたりは、声を合わせて高らかに宣言した。

公園内の小道を歩いていたビジネスマンが、芝生の上に寝転がっていた学生が、こっちを振り向いた。
「あっ、こっち見てくれた」
あたしがウキウキすると、
「まだまだ。もう一丁、いくぞ」
サムはそう言って、あのじんとしびれるような、ブルースを歌う調子で叫んだ。

「新作ベーグル『トウキョウ』発売! 世界にただひとつ、ここブライアント・パークにしかないベーグルだよ!」

ヤキソバベーグル「トウキョウ」の名付け親は、松井(ほんとは最初『ミト』にするって、やつは言い張ってたんだけど・・・・・・)。
そして「One & Only @Bryant Park(ただひとつ、ブライアントパークだけで)」というキャッチコピーも一緒に考えてくれた。

世界に、たったひとつ。ここニューヨーク、ブライアントパークだけで・・・・・・
なぜか、「トウキョウ」という名の、ヤキソバをはさんだベーグル。
意味がわからん・・・・・・

「おもしろいね。それ、ひとつください」

と、最初にやってきたのは、なんとアンドリューだった。
あたしたちは顔を見合わせて、こっそり笑いをかみ殺した。

「おおっ、なんだこれは?! フライド・ヌードルがはさんである・・・・・・めずらしいな。どれどれ・・・・・・うわっ。うまっ! うまいよ、これ?!」
とまあ流暢な英語で(当たり前だけど)、しゃあしゃあと・・・・・・

王子の迫真の演技につられて、ひとり、ふたり、足を止める人たち。

「『トウキョウ』? クールな名前だね。それひとつ。あとプレーンも」
「私も『トウキョウ』。同僚に買ってってあげるから、みっつね」
「僕も『トウキョウ』1個と、ブルーベリー1個。クリームチーズも」

 発売開始20分後。

 あたしたちの前に、あっというまに驚くほどの行列ができた。
 サムとあたしは、んもう本気全開で、売って売って売りまくった。
サムが計算して、あたしが袋に詰める。ディスプレイボックスがまたたくまに空になる。それを松井が補充、気がつくと、アンドリューとレベッカまでが、一緒になってベーグルを取り出して並べている。

「ランチタイムはスピードが勝負だからね」と、アンドリューは仕立てのいいシャツの袖を捲り上げて、白い歯をきらめかせて笑っている。
うっ、やっぱまぶしいです王子様。

 発売開始1時間後。

「やったぞ、ナツキ。完売だ」

サムの声がした。

見ると、補充用ボックスはすっかり空っぽになっている。
あたしは、きゃあっ、と飛び上がってサムに抱きついた。

「すごいぞ、ナツキ。『トウキョウ』は、10分で売り切れてたじゃないか」
サムは、信じられない、というように首を振っている。もちろん、あたしにだって信じられなかった。

抱き合って喜び合うあたしたちを、松井が「すげえな、まじで。やるじゃん」と面白そうにあたしたちをビデオに写している。
もう、ほんとやめてってば~・・・・・・

と、きちんとスーツを着たビジネスマンらしきふたりの男が、足早に近づいてきた。

「失礼。ベーグル・サム・・・・・・サム・ジョーンズだね?」

名前を呼ばれて、サムに緊張が走るのがわかった。
男のひとりは、ジャケットの内ポケットからIDを出して見せながら、言った。

「ニューヨーク市衛生局の者だが」

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#76 この気持ち

夏の日差しにきらめく緑の木々。
ランチまえの、少しだけ静かな時間。芝生には、子供連れのベビーシッターや学生たちが、いつもどおり思い思いにくつろいでいる。

ブライアント・パークはニューヨーク市が管轄している公園で、許可なくして物売りはできない。サムは、苦労して許可を取ったのに、たった一度のクレームで営業停止を余儀なくされた。今回、アンドリューや松井が奔走してくれて、ようやく営業再開の許可を得たのだ。

ニューヨークはすべての人々に寛大だけれど、同時に厳しい。それが現実なのだ。

「だけど、負けずに再チャレンジする人を、応援する。それが本当の、ニューヨークなんだ」

ゆうべ、緊張のあまりなかなか寝つけずにキッチンでうろうろしていたあたしに、松井がそんな話をしてくれた。

「サムは黒人だし別に金持ちでもない。正直、ハンディキャップはある。でもそれを乗り越えて何かやろうとする人に、アメリカ人はエールを送るんだよ。アメリカ人ってのは、大ざっぱで調子のいいとこもあるけど、前向きで一生懸命なやつをとにかく応援するんだ」

だからおれはこの国が好きなんだ、と松井は言っていた。

その言葉に、あたしがどれだけ励まされたか。

確かにサムにはハンディキャップがある。でも、あたしのほうがもっとある。

日本人のコムスメ。金なし、コネなし、男なし。って考えただけで情けなくなる。

だけど、前向きで、一生懸命っていうのは、誰にも負けない。だって、それしかないんだし。

松井は、あたしに言わなかった。大丈夫だよ、とも、がんばれよ、とも。

そのかわり、ひと言だけ、言ってくれた。

「やってみろよ」

あたしは大きくうなずいて、答えた。

「うん。やってみる!」


そんなゆうべの会話を心の中で反芻する。

あたしの少し前を、ゴロゴロとカートを引っぱって歩く、松井の背中。

あたしはこの人と、ここで出会った。

それからずっと、どうしてだかわからないけど、気がつくといつも、助けられてる。
そしてこの街に来てからは、いつもそばにいてくれる。
すごく、自然に。

あたしは松井の大きな背中、出会ったときと同じく「55」と背番号の入った紺色のTシャツを、じっとみつめていた。
不思議な気持ちが、あたしをいっぱいに満たしている。

この背中に・・・・・・
これからも、ずっとついていきたい。

「ハーイ、ナツキ。ヒデキ、ここよ~」

一番大きな木の下で、アンドリューの秘書、レベッカが手を挙げて合図する。ベストポジションを確保しておいてくれたのだ。

あたしは、大きく手を振り返した。

「レベッカ~! とうとう、ここまで来たよお!」

「おおっ、なんてこった。見てみろよ、ナツキ」
サムが遠くを指差して笑い出した。その先には、アンドリューの会社が入っているビルが
あった。

『祝◎サムとナツキのベーグル オープン◎』

横断幕が、下がっている。しかも異様に達筆な筆書きの日本語で。

「あーあもう。やめとけって言ったのに」
松井はあきれて笑っている。あたしもレベッカも、つられて大笑いになった。

楽しそうなあたしたちを見て、通り過ぎる人たちが、何事かと眺めている。

さあ、いよいよ店開き。

松井と並んで、ひとつひとつ、ベーグルをディスプレイボックスに入れ替えながら、あたしはふいに気がついた。

さっきからずっとあたしの中をいっぱいにしている、この気持ち。
ううん、違う。この気持ちは、けっこうまえから、とっくの昔から、あたしの中にあったんだ。

この気持ちがあったから、あたしはここまで・・・・・・来れたんだ。

いま、わかった。

あたしは、松井が・・・・・・
・・・・・・好きなんだ。
この人のことが大好きで、ここまで来たんだ。

そう気がついた。

そしたら、なんだか急に、涙がこみ上げてきた。
松井の呼吸や、笑い声や、すぐ近くの体温が、不思議なくらい、せつなく迫ってくる。

へんなの、あたし。
こんなことで、涙が出るなんて。
こんなことが、こんなに嬉しいなんて。
松井が好きだ、ってわかっただけで。

涙を飲み込んで、一生懸命にベーグルを並べながら、あたしは自分にこっそり誓う。

決めた。あたしの、次のステップ。

いつか、きっと告げよう。
この気持ちを、この人に。

この場所で。

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#75 二重マル

◎。

ってこれ、なんだと思う?

二重丸。はい、その通り。
いやいや、そうじゃなくて。
これ、松井がデザインしてくれた「Sam & Nackey’s Bagels(サムとナツキのベーグル)のロゴマーク。二週間近くあれこれ考えて、出てきたのが、これ。

『サムとナツキのベーグル』ブライアント・パーク完全制覇戦略会議(アンドリューが名づけた)で、堂々、発表された。

「おお!これは、ターゲット??」サムがすぐに反応した。
「まあ、そういう意味もある」と松井。自信満々だ。

「鬼太郎のオヤジだ」と、アンドリュー。どんだけ日本通なんですか王子様・・・・・・

「それに、『あーん』って口あけてる顔。だろ?」
アンドリューは、けっこうマンガ脳のようだ。でも、言われてみるとそうも見える。

「そして、ブライアント・パークからニューヨークじゅうに、アメリカ全土に、日本に、世界に広がっていく波紋・・・・・・」

続けて言いながら、遠い目になっている。
うわ・・・・・・いきなり世界視野。さすがです、副社長。

「君はどう見えるんだい、ナツキ?」
サムに聞かれて、うーん、とあたしはうなってみせた。だけど、ほんとは見てすぐに、答えはわかっていた。

「・・・・・・ベーグルのかたち」

あたしが言うと、「その通り!」と、松井は嬉しそうな顔になった。が、すぐに腕組みして、
「ってか、そう思わねえかフツウ? ベーグル屋のマークなんだからさ。的だの鬼太郎だの・・・・・・」
ぶつぶつ言っている。あたしたちは、顔を見合わせて笑った。

「でも、ま。全部当たりってとこかな。たくさんの人たちがこのベーグルをターゲットにしてパークにやってくる。あーんと大口開けて食べて、二重丸。でもって、ここから世界に広がっていく・・・・・・」

「鬼太郎はどこに出てくるんだ?」とアンドリューは食い下がっている。けっこう本気みたいだ・・・・・・


そんなわけで、◎のステッカーをいっぱい作って、準備期間中、ベーグルの袋にみんなで貼った。
「これも戦略会議の作業の一環だ!」と、アンドリューもぺたぺた貼ってくれた。けっこう、楽しそうに。

なんだか、信じられなかった。

こうしてニューヨークで、ひとつの目的に向かって、みんなで一緒に作業している。

ブライアント・パークでベーグルを売り出すことが、最初は究極のゴールだったけど。
いまは、大好きな人たちと一緒に、力を合わせて何かをする、そのプロセスこそが、何より嬉しかった。


そんな準備期間を経て、本日。

大きな◎が書いてある箱にベーグルを詰め込んで、あたしたちは3台のキャリーカートに箱を積み上げ、しっかりゴムバンドで固定した。
「初出荷には会社のリムジンを出す」とアンドリューは言ってくれたけど(そしてリムジンにも横断幕を下げるとまで・・・・・・)、サムのもともとの出勤スタイルで、キャリーカートと地下鉄でいくことにした。
そのほうが、ずっと、あたしたちらしい。

「じゃあ、初出荷だ。用意はいいかい、ナツキ?」
サムが言う。大きな目は、いつにも増してきらきら輝いている。
あたしは、大きくうなずいた。

松井はカートを引っぱりながら、あたしたちをビデオカメラで追っかけている。なんでも「メーキングビデオ」を作るんだそうだ。ほんとにもう、やめてってば・・・・・・

「おっ、ナツキ選手。緊張してます」

なんて、ヘンな実況中継まで入れてるし。

「笑って笑って。あ、いい笑顔です」

小学校の入学式に出かけていく気分。なんだか、くすぐったい。

いよいよ、始まるんだ。あたしの、あたしたちのドリームジョブが。

今日、ブライアント・パークで。

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#74 デビュー

一ヶ月後、午前十時。サムのアパート。

「おい、ちゃんと個数確認したか?」
松井の声が背中に飛んでくる。

大きなキャリーボックスには、透明のプラスチックの袋にきれいに包まれて、ベーグルがぎっしり詰め込まれている。

「数えたってば。プレーン30個、チーズ30個、ブルーベリー20個、それに・・・・・・」

「ヤキソバベーグル20個も」
楽しそうに、サムが横から付け足した。

「やっぱり」と松井は不満そうな声を出す。
「ヤキソバベーグル20個じゃ少なすぎだって。『ナツキのベーグル』はそれを看板にしたほうがいいって、何度も言っただろ」

「えーだってさあ。ニューヨーカーがヤキソバベーグルなんて(日本人でも食べたことのないようなシロモノ)受け入れてくれるとはあんまり思えないし・・・・・・」

サムがまた、口をはさむ。
「私も言っただろナツキ? ニューヨーカーは新しいもの好きなんだ。引っ込み思案にならずに、がんがんやっちゃえばいいんだよ」

ってとりあえず20個にしとこう、って言ったのはサムのくせに・・・・・・

「まあ、とにかく」
サムはあたしの白い目を避けるように、両手を勢いよく、ぱん、と合わせた。
「準備万端! いつでも行けるよ、ヒデキ」
「よしきた。じゃ、連絡するぞ」
松井は携帯電話をかけた。

「アンドリューか? こっちは準備OKだ。パークの、いちばんいい場所をスタッフに陣取ってもらってくれよな・・・・・・え、横断幕?」

な、なんですと?!

「ちょっ・・・・・かして!」
あたしはあわてて松井の手から携帯電話を奪った。

「もしもしアンドリュー? 何なの横断幕って?」
「ああナツキ。私の部屋の窓に『祝・ナツキのベーグル オープン』って書いた横断幕を張り出そうかなって思って・・・・・・あ、もちろん英語でだよ?」

あたしはアンドリューの日本語が理解できずに青くなった。
松井はお腹を抱えて笑っている。サムまで一緒に笑い出した。

「えーっやめてよもう! お願いだってば王子様っっ!!」
あたしは赤くなったり青くなったりして、ひとりであたふたしてしまった。

なんて日なんだろう。
なんてとんでもなくて、なんてどきどきして、なんて楽しい日なんだろう。

今日は、あたしのベーグルのデビューの日。
いつか、ブライアント・パークで・・・・・・と思っていた。
でも、もう違うんだ。

いつか、じゃなくて、今日。
今日、ブライアント・パークで。
あたしは、夢のベーグルを売り出すんだ。

サム直伝のベーグルが完成してから、今日まで。どんなベーグルを作っていくべきか、どうやってみんなに知ってもらうのか。あれこれサムと話し合ってきた。
準備に準備を重ねて、今日のこの日を迎えたんだ。

完成してすぐ、松井に食べてもらった。
超どきどきして、なんか告白する気分そのもの、って感じだった。

松井はひと言、「すげえ」と言った。
そのあとすぐに、「ヤキソバはさんでいい?」と言った。

まったく、なんなんだそのリアクションは?!

それから松井は、あたしのベーグルにはオリジナリティがある、だからヤキソバベーグルみたいな変わったオプションもありだと思う、と言ってくれた。

そしてそして、もうひと言、言ってくれたのだ。

おれにも、手伝わせてくれないかな。
「ナツキのベーグル」をみんなに知ってもらうために。

なんだか、告白されたみたいに・・・・・嬉しかった。

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#73 完成!

今度こそ、自分の人生を、自分自身で生きる。

そう宣言して、思いっきり泣いて泣いて泣き明かして、怜奈は日本へ帰っていった。
もとどおり、咲きほころぶ花のような笑顔――いや、それ以上に晴れ晴れと、夏空みたいにさわやかな笑顔になって。

「今度会うときには、夏輝に負けないような夢をみつけて報告するからね」
JFK国際航空で、別れるまぎわに怜奈はそんなふうに言っていた。

「当面は、そうだな・・・・・・アンドリューよりも松井さんよりもすてきな男子をみつけるとこから始めようかなっ」

って全然懲りてませんねお嬢さま・・・・・・

明るく手を振って、怜奈は出発ゲートのむこうへ姿を消した。

アンドリューも松井も、見送りにはこなかった。
ふたりとも、きっと会わせる顔がなかったのだろう。いや、もしかすると、胸がきゅんとなっちゃってたのかもしれない。

ふたりとも、ほんとは怜奈のことを、ちょっぴり好きだったんじゃないかと思う。
だってあたしが男子だったら、やっぱり好きになっちゃってたよ。

だから大丈夫だよ、怜奈。
きっとすぐに、あのふたりよりすてきな男子をみつけられるはずだよ。

そして、怜奈自身の夢も。


さてさて、あたしの夢。
あと一歩、ってところまできてる夢。
土俵際まで攻め込んで、あと一押しで押し出せる夢(ってなんでたとえが相撲なんだ?)。

とにかく。あたしだって、怜奈に負けてられない。

こうなったら、持ってる力のすべてを込めて生地を練るぞ。
でもって感覚の全部を研ぎ澄ましてオーブンに火を入れる。
そしてそして、心のぜんぶを込めて焼き上げる。

あたしのベーグルを食べる人たちの顔を思い描く。

怜奈。あんなに泣いて、「おいしい!」って言ってくれた。でもあれはまだ試作品。もっともっとおいしいのを作ってあげるからね。

お父さん、お母さん。うーんとうなって、ひと言も言葉が出ないくらい、感動的な一品を作ってみせる。でもって、それを捧げちゃうからね。

ややちゃん。「まじぃーっ??!!」って飛び上がっちゃうほどすごいの、作るよ。ふふっ、驚け驚け。

アンドリュー。「これは我が王国の公式の主食にしよう」と言わせてみせよう。なんちて、あはは。

そして・・・・・・松井。

完成したベーグル食べて、なんて言うのかな。
あいつだけは、ちょっと読めない。

「こんなもんか、ふーん」といつもどおりにぶっきらぼうかも。
「なかなかやるじゃん」とか言って、ぽんと肩を叩いてくれるかな。

「うまい」そうひと言、言ってくれるかな。

だとしたら、それがいちばん嬉しいな。
なにより、いちばん。

「・・・・・・ウマイ」

・・・・・・え?

あたしは、オーブンの前で、粉だらけなった顔を上げた。

目の前には、サムが立っている。焼き上がったあたしのベーグルを、いっぱいにほおばっている。

大きくて澄んだ目が、あたしをみつめている。
ほんのり驚きと、いっぱいの喜びが入り混じった目で。

「ウマイヨ、ナツキ。サイコウダ」

サムは、もう一度日本語で言った。
それから「Perfect!」と、短く付け加えた。

それは、あたしがずっとずっと待ち続けていた、ひと言だった。

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#72 泣いた。

息を切らしてたどりついたエレベーターホールで、開いたドアの向こうから現れたのは、怜奈だった。

「あれっ、夏輝? 戻ってきたんだ?」
今度は怜奈が、きょとんとあたしの顔を見ている。あたしは怜奈の腕を引っぱって、ホールの隅へ連れていった。

「怜奈。あ、あのさ・・・・・・アンドリューのことだけど。その、やっぱり・・・・・・」

あきらめたほうがいい。

さっき松井から聞いたそのひと言を、あたしはなかなか口にできなかった。
怜奈は、あたしが次に何か言うのを、じっと待っていた。けれど、あたしはずっともじもじしてしまった。

そのうちに、怜奈は、ふふっといたずらっぽく笑って告げた。

「付き合ってほしい、って言われちゃった」

あたしは、顔を上げて怜奈を見た。その拍子に、は? と口が開いて、そのまま固まってしまった。

怜奈。まんまと、だまされてる・・・・・・

「何もかも、正直に話してくれたよ。父の会社を買収しようとしてること、その情報を得るために、思わせぶりな態度をしてきたこと・・・・・・」

怜奈は、ぽかんとしたままのあたしの顔に向かって、淡々と語った。
「それで、あたしに戦略結婚なんてしてほしくない、って。自分が必ず父の会社を救うから、それを待っててほしい、って。そのプロジェクトに付き合ってほしい。そう言われた」

え・・・・・・

「付き合ってほしい、って、カノジョになってくれ、って意味じゃないの?」

怜奈は首を振った。それから、少し寂しそうな笑顔になった。
「残念ながら」

「そんな、ひどいよ。それじゃ、怜奈の気持ちはどうなるの。結婚するな、って言っておきながら、べつにカノジョになってほしいわけでもない、って・・・・・・・自分勝手すぎない?!」
やっぱり、そのへんは王家の血筋なんだろうか。
あたしはまたしてもバイオレントな行為に及びそうになるのを、ぐっと手を握りしめてなんとかとどめた。

が、意外な言葉が返ってきた。
「ううん。最高の結末、になったと思う」

そして、寂しそうな笑顔を、いつものように花がほころぶような明るい笑顔にすりかえた。

「アンドリューの会社に買収されるなら、父も本望だと思う。いつかは海外の会社と提携して、事業を広げたがってたし。それに、もし買収が成立するなら、あたしはもう、結婚を強いられることもなくなるわけだし」

怜奈の目が、きらきらと光っている。
あたしは握りしめていた拳をほどいて、聞いた。
「じゃあ、婚約破棄・・・・・・するの?」

怜奈は、こくんとうなずいた。

あたしは、なんだか胸がいっぱいになってしまった。

怜奈の思いは、結局、かなわなかった。
アンドリューに受け入れられることもなく、親の決めた相手にも、怜奈は自分から別れを告げる覚悟をしたのだ。

そんな寂しい結末で、ほんとうに怜奈はいいんだろうか。

「あたし、アンドリューに感謝してる」

ロビーへと並んで歩いていきながら、怜奈がぽつりとつぶやいた。

「もしも彼が、買収の件を秘密にして、あたしを受け入れたとしたら・・・・・・もっと悲しい結末になってたよ。全部正直に話してくれて、その上、あたしを自由にしてくれた」

怜奈は、ふと立ち止まった。
大きな瞳から、幾筋も涙を流して、怜奈は立ち尽くしていた。

「夏輝。あたし、今度こそ、生きていけるよね。自分の、自分自身の人生を」

そう言って、あたしに抱きついた。

怜奈は、思いっきり泣いた。
ぴかぴかに磨かれた大理石の床の上、かっこよくスーツを着こなしたビジネスマンが、颯爽と行き交うロビーで。

みっともないほど、すがすがしいほど、怜奈は泣いた。
こっちまで、めちゃくちゃ泣けてくるほどに。

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#71 ワルいやつ

あきらめたほうがいい。

って、どういう意味?
松井、もしかして、怜奈のこと・・・・・・

・・・・・・好き、だったの?

ずうううん・・・・・・・

って、なんなんだ、この音。
あたしの、胸の中。急に重たくなる音だ。
まるで、戦艦級の巨船が、ずっと凪いでいた心の海に進入してきたみたいだ。

松井が、怜奈のことを・・・・・・
松井が・・・・・・

「あきらめたほうがいいな。怜奈ちゃん、アンドリューのこと」

あたしが急激に重たくなっていることにまったく気づきもせずに、さばさばと松井が言った。

え・・・・・・

「ええっ?! 松井が怜奈をじゃなくて?! 怜奈がアンドリューをっ??!!」

文脈不明なことを、あたしは口走った。
松井はきょとんとしている。あたしはたちまちまっかっかになってしまった。

「いやあの、ってか、なんで? なんで怜奈とアンドリューはだめなのっ?!」
あわてて聞いてみた。松井はちょっとフクザツな表情になったが、
「怜奈ちゃんには、言わないでほしいんだけど」
と前置きしてから、白状した。
「アンドリューは、もうずいぶんまえから、怜奈ちゃんのお父さんの会社の買収を狙ってるんだ」

バイシュウ?

今度は、あたしのほうがきょとんとなった。が、すぐに、あっと気がついた。
「それって・・・・・・つ、つまり怜奈を利用して、内部情報を得ようとしてる・・・・・・とか?」

松井は、うなずかなかった。けれど、表情からはすっかり笑みが消えていた。
いつもの松井らしくない、厳しい顔。

「そんな・・・・・・じゃあ、怜奈はだまされたってこと? あんなに好きで、ニューヨークまで飛んできたのに・・・・・・」
「いや。だましたわけじゃないよ。それとなく情報を得る素地は作ったけど、だましたり利用したりしたわけじゃない。あいつはそこまでワルになりきれないやつなんだ」

あたしは、突然思い出した。
アンドリューは、たしか怜奈に、結婚に興味ある? とか聞いたりしてた。
怜奈のバックグランドを、あれこれあたしに聞きもした。
「結婚するのはまだ早い」とも、怜奈に言ったんだ。

気があるようなふりをして、決して一度も「好きだ」とか「付き合おう」とか言わなかった。
それは全部、内部情報を聞き出すための準備だったんだ。

それだけでも、十分ワルじゃないか。

あたしは、右手に握っていた空の紙コップを、ぐしゃっとつぶした(なんでもいいからバイオレントな行為に及んでみたかった)。

「あんのヤロォ・・・・・・ゆるせないっっ!!」

松井が「うわ・・・・・・」とリアルに引くのがわかる。あたしが火炎をしょって立ち上がったのが、やつには見えたに違いない。

「ちょっ・・・・・・おい、どこ行くんだよ?!」

松井の声を振り切って、あたしは走り出した。

許せない。あの、偽王子。
自分に恋心を寄せる女子の気持ちを利用するなんて、王家の人間がすることじゃないっ。
こうなったら、なんとしても怜奈にあきらめさせなくちゃ。

さっきまで怜奈の恋を応援しまくっていたあたしは、いきなり真逆のベクトルに暴走し始めた。

あたしは息を切らして、アンドリューの会社のビルのロビーに飛び込んだ。

すぐにでも、怜奈を連れ出さなくちゃ。
そしてすぐにでも、アンドリューをとっちめてやるッ。

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#70 密談

「うわっ! な、なんで?」

あたしはとんでもなくうわずった声を出してしまった。
だって、なんだかゼツミョーなタイミングじゃないか?!

「なんでって・・・・・・そりゃこっちのセリフだろ。なんであんたがここにいんの?」
「そ、それは・・・・・・」

何人かの人が乗り込んできた。松井はあたしの腕を引っぱって、エレベーターの外へ連れ出した。

あたしは頭の中が真っ白になるくらい、急にドギマギしてしまった。

毎日見ている顔なのに、毎朝送ってもらっているくせに、こういう想定外のシチュエーションでばったり会うと、ドギマギしてしまうのは何故なんだろう。

「あ。さては、サムの修行をサボって、アンドリューと密談か?」
あたしは自分でもおもしろいくらいあわてて打ち消した。
「ちちちっ、ちがうっ! んなわきゃないでしょっ! こんなでっかい会社の副社長様と密談できるほど、あたし大物じゃないし!」
松井は、あはは、と心底おもしろそうに笑った。
「そりゃそうだ。でも、なんで? ここにいるってことは、アンドリューに会いにいったってことだろ?」
そう言われて、あたしは返答に詰まった。

怜奈が急にこっちへ来ていること、もうすぐ結婚すること、でもアンドリューを思い切れずに悩んでいることを、松井に聞いてもらいたい気がした。そして、できることなら、松井にもふたりの仲を後押ししてもらいたいような。

でも、怜奈に断りもなしに、松井に話してしまってもいいもんだろうか。

「やっぱり。密談だな」
もう一度言われて、あたしの胸はちくんと痛んだ。

松井に隠れてアンドリューと何かこそこそやっている。松井にそう思われるのが、たまらなく悲しかった。

違う、ともう一回打ち消そうとした瞬間、
「秘密のおしゃべりか。アンドリューと、怜奈ちゃんの」
松井が言った。

あたしは驚いて松井を見た。
「なんで知ってるの?」
にっと笑って、松井が返す。
「三分前に、電話があった。おれ、これからあいつとミーティングの予定だったからここに来たんだけどさ。『レナが来てるから、キャンセルにしてくれないか』ってね。そこにエレベーターが到着して、あんたが出てきた」

あたしは言葉に窮して、松井をみつめた。
なんて言ったらいいか、わからなかった。
あっちも、こっちをみつめている。

たぶん、ほんの数秒のことだったと思う。でも、あたしはずいぶん長いこと、この瞳、ちょっと涼しげで、わりとやさしくて、けっこう澄んだ瞳をみつめ続けているような気持ちになった。

口もとにふっと笑みを浮かべて、松井が言った。

「なんかでいっぱい、って顔してる。このさい、全部出しちゃえば?」


あたしたちは、午後の光があふれるブライアント・パークの芝生の上に、並んで座った。

初めて会ったときのように、松井がコーヒーを買ってきた。
のどかな春の空気の中で、あたしは怜奈の一件を松井に話した。
松井はずっと黙って聞いていたが、あたしの話が全部終わると、「そうか」と、ため息をついた。

「そうとう思い詰めてるよな」
あたしはひとつ、うなずいた。

「ほんとに好きなんだなあ、怜奈ちゃん。あいつのこと。あーあ、残念。おれじゃないのかあ」

そう言って、笑っている。あたしは、どきっとしてしまった。

もちろん、いつもの松井ジョークだろうけど。軽いノリで言ってるんだろうけど。
今日のあたしは、なぜだか、松井の言葉のひとつひとつにずきんずきんとしてしまう。

「・・・・・・あきらめたほうがいいな」

誰に言っているともわからない口調で、松井がつぶやいた。

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#69 好きだった、よね?

ブライアント・パークから徒歩2分の場所に、アンドリューの会社が入っている高層ビルがある。
あたしは怜奈をロビーまで連れていってから、アンドリューの携帯に電話をかけた。
ガラスに囲まれた吹き抜けのアトリウムを、怜奈は不安そうな目で見回している。

「待ってたよ、ナツキ」
いつもどおりの流暢な日本語で、電話口のアンドリューはいきなりそう言った。
「できたんだね、試作品。今夜、ディナーのあと10時からなら空いてるよ。ヒデキより先に、私に食べさせてくれるんだよね? じゃあ、待ち合わせ場所は・・・・・・」
「ちょ、ちょっと待った!」
あたしはあわてて暴走するアンドリューを止めた。まったく、人の話を聞こうって気が全然ないんだなあ、王家の人ってのは。

「いますぐ会いたいんだけど。ちょっとだけ、時間ある?」
「わかった。いま、オーブンから出てきたやつをデリバリーしてくれたんだね。そうこなくちゃ。アシスタントを迎えによこすから、私の部屋まできてくれるかい? 手を洗って待ってるよ。ああ、楽しみだ。じゃあね」

ってどんだけ食いしん坊なんですか王子様?!


副社長室のドアの向こうには、白いクロスをかけたテーブルの前で、白いナプキンをネクタイの襟元に突っ込んでいるアンドリューがいた。

「やあ、ナツキ。ベーグルは・・・・・・」
そう言いかけて、前面笑顔をドアのほうへ向けたアンドリューは、そのまま固まってしまった。

「れ・・・・・・レナ?」

あわててナプキンをはずすと、こわばった笑顔を作って、アンドリューはあたしたちのところへ歩み寄った。

怜奈はちょっと笑みを浮かべたが、こっちもやっぱりこわばってる。まともにアンドリューの顔が見られないみたいで、すぐに顔をそらしてしまった。

「どうしたんだい? ずいぶん急に来たんだね。メールで教えてくれれば迎えの車を出したのに」
怜奈はもじもじしている。そして、あたしに助けを求めるような目を向けてきた。あたしは祈りを込めた目で見つめ返した。

がんばれ、怜奈。
ここから先は、ありったけの思いを込めて伝えるんだよ。

「あの、あたし、仕込みの途中なんで。もう帰らなくちゃ」
あたしの言葉に、ふたりともすがるようなまなざしになった。
「じゃあね。怜奈、あとで電話、ちょうだい」
絡みつく視線を振り切って、あたしは部屋を出た。

怜奈の思いが、伝わりますように。
まるで自分がいまから告白するみたいに、胸が高鳴ってしまった。
大きく息をつくと、あたしはエレベーターに向かって長い廊下を歩き始めた。そして、エレベーターホールに到着するまでに、あれ? 
と気がついた。

あたし、アンドリューのこと・・・・・・
・・・・・・好き、だったよね?

ガラスのエレベーターが、するすると降下していく。ずっと下に見えていたブライアント・パークの緑が、みるみるうちに近づいてくる。
あたしの胸は、なんともいえない、不思議な気分でいっぱいになる。

好き、だったと思う。
アンドリューのこと。

だって、怜奈も彼のこと好きだって知ったときは、こりゃあ勝ち目ないや、ってけっこうショックだったし。
真夜中に誘い出されて、あんなにドギマギして、勝負パンツを探し回ったりもしたし。

もちろん、いまでも好きだ。でも、あの頃の好き、っていうのと、ちょっと違う感じ。

ワンウェイな王子様ぶりがおもしろいっていうか。一緒にいて楽しめる、そうだな、別格の友だち、なのかな。

いま、あたしが好きなのは。
あたしの心の中を、けっこうな面積で占めているのは。

地上階に到着した。ドアが音もなく開く。
そこに現れた顔を見て、あたしの心臓は転がり落ちそうになった。

松井、が目の前にいたのだ。

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#68 涙の理由

涙の理由を、ふたつ、怜奈は教えてくれた。

ひとつは、あたしのベーグルが、泣けるぐらいおいしかったっていうこと。

いままでもあたしが作ったパンやケーキははんぱじゃなくおいしいと思っていたけど、今回ばかりは「やられた」と言う。
それって、最大級の褒め言葉だよ。嬉しい・・・・・・

もうひとつは、夢を確実に実現しつつあるあたしに比べて、自分の非力さが悲しくなったってこと。

自分はやっぱり、親の敷いたレールに乗って人生をのろのろと進むしかない。

そんなふうに悲観して、どうにもこうにもむなしくて、ニューヨークまで来てしまった。
そんなふうに、怜奈は打ち明けた。

「来週、結納なの」
涙をハンカチでふきながら、怜奈が言う。
「もうとっくにあきらめてたんだけど・・・・・最後に直接、アンドリューに会って、気持ちだけは伝えたほうがいいかな、って思っちゃって・・・・・・来ちゃったの。夏輝にも会いたかったし」

あたしは怜奈の肩に手をおいて、聞いてみた。
「こっちに来てること、アンドリューは知ってるの?」
怜奈は首を横に振った。
「メールでずっとやりとりはしてたんだけど・・・・・・アンドリューはあたしに興味があるふうなこと、いろいろメールに書いてくるんだけど、あたしのこと好きなのかどうなのか、ちっともわかんなくて」

「結婚すること、話したの?」
今度は、首をたてに振った。
「つい最近のメールで。そしたら、『まだ決めるのは早い、僕の話も聞いてくれ』って」

それでどうにも我慢できなくなって、怜奈は飛んできてしまったのだ。

そんなに、思い詰めてたんだ。
あたしは、とっさにどう返していいかわからなくなった。

いつも太陽のように輝いて、男の子たちの中心に座っていた怜奈。可愛くてわがままなお姫様。何不自由ない暮らしをして、こうして思い立ったらすぐニューヨークへ飛んでこられるくらい、経済的にも恵まれている。結婚相手だって、きっと世間的にはこれ以上ないくらい恵まれたバックグランドを持つ人なのだろう。

それなのに、いまの怜奈はちっとも満ち足りていない。
ほんとうに好きな人に「好き」の一言も言えずに、苦しんでいるのだ。

「ねえ、怜奈。これからすぐ、アンドリューに会いに行きなよ」
あたしは怜奈の背中をそっと撫でて、そう言った。
「もうこれ以上、先延ばしにしちゃだめだよ。一分でも一秒でも早く、伝えたほうがいい。せっかくここまで来たんだから」

怜奈はうるんだ大きな瞳をあたしに向けた。

「でも・・・・・・そんなのって、迷惑じゃないかな」
「何言ってんの、怜奈らしくないよ。あたしがアンドリューだったら、とりあえず感動する。『好きだ』って言うためにわざわざ来てくれたなんて。その思い、受け止めたくなるよ」

受け止めてよね、アンドリュー。じゃなかったら・・・・・
いずれマイベーグルが完成しても食べさせないからなっ#

怜奈はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
あたしはほっと息をついた。

「よしっ。じゃ、あたしが連れてってあげる。すぐそこだから」
「え? で、でも・・・・・・電話ぐらいしたほうが、よくない?」
「いいんだってば。アポなしのほうが喜ぶタイプなの、彼は」

今度はこっちから、サプライズ攻撃する番だ。

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#67 試作品

翌日。

あたしはサムに早退のお願いをして、午前中の仕込みをしただけでサムのアパートを出た。

地下鉄に乗って、タイムズスクエアを横切って、一直線にブライアント・パークまで走っていった。

ランチタイムのパークは、いつものようにビジネスマンやら学生やらでにぎわっている。五月の明るい陽だまりの中、思い思いにランチを広げている。

「怜奈っ!」

アイスクリームショップの前に、怜奈がたたずんでいる。あたしをみつけると、たちまち笑顔がこぼれた。

「夏輝! うわーっ、ほんとに元気そう!」

あたしが駆け寄って飛びつくのを受け止めて、怜奈も嬉しそうに声を上げた。

「びっくりしたよ。『明日そっちに行く』とかじゃなくて『いまこっちに来てる』なんて言うんだもん。まったく、どういうこと?」
「ごめんごめん。びっくりさせようと思って」

怜奈はちょっとだけ決まり悪そうな笑顔になった。
その瞬間、あたしは直感した。

怜奈。何か、あったんだな。
結婚、のことかな・・・・・・

あたしたちは、エンパイアステートビルが眺められる芝生の真ん中に並んで座った。

「それで、どう? 修行の成果は」
怜奈に言われて、あたしはにこっと笑い返した。そして、トートバッグの中から茶色い紙袋を取り出した。

「はい。これ、食べてみて」

怜奈の両手に、ぽん、と紙袋を乗せた。
「あったかい・・・・・・」
怜奈はつぶやいて、袋を開けた。がさがさと、手を差し入れる、

「わあ」

ほかほかの、プレーンベーグル。

「これ、夏輝が?」
あたしは、こくん、とうなずいた。
怜奈は手にとって、まるで骨董品でも検分するみたいに、いろんな角度からそれを眺めた。あんまりていねいに鑑賞するもんだから、あたしはなんだか照れくさくなってしまった。

「やだなあ。そんなたいしたもんじゃないよ」
「だって、夏輝の作った夢のベーグルでしょ?すみずみまで、よく見たくて」

思う存分眺めたあと、「いただきます」と両手を合わせて、ぺこんと頭を下げた。それから、ぱくん、と勢いよくかじりつく。

あたしは内心、どきどきだった。

実は、まだ松井にもアンドリューにも試作品を食べてもらっていない。唯一、サムだけが食べていた。
「なかなかいいね」と言ってくれていたが、まだまだなんだ、とわかった。
「サイコーだよ」の一言が出るまで、完成じゃないんだ。

サムの満点が出るまでは、松井たちに食べてもらうわけにはいかない。とはいえ、サム以外の誰かの意見も欲しかった。できれば、いちばん食べてもらいたい人に。

怜奈はずっと無言でベーグルを食べ続けた。最初はいつもの怜奈らしく、小さな口を一生懸命動かして、もぐもぐもぐもぐ。でも、一個目を食べて、すぐ二個目に移ると、ぱくぱくぱくぱく、と軽快に。最後のひとかけらを、ごくん、と飲み込むと、

「ああーっ、うまっ!!! サイッコーッ!!!!」

と、両手を空に突き上げて大声を出した。

あたしはまじでひっくり返りそうになってしまった。だって、お嬢さま然としたいつもの怜奈じゃないんだもん。

「夏輝、やったね! 最高傑作だよ! あたしの人生で、最高のベーグルだった!」

そう言うと、怜奈はあたしにぎゅっと抱きついた。
期待以上のリアクションに目を白黒させつつも、怜奈が本当に感動しているのを感じて、あたしは嬉しくなった。

「ありがと、怜奈。実は、サム以外にあたしのベーグル食べてもらうのは、怜奈が初めてなんだ。だから・・・・・・」

怜奈はあたしにじっと抱きついたまま、動かない。

「怜奈・・・・・・?」

友は、静かに涙を流していた。

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#66 メール

Dear 怜奈

元気ですか? あたしはもう、元気すぎてヤバいくらい。
毎朝、目覚めるたびに「あー、いまニューヨークにいるんだ! 夢みてるんじゃないよね?」と自問自答してます。だって、間借りしている松井のアパートの窓からはブルックリン・ブリッジが見えるし、サムのところへ通う道々、デリでベーグルが買える。こんな夢みたいな状況のなかで、世界一大好きなサムのベーグルを勉強できてるなんて・・・・・・ほんと、夢以外のなんでもないって感じ。

サムのベーグルを学び始めて一ヶ月が経ちました。
けっこうキビしく仕込まれてます。
なんせ、あのモッチモチの感じを出すには、ハンパじゃなく力がいるし、絶妙なオーブンの火の入れ方とか、焼き上がりのタイミングとか、「デイリー・ベーグル」の“いかに安くたくさん作るか”ってポリシーとは違うんだよね。できあがりをしみじみ眺めて「うーんちょっと違う・・・」なんてつぶやいたりするのは、なんだか陶芸の世界に近いような(って別に陶芸やったことないけど)。

とにかく「そうだったんだ!」っていうことばかり。毎日が新鮮で、刺激に満ちています。
そうそう、酵母だって手作りしなくちゃいけないんだよ。「自分と相性の合う酵母をみつけるんだよ」なんてサムは言ってます。まるで生物学の教室みたい。
それに、発酵させるとき、生地にニューヨーク・ジャズを聴かせるのもポイント。サムはデキシーランド・ジャズとかニューオリンズ・ジャズとかいろいろ聞かせてみて、「やっぱりニューヨークで録音されたCDをPLAYしてるときがサイコーの出来上がり」だって気づいたそうな。
「ナツキは日本のソウル・ミュージック聴かせてやったらいいんじゃない?」なんて言われてしまった(それって和田ア●子かな・・・・・・)。
そんなわけで、とびきりのベーグルを作るためには、まずジャズの勉強もしなくっちゃ!って感じなんです。

松井もアンドリューも、ありがたいことに、そんなあたしを応援してくれています。
前回怜奈に送ったメールにも書いたけど、あのふたりは結構苦労人で、ベーグルスタンドでのバイトが縁でいまのふたりの関係が始まったじゃない? だから、ベーグルに対する愛情は人一倍なんだよね(どっちかっていうとかなりの偏愛といったほうがいいな・・・・・・)。

松井は毎朝、ブロンクスのサムのアパートまであたしを送ってくれてから、マンハッタンのデザイン会社に出勤。早寝早起きになったからか、はたまた毎日食べるサムのベーグルのせいか、なんだかミョーに健康になって、くやしいことににお肌の調子もいいみたいで、ツヤピカで生き生きしちゃってるの。「サムに感謝しなくちゃなあ~」って毎朝地下鉄の中で言ってます。ってきっかけ作ったあたしに感謝しろよ!
なーんてね。毎朝、懲りずにつきあってくれる松井に、あたしのほうこそ感謝感謝、です。

アンドリューは「水戸一マンハッタン計画」なんてのを勝手に作って盛り上がってる(笑)。まあ、もちろんジョークなんだけど、F社の買収以来、日本のベーカリーや小売の形態にすごく興味があるみたい。
そういえば、いつも怜奈のことを気にかけてるよ。「レナは「いつこっちに来るんだ?」ってね。なんだか直接会って話したいことがあるみたいだけど・・・ 近々連絡するって言ってました。

と、まあ、自分の近況をつらつら並べてしまいましたが、そっちはどう?
もしや、結婚の話、進んじゃってるのかなあ・・・なんて、気にかかっています。もちろん、怜奈が自分で決心したことなら、あたしになんだかんだ言うすじあいは全然ないんだけど。いま、どんな状況なのか、よかったら知らせてください。

早く、怜奈に食べさせてあげられるベーグルを作れるように、がんばるからね!
では、では。           夏輝


夜11時、松井のアパートのあたしの部屋で、怜奈にメールを打つ。
『送信』キーを押して一分後に、携帯が鳴った。

「夏輝?・・・・・・あたし。ごめんね、遅くに」

消え入るような声。怜奈からだった。

「怜奈?! うわっ、ひさしぶり! たったいま、メールしたとこなんだけど」
あたしが興奮気味に言うと、
「うん。いま読んだ。だから電話した」
と、少しだけ力のこもった声になった。

そして、想定外なことをあたしに告げた。

「夏輝、あたしね・・・・・・実はいま、マンハッタンに来てるの」

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#65 サムのベーグル

さて、いよいよサムのベーグルづくりが始まる。

ずっと観たかった映画が始まる。
ずっと聴きたかったアーティストの新譜が流れる瞬間。
ずっと読みたかった本の1ページ目を開く。
そんな気持ちで、ワクワクと、あたしはサムの横に立った。
あたしのワクワクが伝わるみたいに、松井もそわそわしてる。

「さて、まずは・・・・・・」
と、サムは材料に手をかけようとして、
「ちょっと待った。ナツキ、そりゃいったいなんだ?」

あたしは出鼻をくじかれて、サムを見上げた。
「え? こ、これ? えーと、ノートとペン、デジカメ、ボイスレコーダー・・・・・・」
サムは困りきった顔になった。
「おいおい、学校の講義じゃないんだぞ。記録してどうするんだ。職人を目指すなら、頭でっかちにならずに心と体で覚えるんだ。いいね?」

そう言われて、しょんぼりしたのは松井だった。あたしのほうはニヤッとしてしまった。だって記録グッズは全部松井に持たされたんだもん。

あたしは記録グッズをトートバッグに放り込むと、「はい!師匠」と、大きな笑顔を作って見せた。サムは「それでよし」というふうに、うなずいた。

強力粉と、塩と砂糖、ドライイーストを、ボウルの中で軽くかき混ぜる。粉とお湯を少しずつ混ぜ合わせ・・・・・・

こねる。

うわっ、すご。台の上で、サムはがっがっがっ、ぐっぐっぐっと生地を勢いよくこねた。すごい迫力。ほとんど格闘技だ・・・・・・

「こうやって、生地に愛をこめるんだよ、ハニー」
いや、私には憎しみをぶつけているように見えるんですが・・・・・・

「さあ、ナツキもやって。ヒデキ、君もだ」
「え? おれも?」
「三人分の愛情をこめたほうが生地も膨らむだろ。むっちむちのグラマラスなベーグルに仕上げなきゃ」

グ、グラマラス・・・・・・あたしとま逆ってことか・・・・・・

急きょ松井もサムのエプロンをつけた。
おっ、なかなか似合ってるじゃん?

しばらくは三人で、ベーグル相手に大奮闘した。
松井は手の甲で汗をぬぐって、顔を粉だらけにしてる。
ふふっ。なんだか、かわいい。

それからサムは、棒状に分割した生地を、器用な手つきで輪っかにしていった。みるみるうちに、「ベーグル・サム」のベーグルの原型ができていく。
わあ、と思わず声を上げる。

輪っかになったベーグルの生地は、全部同じように見えて、ひとつひとつに個性がある感じがする。
あたしもサムの見よう見まねで、丸めてみた。

「あれ? 松井、やんないの?」
松井はあわてて首を振った。
「いや、こっから先はサムの聖域だから」
確かに。
あたしも自分で作るより、とにかくサムの作業を見ていたかった。ほとんど芸術的な手さばきを。

発酵させる準備が整った。

「さて、ベンチタイムだ」
サムは手を洗うと、おもむろにリビングへ出ていった。とたんに軽快なトランペットとピアノの音が、大音量で聞こえてくる。
サムが、ジャズのCDをかけたのだ。
あたしは飛び上がりそうになった。

「うわっ・・・・・・サム、これ大丈夫? 音大きすぎない?」
「何言ってるんだハニー? ブロンクスの住人はこれっぽっちの音じゃびくともしないさ」

あたしと松井は、顔を見合わせて笑った。
「なるほど。ここじゃ、パトカーは呼ばれないんだ」
あたしがくすくす笑いながら言うと、
「もっとコワいことがない限りはね」
松井がブラックなことを言う。

「うちのベーグルは、こうして発酵するときにジャズを聞かせてやるのさ。ニューヨークで録音した、とびきりクールなやつをね」
そう言ってサムはウインクした。

へえ、そうだったんだ。

ニューヨークで一番クールなベーグルになるように、ジャズを聞かせる。

まさに、サムならではの隠し味だった。

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#64 朝の地下鉄

こうして始まった、あたしのニューヨーク生活。

サムのアパートに通って、まずはベーグルづくりを学ぶ。そのためには、多少不便なことや肉体的にキツいことはがまんしなくちゃ。

六時起床。六時十五分には家を出る。
駅前のデリでコーヒーとベーグルを買ってかじりながら、地下鉄に乗る。
ほんもののニューヨーカーになったみたいで、ちょっとわくわくする。

「って、あんたやたらさわやかそうなんだけど。いいよなあ。こっちは早起きなれてないってのに、ったく」

と、地下鉄に揺られながら、隣で大あくびを連発する松井。
なんと松井は、毎朝あたしを、サムのアパートまで送ってくれているのだ。

このありがたくもとんでもない申し出を松井がしてくれたとき、さすがにあたしは遠慮し