黒くて異様に長いストレッチ・リムジンが、JFK国際空港に到着した。
「いやあ、こんなセレブな車、生まれて初めて乗ったけど、なかなかいいもんだなあ。気分はマイケル・ジャクソンだ」
上機嫌でサムが車から出てくる。もちろん、あたしだって生まれて初めてだ。さしずめ気分はパリス・ヒルトンってとこかな。
「『凱旋』して帰ってきたときは、ご希望とあればもっとすごいクルマを手配するよ」
サムに続いて出てきたアンドリューが、楽しそうに言う。まったく、馬車でも用意しかねないなこの人は・・・・・・
「私もこっちの仕事が片付いたら、日本へすぐ飛ぶから。あ、レナからもメールが来てたな。君たちの迎えの車、成田に着けとくって・・・・・・日本での会議のアレンジメントも全部彼女がやってくれて、助かるよ」
アンドリューは、やっぱり新しい冒険でも始まるみたいな口調で、わくわくと言った。
そうなのだ。日本で、怜奈があたしたちを待っている。
あたしたちの新しいプロジェクトを支えるべく。
アンドリューの会社は、今年初めに怜奈のお父さんの会社を破格の好条件で買収し、去年買収したF社と合併させた。
それによって、新しいスーパーの形態―飲食テナントが充実した新型スーパーマーケット―を実現させようとしていた。
その新会社に、なんと怜奈がプロジェクトリーダーとして採用されたのだ。もちろん、アンドリューの采配で。
そしてなんとなんと、私の父までが、引き抜かれたのだった。ベーカリー部門商品開発マネージャーとして。
さすが王子。その後光は関係者の子々孫々(ってか親だけど)まで及ぶという・・・・・・
サムとあたしは・・・・・・というと、特にその新会社と何かをする、ってわけじゃない。
もちろん、アンドリューは「資金の協力をする」「東京に店舗を出す場所を確保する」などなど、色々に言ってくれた。
だけど、あたしとサムは、「じゃあ、いずれ将来的に」と約束をして、まずは自分たちで始めてみることにした。
そう―あたしたちの「◎」が、東京でどのくらい通用するのか、まずは自分たちで試してみたいのだ。
ブライアント・パークでの売り上げ貯金で、あたしたちは小さなワゴン車を買って、そこにオーブンを備え付けて、移動式ショップを始めてみることにした。
車や場所のリサーチは、すでに怜奈とややちゃんが開始してくれている(ややちゃんは、デイリー・ベーグルを辞めてそっち手伝うから!と言ってくれている)。
そして、まずは代官山の西郷山公園の横あたりから、始めてみたいと思っている。
あたしたちの、新しい挑戦。
ニューヨークと、ここで出会ったたくさんの人たちとしばらく別れるのは、とても寂しい。
でも、きっとまた帰ってくる。そのときは、アンドリューが言う通り「凱旋」だ。
出発ロビーで、あたしはきょろきょろ頭を巡らせた。そして、人混みの中、必死に目を泳がせた。
あたしが探していたのは、背番号55。
来てくれないの?
松井秀喜。
きのう、ブライアント・パークで別れ際に「今夜は徹夜で仕事になるかも」と言っていた。あたしは最後に、いっぱいいっぱい、話がしたかった。
そしてもしも、一瞬でも勇気が湧いたなら、その瞬間を逃さず、告げよう、と心に決めていた。
好き、とひと言。
一晩中、どきどきして待った。けれど、何時になっても、朝になっても、結局松井は帰ってこなかった。
あたしは、ちょっとだけ神様を恨んだ。
こんなにまじにどきどきして待ってたのに。ひどいよ神様、って。
でも、すぐに思い返した。
いや、違う。これは、また帰ってこい、っていう神様のはからいなんだ。
もう一度、この懐かしい街に帰ってこれたら。
それが、そのときなんだ。
「あれ。あそこにいるの、ヒデキじゃない?」
レベッカが、人混みの向こうを指差した。あたしは夢から覚めたみたいに、レベッカのブロンズのネイルが指す先を見た。
いた。あいつだ。
松井がベーグルスタンドに立って、ベーグルをかじっている。あたしたちをみつけて、軽く手を挙げて合図している。
サムとアンドリューは、一緒に笑い出した。
「ったく。この期に及んでベーグル食べてるのか、お前は」
アンドリューがさもおかしそうに言う。
松井は食べかけのシナモンベーグルを一気食いして、「これ、なかなかうまいぞ」と言った。
いつも通りだ。まったく、いつも通りの松井。
ひょうひょうとして、ちょっととぼけて、楽しげな、背番号55。
「来て、くれたんだ・・・・・・」
あたしはようやく、そう言った。
嬉しかった。涙が出るほど。
松井はあたしをじっと見ていたが、茶色い紙袋をあたしに向かって、ほら、と差し出した。
「飛行機の中で食えよ」
あたしは黙って、紙袋を受け取った。
ほんのりと、あったかい。あたしはそれを、胸にぎゅっと抱いた。
「ありがとう」
そうつぶやくのが、せいいっぱいだった。
松井は、ふっと笑顔になった。
口もとに、パンくずがついている。あたしは、ぷっと噴き出した。
「なんだよ。人の顔みて何笑ってんだよ」
なぜだかあたしは、笑いが止まらなくなった。笑いすぎて、泣き出しそうだった。
ほんと、キマんないやつ。
最後まで、デリカシーのないやつ。
どこまでも、あったかくて、大きいやつ。
やっぱり、あたしは、この人が・・・・・・
・・・・・・・大好きだ。世界で、いちばん。
もうどれくらい、飛んだだろうか。
照明を消したキャビン、あたしの隣で、サムはすやすやと眠っている。大きな体を狭いシートに突っ込むようにして、だけど不思議なくらい平穏な寝顔で。
初めてニューヨークへ行ったときのことを、あたしはふいに思い出す。
確かあのとき、あたしはすっかり興奮して、ちっとも眠れなかったんだ。
そうして着いたニューヨークで、あたしはブライアント・パークにたどりついた。
そして、出会ったんだ。
サムに、アンドリューに・・・・・・松井に。
こっそり、茶色の紙袋を取り出す。がさごそ、開けてみる。
プレーンベーグルが、ひとつ、入っていた。取り出してみる。
半分にスライスされたベーグル。真ん中に、紙ナプキンが挟まっている。
あれ・・・・・・?
ナプキンには「◎」が印刷されている。その横に、走り書きがある。
ちゃんと帰ってこい
ブライアント・パークに、
じゃなくて
おれのところに。
ほんのり、バターの香りがあたしを包む。
こぼれそうになった涙を、あたしはあわてて飲み込んだ。
東京に着いたら、すぐに電話をしよう。
あのね松井。言いそびれたひと言が、あるんだ。
だからそれを告げるために、あたし帰るから。
そのひと言を、あなたにきっと告げるから。
それが、そんなに遠くない未来でありますように。
きっと、いつか・・・・・・ブライアント・パークで。
◎END◎